本部異動

ノートPCの手前にマーカーだらけのテキストを置く。

そうするといつもそのレトロな教卓にスペースは無くなる。

PCの横に無造作に置かれたマイクを手に持ち電源をオンにする時に、あぁ、これ友利さんがさっき使ったんだよなぁと南可那は思った。

顔を上げると、30名を越す取引先の店主達がこちらを一斉に見ている。

可那は小さく息を吸った。


「それではこれから商品解説を始めさせていただきます。本日、担当させて頂きます南です。どうぞ宜しくお願い致します。」


頭を下げる。

大丈夫、今日も緊張してない、いつも通りだ、笑顔、笑顔。

そんな風に思いながらゆっくりと頭を上げると、横に長いセミナールームの一番後ろに座り腕を組む友利悟と目が合った。

いつも冒頭の部長挨拶を終えるといつのまにか居なくなってしまうのに、どうして今日は居るのだろう、そう思いながらも可那はすぐにテキストに目を落とした。


「本日は、来月発売になります新ヘアケアライン、キュアジェニーのご案内を致します。

それでは皆さま、お手元のテキストの1ページをご覧ください。」


パワーポイントを切り替え、可那もテキストの1ページを開く。


「mellow luxe初のヘアケアライン、キュアジェニーは天然由来成分95パーセント以上、内オーガニック原料を10パーセント配合したメロウ初の本格ナチュラル処方となっております。ここ数年ナチュラル、オーガニックコスメ志向の方が大変増え、メロウにもその様な商品をぜひ、というお客様のお声が寄せられておりました。本家アデールがナチュラル派の女性を対象に調査を行ったところ、この様な結果が出ております。こちらをご覧ください。」


教卓上の指示棒を素早く伸ばし、可那がスクリーンに映し出された棒グラフを指すと店主達も顔を上げた。


「実際に使っているナチュラル、オーガニックアイテムの割合を美類別に出したところヘアケアがダントツで1番多いという事が分かりました。その理由ですが、美容師さんに勧められて、家族みんなで使うものだから、という声もありましたが、頭皮の経皮吸収が心配、という理由が一番多く、体のために出来る限りナチュラルなものを、と考える方が増えてきたという結果でした。」


教卓に戻り、可那はパワーポイントを切り替えた。


「そこでmellow luxeでも、より安心して使っていただけるヘアケアラインの開発に取り組みました。体にはもちろん、肌にも環境にも優しく配慮した成分を配合しつつ、今までのmellow luxeの可愛らしさをそのまま踏襲した素晴らしい新製品となりました。このパッケージのビタミンカラーのグラデーションには、パワフルな癒しの効果で日々のストレスをリセットするという意味が込められております。」


可那は両手でシャンプーのボトルをそっと包み込み、そのカラフルなラベルが見えるよう高い位置まで持ち上げた。

店主達は、一斉に可那の手元に視線を向ける。

いつものやり取りながら、なんだか宗教のようなんだよなぁ、と、可那は可笑しくなり「ふふふ。」と小さく笑った。




「どうもありがとうございました。」


セミナー後、エレベーター前で友利部長、営業担当、可那の順に並び店主達に深々と頭を下げる。

皆、帰り際にニコニコしながら友利に何かと話しかけている。

友利は店からわりと人気があった。

可那がよく入店する駅ビルのテナントの50代の店長なんて『友ちゃんのあのナヨっとした所が可愛くて放っておけない』とバレンタインには高級チョコレートを用意していた。

隙だらけな友利から滲み出る独特の色気にやられているのは自分だけじゃないという事を、可那はよく知っている。

友利が本当は人に興味が無い事も、それなのに自分の事はどうやら好きみたいだという事も。


「南、お疲れ様。」


店主達が帰って行き、営業担当達が伸びをしながら階段で降りて行くのを放心状態で見つめていた可那は、目の前の友利を見上げた。


「最後まで居るからなんだか緊張しちゃった…。」


可那がポツリと呟くと、友利がキョトンとした顔をする。


「え?俺が?」


可那がうなづくと友利が笑う。


「嘘だよ。南、緊張なんてしてないでしょ。」


「そんな事ないです。私だって緊張するもん。だって友利さん…。」


ずっと私の事見てたでしょ、と言いそうになって可那は口をつぐんだ。

いけないいけない、調子に乗りすぎるのもみっともないし辞めておこう。

だけど、本当にそうなのだ、今日友利はずっと自分の事ばかり見ていた。


「何だよ。」


「何でもないです。あぁ、早く明日の準備しなくちゃ。」


友利に背を向けてセミナールームに向かおうとした可那の左手を、急にギュッと友利が握りしめた。


ビックリして可那は友利の顔を見上げる。

胸の動きが早まり、顔が熱くなるのが分かった。

誰も居ないとは言え、あまりにも大胆だ、と可那は思う。

友利はじっと可那を見つめている。

あぁ、まどろっこしい、早くこの人と繋がっちゃいたい、私のものになるまでもう時間の問題だよなぁと可那はボンヤリと思った。


「あのさ、準備終わってからでいいから会議室来れる?ちょっとだけ時間欲しい。」


「えっと、大丈夫ですけど。」


可那が答えると「よろしくな。」と言って友利はすっと手を放し行ってしまった。


友利は一体、何の話をするつもりなのだろう。

しんと静まり返ったセミナールームで可那は1人作業を始めてみる。

明日もこの部屋で同じセミナーがあるのだ。

本来なら補佐に入るはずのサブトレーナーの吉川ちゃんが長期休暇に入ってしまったお陰で、今回のセミナー準備も可那は一人でこなしていた。

それなのにギュッとされた手の余韻がいつまでも残ってしまって、明日の準備はなかなかはかどらなかった。



2時間かけて何とか全てを終えて営業部のフロアに戻ると、友利の姿が見えない。

デスクの上に放ったらかしにしていたスマートフォンを手に取ると、友利からメールが来ていた。


『ミーティングルームに居るから終わったら来て』


1時間ほど前に届いていたそのメールの受信画面を、可那はしばらく見つめた。

いつも敬語だった文面が、急に変わった。

そんなに頻繁にメールのやり取りはしていないけど、なんだかここのところ急に距離が縮まっている気がする。

可那はフロアを出てミーティングルームへ向かった。


廊下の突き当たりのドアの前に立つと、誰かと話す友利の声が聞こえた。

なんだ2人きりじゃないのかとガッカリしながら遠慮がちにドアをノックをすると、ゆっくりとドアが開けられた。

ドアを抑えながら友利はスマートフォンで話し、目線だけ可那に合わせている。

可那は、友利の横をすり抜けるようにしてミーティングルームの奥へと入った。


コの字型に並べられたテーブルの角に、ノートPCが置かれている。

PCの斜め向かいの椅子に腰を下ろし、可那は友利を見つめた。

彼はドアの近くで立ったまま誰かと話し込んでいる。

話の内容からして、電話の相手はアデール本社の人間だろうか、時おり話しながら可那に目線を合わせてくる。

やや低めの友利の声は、耳障りが良くてほんの少し早口だけど何故か聞きやすくて可那はとても好きだった。

友利は話しを終えると、髪を弄りながらゆっくりと歩き「ごめん、お待たせして。」と言いながら斜め向かいの椅子に座った。


「こちらこそ。友利さん、ずっとここで仕事してたんですか?」


「うん、営業会議の資料作るのにあっちだと集中できなくてさ。今日、内勤の営業が多くてめちゃくちゃ話しかけてくるんだよ。」


友利の困ったような半笑いの表情に、可那もつられて笑った。


「セミナー終わってからも、みんなあのまま内勤してたんですね。」


「そう。南は準備終わった?」


可那は余裕の表情を作って友利に頷いて見せる。

あなたに手を握られ動揺して全くはかどりませんでした、なんて冗談は今は言わない。


「手伝えなくてごめんな。」


友利の表情が、本当にそう思っているよ、と真剣な色をしている。

この人は育ちが本当に良いんだなぁ、と思いながらそっと可那は首を横に振った。


「もうなんか、だんだん慣れてきちゃいました。」


「そっか。でもほんと、大変な時はいつでも言えよ。」


「優しいー。」


「そうだよ、南、お前、本部に行く事が決まったから。ますます身体は労っていかないと。」


「え?」


友利がさりげなく発した『本部』という言葉の存在感が頭の中にじわりじわりと広がっていく。




「お前すごいよ、本当に池之内さんのアシスタントに抜擢されたよ。やったな、おめでとう。」


「嘘!!」


思わず可那は口元に両手を当てる。


さっきまで感じていた疲れが一度に飛んでいく。

足の先から頭のてっぺんまで血液が一気に流れ込むような、熱い気持ちが湧き上がる。


「11月から正式に就任だよ。今月末に社内通達が出る予定。嬉しい?」


友利が無邪気にニコニコして言った。

可那は頷いた。


「もちろん!でも、私の後任はどうなるんですか?」


今はかなりの人手不足だし、可那の代わりになるような人材はメロウには居ないのだ。


「アデールから、中堅の美容部員の子が1人出向してくれる事が決まった。10月からサブトレーナーとして着任するらしいから、中旬くらいまでには引き継ぎを終えて欲しいんだ。それ以降は徐々に本部に行ってもらうようになるから。」


「来月、中旬から…かぁ。」


来月中旬には、本部に出社。

と言うことはあと1ヶ月程で友利に会えなくなってしまうのか、と南は複雑な気持ちで友利の顔を見つめた。


「そう。来月の30日に冬の新製品のプレス発表会があるんだけど、その準備から一緒に動いてもらいたいって。雑誌編集長、美容家、ライター向けの大きいやつ。」


メロウのプレス発表会は、業界でもいつも反響が大きく、数々の雑誌やSNSにも毎回大々的に取り上げられる。

本部はかなりの力を注いでいるし、自分がそんな仕事の中心に立てるだなんて本当に夢の様な事だと可那は思う。


「すごい。信じられない。」


「うん。南をメイクコンテストに出しておいて良かった。いいきっかけになったね。」


「友利さんのおかげですね…。」


可那は小さく呟いた。


「いやぁ、南の実力だよ。」


コンテストに出る事を自分に勧めたのは友利だし、自分を気に入ってくれた池之内に友利は可那が本部を希望している事をさり気なくアピールしてくれたのだ。

頼りないところもいっぱい知っているけれど、そうやって友利の力は大きく作用する。

彼はきっと自分には無くてはならない存在なのだ。

あぁ、友利と離れたくない…と可那は心の底からそう思った。


「頑張れよ。期待してるから。」


にこやかに落ち着いてこちらを見つめている友利がなんだかすごく大人の男に感じる。

それはそうだ、10歳離れている彼は自分よりもずっと経験を積んでいるのだから。

そう思うと急に目頭が熱くなり、鼻の奥がツンと痛んだ。


「何お前、泣いてるの?」


口に手を当て俯く可那を友利が慌てて覗き込んだ。


「友利さんと離れちゃうって思ったら…寂しいなって。」


流れ落ちそうな涙を急いで指で拭き取って、可那はエヘヘと笑ってみせた。

恥ずかしい、こんな風になっちゃう自分、子供のようで、あまり見せたくないと思う。


「大丈夫だよ、本部なんて近いし。一緒に仕事できないのは俺も残念だけど…。」


子供をなだめるような優しい口調に、可那はうんうんと、頷いてみせた。

彼はいつもこんな風にして、子供と接しているのだろうか。




「大丈夫です。何かあったらすぐ電話しちゃうから。」


そう言って可那が笑うと「いつでも話し聞くよ。プレス発表会は2日間とも俺も出るから。」と言って友利は真面目な表情に戻った。


「そうだ、プレス発表会なんだけど1日目の夜、本部の親睦会もあるし翌日に備えてホテル取ってくれって言われてるんだ。だいたいこのエリアで予算内でこの辺りなんだけど、どこがいい?」


友利は片手でノートPCを掴むと、くるりと可那の方に向けた。

画面に映し出されているのは都内のホテル一覧だった。

手渡されたマウスで画面をスクロールすると、ホテルの外観や部屋の画像が次々とチェックできた。

清潔感のある部屋にベッドがツインで並んでいる画像、クイーンサイズのベッドのある夜景の綺麗な部屋、それらを見ていたら急に可那は思いついてしまった。


「親睦会って…、友利さんも出られますか?」


画面から目線を上げて、友利の顔をじっと見つめる。

友利は、すっかり部長の顔に戻って、無表情で言った。


「うん、今回は各エリアの部長職は全員参加なんだ。船貸し切ってやるらしいよ。すごいよね。」


「へぇ…。そっか、それなら友利さんも宿泊しませんか?せっかくだから同じホテルに。」


可那は出来る限り爽やかに聞こえるように気をつけながら、息継ぎをせず一気に言った。

もうあと1ヶ月しか一緒に居られないのなら何でも言える、そんな気持ちだった。

それに、今、言わなければ後はもうないかもしれない、せっかくの2人きりなのだ。


「え?南と?」


友利の丸い目が大きく広がる。

彼の心から驚いた時のこの表情が、可愛くて可那は大好きだ。


「うん。」


同じ部屋に泊まろう、と言ってるわけじゃないのだから断る理由なんてどこにもないはずだ。


「だって最後だもん。近くに居たいなぁ、なんて。」


可那はわざと悪戯っぽく笑ってみせる。

なるべく冗談に聞こえるようにわざと明るい声を出す。


「このホテルなんて夜景絶対綺麗ですよ。見てくださいよ、この立地!ね、ここにしましょ。」


ノートPCの画面を友利の方に向け、ずずずっと押しやりながら可那は思い切り明るく提案する。


「いや、それは南はどこに泊まってもいいけど…、俺は朝の準備にも参加しないし宿泊するのは…どうだろう…。」


話しながら友利の口元がゆっくりと緩んでいくのを可那は敏感に感じていた。

これは後ひと押しだ、と思い息を吸う。


「でも親睦会で絶対夜遅くなっちゃうし、泊まっちゃった方が疲れ癒せますよ。夜道も不安だし、友利さんと一緒に帰りたいな。朝も一緒に食べたいなぁ。」


小さく口を尖らせて上目使いで友利を見つめる。

友利の口元が一層緩んでいくのが面白いほどよく分かる。


「だめ?」


「うー…、分かった。俺もここに泊まるよ。2部屋予約するから。」


「やった!」


可那は小さくガッツポーズを作って見せた。


「誤解されても困るから誰にも言うなよ。」


PC画面に視線を落とし、キーボードを弄りながら友利がボソッと呟いた。

何言ってるの、私たちキスした仲ですよ、と言いたいのを堪えながら可那は「はーい。」と可愛く答えた。

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