願書出願
ストレッチが終わると、子供たちは誰からともなく窓際に走り寄り、バーレッスン用のバーを運んで組み立て始めた。
レッスンルームは全面ガラス張りになっていて、待合室から見学できる。
乃亜のバレエのレッスンはよっぽどのことが無い限り、いつも最後まで見学するようにしている。
今日は珍しくみちか以外の他の見学者が少なかった。
バーレッスンが始まると、乃亜の表情が途端に固くなる。
「乃亜ちゃん、左足前5番ですよ!ひ、だ、り、あ、し!」
先生から注意を受け、乃亜は戸惑い動きが止まる。
毎回の事だった。
乃亜はバーレッスンが苦手だ。
みちかは息を吸い、ため息をつくつもりが思わず小さな欠伸が出る。
昨夜は一睡も出来なかった。
悟が自分以外の別の女性と深い仲になってしまっているかもしれない。
それはみちかの頭の中で、考えれば考えるほど、これまでの日々が裏付けとなって真実味を帯びていくのだった。
私と眠らない帰りの遅い彼が、いつもかかさず素敵なスーツと香りをまとい休みも取らずに出かけていく理由。
疲れた顔ひとつ見せずに。
昼間だというのに、また悪い考えが膨らみ動悸で胸がつかえるような感覚にみちかが陥った、その時だった。
「あ、友利さん。」
顔を上げると、見慣れた女性がニコニコ人懐こい笑みを浮かべ立っていた。
「あら…。寺田さん、こんにちは。」
同じ雪村幼稚園の年長児で、この時間にバレエのレッスンも一緒になる寺田リンの母親の由花子だった。
顔立ちも服装も派手な美人の寺田由花子とは、話しているうちに同じ年だという事が少し前に分かった。
彼女は、みちかが40歳だなんて信じられないと驚いていたが、みちかにとっては自分より寺田の方がよっぽど若く見えると思う。
いつも元気で、時代の流れに乗っていてほんの少し押しが強い。
悪い人でないことは、みちかもよく分かってはいた。
「なんか久しぶりに会った感じよね。」
みちかの座るソファに腰を下ろしながら、寺田由花子は長い髪をかきあげた。
母というよりも女、という形容詞がよく似合う。
この人の色褪せない色気は何なのだろうと、みちかは思う。
「そうよね。久しぶりかも。」
「リンのお迎えはいつもお姉ちゃんに頼んでいるからね。ねぇ、そういえば少し前に見かけたの。いつだったかなぁ?友利さん、乃亜ちゃんとサンライズの本部から出てきたけど、もしかしてあそこのお教室に通っているの?」
「え…、あ、えぇ。サンライズには通っているけど…。」
顔色を変えずに答えたつもりだったけれど、みちかは内心動揺していた。
いつの間に見られていたのだろう。
寺田は幼稚園では顔が広くかなりのお喋りだ。
雪村幼稚園では、小学校受験をする子どもはあまりいないので、乃亜の受験の話しは誰にもしていなかった。
話しても良い顔をされない事を分かっているからだ。
だからこそ、この人には特に知られたくなかったのに。
「やっぱり乃亜ちゃんてどこか受験するの?」
「え…、あ、うん。一応ね。」
寺田は大きな目をさらに大きく見開き「そうなんだぁ。乃亜ちゃんならどこでも受かりそうじゃない?」と声高に言った。
みちかはとんでもない、と、首を横に大きく振って見せる。
「私の姪っ子が今、年中でやっぱり受験を考えてるみたいでサンライズに行こうか迷ってたけど。ねぇ、乃亜ちゃんて難しい所を受けるの?」
「志望校は…。まだ特に決めてないの。」
「あら、そうなの?受験てもうすぐなんでしょう?大丈夫?」
みちかは苦笑いをして見せた。
その時「おぉー!由花子ちゃん久しぶりー!」と、他の母親が入ってきて寺田由花子と盛り上がり話し出した。
みちかはそっと立ち上がり、バレエ教室を出ると家に向かって歩き出した。
部屋に着くなり、ソファに倒れこむ。
やっぱり睡眠不足には勝てない、みちかは両手で顔を覆った。
指の隙間から壁にかかった時計が見える。
レッスン終了まであと40分。
40分しかないのか、とみちかは残念に思った。
幸い自宅からバレエ教室までは、徒歩2分という近さだ。
今ほんの少し仮眠する事は十分可能だった。
だけど昼寝をする心境にはとてもなれない。
みちかは起き上がり、スマートフォンをバッグから取り出した。
『元気かな?ちょっと相談したい事があるの。今、電話してもいいかな?忙しければまた今度でも。』と、短いメールを打った。
いちかばちか…。
返事を待つ態勢に入った瞬間、スマートフォンが音を出しながら震え出した。
それはひばりからの着信だった。
「もしもし?」
「もしもし、みちか?久しぶりじゃない。」
いつもと変わらないひばりの声に電話越しながら気持ちがしゃんとなるようだった。
「ごめんね、突然。忙しくなかった?」
「うぅん。ちょうど今、翠が塾の夏期講習に行ってくれていて暇してた所。どうだった?光チャイルドは。」
「あ、うん。厳しかったけど、その分、自信がついたみたいで。ありがとう、良いところを紹介してくれて…。」
ひばりの涼しそうな「そっか、良かった。あそこ厳しいわよねぇ。」と言う声で、悟の事を相談する気持ちが萎えそうになる。
光のたくさん入るあの明るいリビングで、きっとアイスティーでも飲みながらゆったりと微笑んでいるのだろう。
そんな優雅に過ごしているだろう親友に、こんな事を話すのは気がひける。
「どうしたの?乃亜ちゃんの通塾の事で悩んでるとか?」
「うぅん…。あのね…、そうじゃないの。」
気がついたら泣きそうになっている自分がいた。
そうだ、やっぱりこれを1人で抱え込むのは辛すぎる。
私には無理、勇気を出してひばりに相談しないとどうにかなりそうだ。
「悟さんが、浮気をしているかもしれなくて。」
「ん?え、ちょっと待って…。悟さんが?」
ひばりは心底信じられない様子だった。
「うん…。ルツ女の近くにアムリタホテルってあるでしょう?昨日、女の子と出てくる所を偶然見ちゃったの。その子、悟さんの腕に自分の腕を絡ませちゃって。すごくいい雰囲気だったのよ…。」
話しているうちに、声が震えてしまった。
どこからともなく怒りが湧き出す。
自分は彼女に嫉妬していたのだという事に気づく。
「えぇ…。ちょっと待って…。それって昨日の何時頃なの?」
「14時頃だった。ちょうど乃亜の模試の終わる30分前くらいだったから。」
「悟さんて昨日はお仕事、お休みだったの?」
「仕事よ。朝はいつも通り出勤して行った。だから仕事中のはずなんだけど。」
ひばりが電話の向こうで「うーん…。」と唸りほんの少しの間、黙り込んだ。
「14時でしょう?アムリタホテルでしょう?ランチして出てきた所だったんじゃないかしら。あそこ最上階に沢山お店入ってるよね?鉄板焼き屋さんとか…。女の子はどんな雰囲気だったの?服装とか。」
「女の子は…。きっちりしたパンツスーツを着てた。確かに仕事中かもしれない。でもね、すごく仲が良さそうだったの。」
「なるほどねぇ…。それは確かにモヤモヤしちゃうわよね。」
思ったよりもひばりが落ち着いている事に、みちかは少し拍子抜けする。
確かに、2人はただ食事をしただけなのかもしれない。
悟はいつものビジネスバッグを手に持っていたし、女の子も髪を綺麗にまとめていた。
私は大袈裟だったのかしらと、ほんの少し気持ちが落ち着く。
「でも、あなたのご主人、そんな仕事中に何かやらかすような人じゃないと思うのよ…。ごめんね、その、腕を組んでいたっていうのを100歩譲って許してあげるとしてよ?ほら、悟さんて素敵じゃない?隙あらばと思っている女子は会社に1人や2人くらい居るわよ。それは仕方のない事。」
ひばりの話をみちかは黙って聞いていた。
いつも冷静な親友のその言葉が、昨夜からずっと止まらない妄想の熱をみるみる鎮静させていくようだった。
「外泊とかは、今まで無いんでしょ?」
「ないわ。」
みちかは落ち着いて答える。
「なら、まだ多分、そんな深刻ではないわね。」
まるで医者と話をしているようだった。
とても悪いと思って眠れないほど心配をして受診してみたら、ただの思い過ごしだった時のように。
肩透かしをくらいホッとする、そんな感覚によく似ていた。
「どうしてもみちかが辛ければ、落ち着いて、聞いてみたらいいんじゃない?姿を見たけれど、ホテルでどう過ごしていたの?って。スラスラと答えてくれたら白じゃない?もしグレーだったとしてもね、今は騒がない方がいいわ。」
「どうゆう事?」
「面接前でしょう?夫婦仲の良し悪しは、面接官に一瞬で伝わるらしいわよ、特にルツ女はね。みちか、乃亜ちゃんの一生がかかっている大事な時期なの。今はグッと堪えるしかないわ。」
落ち着き払ったひばりのアドバイスは、納得するというよりは説得されるという感じだった。
それでも今は、ひばりの言う通り、耐えるしかないのかもしれない。
お礼を告げて、電話を切った。
何があっても騒いではいけない、自分に言い聞かせソファにもう一度横たわる。
みちかは目を閉じた。
悟と並んで歩いていた彼女の姿がリアルに思い出される。
間違いなく同じ職場の女性だろう。
自分よりも、ずっと若くて綺麗でとても生き生きとして見えた。
悟と同じ世界に生きる彼女は、私の知らない悟の顔をいくつも知っているのかもしれない。
彼が仕事で悩む時、助けてくれているのかもしれない。
受験で辛い私を、支えてくれる百瀬先生のように。
眠気に負けて、ほんの少しうつろうつろしたみちかの脳裏に百瀬の姿が浮かんでは消える。
きっともう変われない、とみちかは思った。
知らない頃には戻れないのかもしれない。
悟も私も。
流れ続けている水道の水に気づいて、慌てて蛇口を締めた。
洗剤の泡まみれになった乃亜の小さなご飯茶碗を手にしたまま、キッチンで一時停止のように立ち尽くしていた。
こんな事をもう、ずっと繰り返している。
静まり返った部屋で、みちかは一人ため息をついた。
久しぶりにプールで泳いだせいか、夕飯を食べ終わると眠そうにしていた乃亜を急いでお風呂に入れ、たった今、寝かしつけた。
時計を見るとまだ20時過ぎだった。
食器を洗い終えると、みちかはもう一度ゆっくりと湯船に浸かるため、リビングを出た。
ひばりと電話をして、もう数日が経つ。
あの日の晩、帰宅した悟にみちかは聞いた。
実はアムリタホテルの前を通りかかって悟を見かけた事。
普通の会話を交わす時のように冷静にいつものように話した。
「一緒に居た方はどなた?」と、柔らかく聞くと、悟は焦る様子も無く「部下の女の子と、挨拶回りの途中にランチで立ち寄ったんだ。」と答えた。
「最上階にある鉄板焼き屋を知ってる?すごく美味しいよ、目の前でシェフが焼いてくれる牛ロースステーキが最高だったよ、今度君も行く?」と、悟は悪びれる様子も無く、流暢に笑顔で言った。
それ以上は何も聞かなかった。
本当だと思ったし、それで十分だと思った。
腕を組んで歩いていた理由は、怖くてどうしても聞けなかった。
けれども日が経つにつれて、どんどんと不安になっている自分がいる。
悟を取られてしまうんじゃないかという、今まで抱えた事のない感情が溢れ、その想いに翻弄されてしまっている。
気づけば家事をする手が、乃亜の解いたワークに丸をつける手が止まっているのだった。
悟は自分の知らない所で、あの子と何をしているのだろう。
どんな会話を交わして、どんなメールのやり取りをしているのだろう。
あんなに良い雰囲気の2人は一体どこまでの関係なんだろう、いつも最後はそんな所まで想いが行き着いてしまうのだ。
バスルームの大きな鏡に裸の自分が映っている。
太らないように気をつけてはいるけれど、間違いなく昔に比べて肌の質感は変わった。
昔の自分とは違う、それは服を脱いだ時に一番感じる。
バスルームの棚に飾りのように置いてあったmellow luxeのボディスクラブをはじめて開けた。
先日悟が持って帰ってきたこのスクラブは限定品らしい。
クルミの殻で出来ているという焦げ茶色のスクラブは、手に取るとジャリっとした不思議な感触をしていた。
それを太ももから足先にかけて両手で広げながら、スクラブなんてかけるのは何年ぶりだろう、とみちかは思った。
バスルームいっぱいに広がる、チョコレートとアーモンドの香り。
甘ったるいその香りが悟と歩いていた彼女と結びつく。
メロウの社員だという彼女も間違いなくこのスクラブを愛用しているのだろう。
マッサージを終えてシャワーで洗い流した肌はまるで他人の肌のようにつるりと、なめらかになった。
彼女の肌に近づきたい、そう考えている自分に、ゾッとしながらみちかは湯船に浸かった。
「ただいま。」
背中に声をかけられて、乃亜の問題集をコピーしていたみちかは振り向く。
リネンのジャケットに珍しくノーネクタイの悟がリビングに顔を出していた。
「お帰りなさい。」
時計は23時半だった。
思わずその顔をじっと見つめ、朝もノーネクタイだったかしらと考える。
すぐに自室へと向かうそのあとを追い、「あのね。」と、みちかは話しかけた。
「来週の土曜日、ルツ女の説明会があるでしょう。10時開始だけど…、大丈夫?」
悟はジャケットを脱ぎ、時計を外しながら相槌をうった。
そのジャケットを受け取りハンガーにかける。
いつもの悟の香りに、他の香りが混ざったりしていないだろうかと思わず勘ぐってしまう。
悟が出て行き部屋に取り残されると、無造作にテーブルに置かれたスマートフォンが気になって仕方がなかった。
私は一体何をしているのだろう。
哀しくなって、リビングへと戻る。
そしてまた乃亜の問題集のコピーを取った。
明日から問題集の枚数を増やそう、面接の受け答えの練習もしよう、もうあと数日で幼稚園が始まってしまうのだ。
秋の行事も多いし、毎日はどんどん過ぎて行ってしまうだろう。
きっとあっという間に受験の日は来てしまう。
頭の中を忙しく働かせてみても、気持ちを淀ませている感情は全く消えてはくれない。
それどころか全神経が、悟の立てる生活音に敏感に反応していた。
いつも通り、短時間でシャワーを済ませ、バスルームを出てきた悟のドライヤーで髪を乾かす音が微かに聞こえてくる。
先日参加したひかりチャイルドの願書対策セミナーの資料を広げてみても、なかなか頭に入ってこない。
そのうちリビングに悟が入ってきた。
冷蔵庫を開け炭酸水の瓶を取り出し、みちかの側へやってきた。
「あれ使ったんだね。」
「え?」
ただドライヤーで乾かしただけのセットしてない悟の髪は無造作にクシャッとなっていて本当に若く見える。
そんなあどけない悟を見ていると、なんだか妙に哀しくなった。
この人は私以外の女の人に、ベッドでどんな風に接しているんだろう。
「ボディースクラブ。お風呂がチョコレートの香りだったから。」
そんな自分の考えに、うんざりしながらみちかは作り笑いをして見せる。
「うん。乃亜が早く寝てしまって時間があったから。まるで別人の肌みたいにすべすべになった。」
「あれ、人気なんだよ。ボディーアイテムの中では一番売れてるらしい。」
炭酸水を飲み干して、悟はリビングを出て行った。
テーブルの上に残された空になった瓶と自分のグラスを片付けながらモヤっとした感情に襲われる。
今、始まった事ではないのに、ずっと見ないふりをしてきたのに、無視できないほど自分の中で膨らんできている欲求。
ひばりにメールをしようかとみちかはスマートフォンを手に取る。
電話帳画面をスクロールしているうちに、自然と指が止まった。
『百瀬先生』
あの日、さりげなく教えてくれたプライベートの携帯番号。
百瀬に会うたび、ただドキドキできたのは今思うと平和だったからだ。
悟に募っていた不満も、百瀬の笑顔を見ていれば全部忘れていられた。
なのにあの日、偶然悟の姿を見てしまったせいで、感情を涼しく覆っていた殻は割れてしまった。
中から酷くドロっとした生温かさが流れ出し、それがもう止まらないのだ。
気がつくと、みちかは悟の部屋の前に居た。
乃亜はぐっすり眠っているし、時々は悟のベッドで眠ったっていいんだ。
私達は夫婦なんだから。
みちかはドアノブを握りしめた。
だけどどうしても開ける事が出来ない。
私にはもう興味の無い悟に、拒絶されたらどうしよう。
これ以上、落ち込む様な事があったら、自分にはもう乗り越えられる自信がない。
みちかはドアノブから手を離した。
最後の保護者が教室を出て行くと、百瀬は思い切り伸びをした。
9月の面談がやっと終わった。
受験が近づくにつれて緊張感が高まる分、ピリピリとする保護者が増えてくる。
あまり言いすぎるのは良くないけれど、ここで甘い事ばかりも言っていられない分、この時期の言葉選びには特に神経を使う。
事務室へ戻ろうと立ち上がると、静かな教室に、ドアをノックする音が響いた。
「はい、どうぞ。」
声をかけるとドアがガラガラと開き、ジャージ姿の関崎が顔を出した。
「面談終わった?」
「はい。」
関崎は「すごいよ、ももちゃん。」と、ニヤニヤしながら百瀬の方へと歩いてくる。
「面談後のお母様方ね、難関小学校行動観察ガイダンス講座、全員申し込んで行ったよ。」
「うわ、全員ですか?」
「うん。百瀬先生にオススメされたので、だって。すごいね、みんな百瀬先生大好きだよね。」
百瀬は眉間に皺を寄せ、手をひらひら横に振って見せた。
「敬栄学園の先生が見えるからですよ。俺の力なんかじゃないですから。」
関崎が目の前の椅子を自分の方に引き寄せて腰を下ろしたので、思わず百瀬ももう一度椅子に腰掛けた。
自然と2人で向き合うかたちになり、なんだか再び面談のようだ、と百瀬は思った。
「友利さんも申し込んでたよ。あ、彼女に話した?異動の事。」
「友利さんにですか?話しましたよ。」
友利みちかとも今日、面談をした。
雪村幼稚園の異動の話しをした時の、彼女の哀しそうな表情は忘れられない。
「なんて言ってた?」
「残念そうにしてくれましたよ。急だからびっくりしたんだと思いますけど。」
関崎は「ふぅん。」と、言いながらまたニヤニヤした。
そんな彼を無視するように百瀬は真顔で言った。
「友利さん、なんだか元気ないんですよね。聞いてみたんですけど受験の事でも無さそうだし。ちょうどあの模試の辺りからのような気がするんですけど。」
今日も友利みちかは覇気が無い様に百瀬には見えた。
娘の乃亜は光チャイルドの夏期講習や模試の効果もあってか見るところ調子がとても良いし、友利みちか自身もそれには気づいている様子ではあった。
家庭で何かあるのだろうか、それともどこか具合でも悪いのか、色々考え百瀬はとても心配になった。
「模試の時って、体調不良だったっけ?あの時、ももちゃんが飛んで行っちゃったのはほんと面白かったなぁ。分かりやすいよね、百瀬。」
「分かりやすいって…。勘弁してくださいよ、関崎さん。」
百瀬はため息をついた。
「友利さん、あの時、泣いてたんですよ。」
「は?泣いてたの?なんで?」
驚く関崎に、百瀬は首を傾げて見せた。
「いやぁ…。気分が悪いとは言ってたけど。実際、体調不良とかではなさそうで。何かものすごくショックな事があったような感じだったんですよね。」
「ふぅん。それで、医務室で休んでもらってたのかぁ。」
しばらく黙ってから関崎は、声を潜めて「なぁ。」と言った。
彼の顔があまりに真剣なので、思わず百瀬は息を飲んだ。
「旦那が浮気したとかじゃない?たまたま女と歩いてる所を見ちゃった、とか。」
「まさか、そんな事あります?」
百瀬は呆れてため息をつく。
「あり得ないよな。体調悪かったからじゃないの?ご両親の事とか、まぁ色々とありそうな年代だよな。受験に差し支えないといいね。」
関崎が立ち上がったので、百瀬も立ち上がり一緒に教室を出た。
小さな会議室のような部屋で、ベージュのスーツで身を固めた南野と、強面の塾長が並んで座りこちらを見ている。
「友利乃亜の両親です。どうぞ宜しくお願い致します。」
悟の挨拶に続き、みちかも深々と頭を下げた。
悟とみちかに挟まれるように立っている乃亜も小さいながらに丁寧にお辞儀している。
「どうぞ、お座りください。」
南野の堅苦しい声を合図に、家族で並んで椅子に浅く腰掛ける。
「本日は、お越し頂きありがとうございます。それでは早速、お父様にご質問させていただきます。まずは本校の印象をお聞かせください。」
塾長の質問に対し、「はい。」と、悟が応え少しの沈黙があった。
「今、日系の企業が必要としている、社会に出た際に重要視される「主体性」を大切にしている学校だという印象を受けました。」
昨夜、夫婦で擦り合わせた内容のほんの一握りしか悟は話せていない。
「はい。ではお母様にご質問です。子育てをする上で、気をつけていらっしゃる事はありますか。」
みちかは喉が渇いていく感覚と、動悸に耐えながらなんとか笑顔を作り、面接官に頷いて見せた。
「はい。あの、周りの人の事をいつも気にかける事ができる機会を与えるよう気をつけております。
食事時などゆっくりと向き合える時間に『今日は幼稚園、誰かお休みした?』 など身近なお友達の話題をあげて、お休みしたお友達がいれば『心配だね。早くお熱が下がるといいね』など一緒に心配をするよう心がけるようにしています。」
「はい。それでは乃亜ちゃんにご質問しますね。乃亜ちゃんはこちらの学校に来た事はありますか?」
塾長が大きな身体をほんの少し乃亜に向け、前のめりになる。
怖い顔が笑顔に和らぐ。
「はい。あります。」
落ち着いて答える乃亜を、みちかはそっと見守った。
「乃亜ちゃんの、将来の夢は何ですか?」
「えぇと…、幼稚園の先生です。」
南野が「あら…。」と、笑顔で小さく呟いた。
「素敵な夢ですね。」
塾長も感心したように頷いた。
それからいくつも乃亜に質問をした。
乃亜はその度、しっかりと答えた。
「まずお父様なのですが。」
ひと通り面接の流れを終えると、南野が苦い表情をこちらへ向けて言った。
「ご存知かと思いますが、ルツ女の理念は純真、愛徳です。もちろん教育目標に主体性という文字も出てくるのですが、どちからというと今のお父様のお話しは敬栄学園寄りの印象ですね。ルツ女の事は研究し尽くしているし惚れ込んでいる、そのようなお気持ちが全く伝わってきません。例えばルツ女はカトリック色が強いですのでもう少しカトリックの精神に沿ったお話しですとか、説明会での学校長のお話しから得た印象を語っていただくのも大切ですね。」
言いにくそうな表情でもはっきりと言い切る南野に悟も頷くしかないようだった。
「それとお母様なのですが…、少しお話が長すぎるかな?と感じました。内容は良いのですが、もっと簡潔にまとめてお話しされた方が良いですね。例えば…。」
みちかはメモを取る。
面接対策は今日と来週の2回しかない。
その後はすぐに、本番だ。
落ち込んでいる場合ではないのだ。
南野の一語一句を聞き逃さないよう、みちかは必死でメモを取った。
赤いペンを片手に百瀬が真剣な表情で首を傾けている。
みちかが何日もかけて仕上げたルツ女の願書。
そのA4用紙にはびっしりと文字が並んでいた。
静かな教室で、目の前に座る百瀬をみちかはじっと見つめた。
残暑のきつい9月。
サッカーで少しだけ日焼けした百瀬の腕と、綺麗な指、ずっと見ていたいと思った。
そんな自然に生まれてくる欲求を、もう止めようとしなくていい、みちかはそう思った。
悟だってきっと、会社で同じような気持ちになっているのだろうから。
こんなに百瀬の事を好きになってしまったのは悟にも原因がある、とさえみちかは感じていた。
「うーん…、友利さん、あのぉ…。」
百瀬が願書から顔を上げ、みちかを見た。
「はい。」
みちかも百瀬を見つめる。
百瀬の目が何か言ってる、とみちかは思った。
百瀬は最近目で会話をしてくる事が増えた。
困ったような目でじっと見つめてくる百瀬の表情が可愛くて、みちかも困った顔をしてみせる。
ずっとずっとこんな時間が続けばいい。
あぁ、その綺麗な指に触れる事ができたらどんなにいいだろう、みちかはぼんやりと思った。
そしてその指で触れられたら、一体どんな気持ちになってしまうのだろう。
「すごい頑張りましたね。僕、直すところ全然無くて逆に困ってます。」
百瀬が明るく笑うのでみちかもつられて笑った。
「乃亜ちゃんの性格がしっかりイメージできますし、毎日を大切に過ごしてきた事もよく分かりますね。この、乃亜ちゃんのお手伝いのエピソード、先生の目にもとまると思います。友利さんて、字がとっても綺麗なんですね。」
「いえいえ、そんな事…ないです。」
百瀬の親しみのこもった柔らかい表情にみちかは心からホッとする思いだった。
何日もかけ、下書きから時間をかけて書いた願書。
もうこれ以上は書けない、1字1字気持ちを込めて昨夜も乃亜が眠ってから清書を始めて仕上がったのは夜中だった。
「うん、このまま出して頂いて大丈夫ですよ。せっかくなので聖セラフの願書も確認しちゃいますか?」
「あ、はい。聖セラフは、下書きを途中までしてあります。」
クリアファイルから聖セラフの願書を出すと、百瀬は驚いたように小さく息を吐いた。
「ほぼ出来てますね。わ、準備早い。」
百瀬があんまり褒めるので、みちかは素直に嬉しかった。
「百瀬先生は褒めてくださるから、願書は頑張れたんです。先日、光チャイルドで面接講習を受けて本当にたくさんチェックを頂いてひたすら落ち込んでいたので。今日はとても元気が出ます。」
「いや、そんな…。友利さん最近お元気なかったから、正直心配というか。今日ももしかしたらお疲れじゃないですか?」
「やだ。私…疲れて見えますか?」
みちかは思わず両手で頬を覆った。
昨夜の寝不足が、顔に出てしまっているのかもしれない。
同時に物凄い勢いで後悔の気持ちが襲ってきた。
どうして昨夜、あんなに飲んでしまったのだろう。
願書が仕上がったのは、夜中の1時近かった。
ほんの少しだけ、と思ったお酒が気がつけば止まらなくなった。
酔いがまわるほど、あの悟と腕を組む彼女の事が頭をいっぱいにしていったのだ。
気がつけば大切なワインに手を伸ばしていた。
結婚したての頃、悟が海外研修で買ってきてくれたみちかと同じ年の高級ワイン。
大切にずっと飾ってあったそのボトルはここのところ目障りに感じていた。
2人の歩んできた数年間は一体何だったのだろう、未来も簡単に壊れてしまうのだろうか、そんな風に思いながらグラスにワインを注いでいたらあっという間にボトルは空っぽになっていた。
いつのまにか記憶が飛んでいき、悟に揺さぶられて、みちかは意識を戻した。
仕事帰りの悟は、「これ、君が全部飲んだの?」と、空のボトルを指差し、問い詰めた。
みちかは今までお酒を飲んだらすぐにそのビンや缶を処分して、悟に気づかれない様に飲んだ分の補充をしていたのだ。
何も知らなかっただろう悟には信じがたい事だったのだろう。
「君ってこんなにお酒が飲める人だったの?」と驚いていた。
そんな呑気な事を言う悟にみちかは怒りがこみ上げそうになった。
あなたのせいよ、と叫びたい気持ちを抑えたら次から次に涙が出た。
言葉にしなければ何も変わらない、なにも伝わらないのは分かっていたけれど、言葉にしたら全てが台無しになりそうで怖かった。
自分はなにも悪くないのに、気持ちを爆発させたら今すぐに何もかも失ってしまうような気がしたのだ。
もはや形だけだとしても、この今の自分の幸せと乃亜の将来、全てが壊れてしまうような気がした。
だからみちかは「受験が怖くて。でも泣いたらすっきりしたし頑張れる気がしてきた。もう大丈夫。」と悟に告げてリビングを出た。
その後の眠りが浅かったのか深かったのかもよく分からない。
いつものように朝が来て、悟を会社へ送り出し、乃亜を幼稚園へ送り出した。
今日はお教室で百瀬に会える、それだけが自分の支えだったのは間違いなかった。
「いや、そんな事ないです!そういう意味じゃなくて…。」
百瀬が両手を広げ、違う違うと横に振る。
可愛いなぁ、とみちかは微笑み、途端に心を開きたくなった。
「昨夜、実は飲みすぎちゃったんです。だめですね、今日は大切な百瀬先生の面接の日なのに。」
「友利さん、お酒飲まれるんですか?」
目を丸くして驚いている百瀬にみちかは頷いた。
「飲みます。私、不安な時ほどたくさん飲んじゃうんです。」
「そうだったんですか…。意外です。え、ご自宅で?」
みちかは、「はい、もちろん。」と笑った。
「百瀬先生も飲まれますか?」
「僕、飲むんですけどすぐ酔っ払っちゃうんですよ。それでいつも関崎先生にからかわれています。」
みちかと百瀬は笑った。
「酔った百瀬先生、見てみたいです。」
そう言ってしまってから、なんという事を自分は言ってるのだろう、とみちかは恥ずかしくなる。
でも百瀬の笑顔には何も変化は無かった。
「いやいや、見ない方がいいです。」と涼やかに笑いながら赤いペンを握り、聖セラフの願書へと目線を落とした。
寂しいようなホッとしたような気持ちで、みちかはまた百瀬のきれいな手元を見つめた。
緩やかな坂を登りきると、アーチ型の校門が現れた。
ビルに囲まれながらも緑豊かな敷地に建つ校舎には立派な鐘塔がある。
門の前で立ち止まり、みちかはその鐘塔を祈るような気持ちで見上げた。
今日はルツ女の出願日だ。
次々とルツ女の校門をくぐって行く濃紺の服に身を包んだ母親たち。
みちかも彼女達に続いて校舎へ向かいゆっくりと歩いた。
やがて、昇降口前の小さな列にたどり着く。
その来客用の入り口の左側に、学園の事務局があり、出願はそこで行われていた。
5分ほど待って順番が来た。
「おはようございます。」と、感じの良い笑顔の職員がみちかを迎える。
みちかも丁寧に挨拶をして、両手で願書を差し出した。
「よろしくお願い致します。」
「確認致しますので、少々お待ちくださいね。」
願書の文字を1字1字指で辿るように確認をすると、職員は、1枚の紙をみちかの前に置いた。
そこには20分間隔で面接時間が記載されていた。
職員は、その真ん中の辺りに赤いペンで印を付ける。
「友利乃亜さん、面接は9月16日の10時30分です。」
みちかは用紙を受け取り、もう一度深々とお辞儀をする。
「どうぞ宜しくお願い致します。」
紺色のサブバックに用紙を大切に仕舞う。
後ろに控えていた保護者にも一礼して、みちかは昇降口を出た。
滑らかなカーブを描くように、木々に囲まれている校門へ続く道を歩きながらみちかは強く思った。
絶対に受かるんだ。
桜が咲く来年の春、乃亜とこの道を歩くんだ、と。
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