行動観察模試
「ただいま。」と、思いがけず背後から声がした。
ダイニングチェアに座っていた友利 みちかが振り返るとリビングの入り口にスーツ姿の悟が立っていた。
「お帰りなさい。早かったのね。」
時計を見上げると21時半だった。
悟にしては随分と今日は早い帰りだ。
「夕飯は食べたからいらないよ。何してたの?」
みちかに近寄り悟は、テーブルに載っている小さな真っ白いポロシャツを覗き込む。
「ゼッケンを縫い付けているの。明日、お教室の模擬試験だから。」
「ふぅん、模試か…。」
明日はいよいよサンライズで行動観察模試が行われる。
前もって配布されたゼッケンが、本番中に乃亜の肩からずり落ちないようみちかは数カ所縫い付けておこうと思い立ったのだ。
悟がくるりと背を向けたので、みちかもテーブルに向き直った。
すると、「あ、そうだ。これ…。」という声とともに、ふいに悟の腕がみちかの横に伸びてきてテーブルにmellow luxeのショッパーが置かれた。
「あら、可愛らしい…。」
ショッパーの中には柔らかな水色の箱が入っていた。
淡いピンクでいくつもハートが描かれている。
TESTERという文字のシールが貼られているその箱を開けると、中にはロココ調の模様があしらわれたプラスチックのジャータイプの白い容器が入っていた。
「来月から発売のボディークリーム。新シリーズだからメロウの社員全員に配られたんだけど、最低1週間は試さないといけないんだ。代わりに君が使ってくれないかな?」
「へぇ…。新シリーズなのね。」
悟は仕事柄、発売前の化粧品を持ち帰ってくる事が度々あった。
商品力の高さは良くわかるのだが、mellow luxeのターゲットは20代なだけに、メイクもスキンケアも自分にはややしっくりこない、と毎回みちかは感じている。
けれど旬のアイテムを自動的に次々試せるのは貴重な事だし、女の子が喜ぶ可愛らしいデザインは目にも楽しい。
mellow luxeの新製品が手元にあるだけでなんとなく幸せな気持ちにもなる。
悟が出て行ったリビングで、みちかはその容器の蓋を開けてみた。
とろけそうな甘さにとても濃厚で深い香りが広がり、これはいったい何の香りなのだろうと、みちかはうっとりとした。
ただ甘いだけじゃない、幸福感に満たされるような深い心地よさに、脳の奥が久しぶりに反応しているような感覚だった。
眠る前にベッドで使う事にして、みちかはそっとボディークリームの蓋を閉めた。
足りない何かを補ってくれるようなその香りは、久しぶりに自分にぴったりのコスメに出会えたような気持ちにさせてくれた。
そのロマンティックなジャータイプの容器からボディークリームをすくい上げ、南 可那は足に塗り込んだ。
時計を見ると、家を出る予定の20分前。
まだまだ時間には余裕がある。
来月、mellow luxeから初のボディーケアシリーズがついに発売する。
人気の調香師がブレンドした香りはバニラとイリスとほんの少しのアンバー、そしてハーブエキスで構成される。
それは今までのメロウのターゲットばかりでなく大人の女性にも訴求するような、甘くて深い魅力的な香りだ。
決してベタつかないテクスチャーは塗った直後に吸い付くようなハリのある後肌を実現する。
このボディーバターロイヤルを念入りに足に塗り込みながら、可那は自分の太もものなめらかな感触を楽しんだ。
ボディーケアは夜のお風呂あがりには欠かさないし、特別な日はこうして朝もする。
今日は午前中に友利と新店に挨拶に伺うスケジュールだ。
嬉しくて昨夜から何度も顔がにやけてしまう自分が可笑しかった。
あの倉庫の一件から、可那は友利の事が気になって仕方がない。
その昔、キスされた事件の後もしばらくはこんな風に気にはなっていたけれど、ほんの少し迷惑な気持ちもあった。
あの時と違って、今は毎日出勤するのが楽しい。
少しくらい仕事が立て込んだって気にもならない。
恋の力はすごいし、この久しぶりの高揚感を女子力アップに使わない手はない、と可那は思っている。
いつのまにか1LDKの部屋いっぱいに、ボディークリームの香りが広がっている。
いつまでも香り残りが強い特徴を分かりきった上で、可那はわざと念入りに足にボデイクリームを塗り込んだ。
『この香りは男を惑わすよね。』と、数日前に友利が笑いながら営業と話していたのを可那は聞き逃さなかった。
本当はのんびりしていて隙だらけの友利を夢中にさせるなんて、とても簡単な事のように可那は思う。
今日は取引先へも行くし、きちんとした、でも大人っぽいスーツを着ようと心に決めていた。
ボディーケアを終えると、黒のパンツスーツに可那は着替えた。
取引先を出た頃にはちょうど11時を過ぎていた。
地下鉄の駅へ向かい友利と可那は並んで歩く。
強い日差しに顔をしかめながら可那は友利をそっと見上げた。
ビジネスバッグとさっき店を出てから脱いだスーツのジャケットを彼は片手に持って歩いている。
可那の好きな骨張った長い腕が、腕まくりで露わになっているのがたまらなくドキドキする。
「友利さん、お昼どうしますか?」
数メートル先には地下鉄の入り口が見えてきた。
このまま帰社するなんて絶対にありえない。
2人きりでランチを食べて友利とまた距離を縮めるんだ、そう可那は決めている。
「ちょっと遠いんだけどさ、前に話したアムリタホテルの鉄板焼き屋、どう?」
友利の呟きに、可那は目を輝かせる。
「行きたい!アムリタホテル、行きましょ!」
目の前のその腕に今にもしがみつきたい想いを抑えながら、可那は小さく叫んだ。
会社と反対方面にあるアムリタホテルまではここから地下鉄で約30分程かかる。
友利と電車に揺られて片道30分、2人きりの時間が更に増えるなんて好都合だ、と可那は思った。
「友利さん、アムリタホテルの方はよく行くんですか?」
お昼前の空いた車内で、2人寄り添い座りながら可那は甘えるように友利を見上げた。
今日も彼の髪はツヤツヤしている。
クシャッと触ってみたい、なんて思いながら可那は友利に微笑みかけた。
「んー、あんまり。今後は頻繁に通えるようになりたいけど。」
「ん?…え?どうゆう意味ですか?」
友利のおかしな返答に可那は目を丸くした。
そんな可那を見て、友利は恥ずかしそうに笑った。
「近くに娘の第一志望校があるんだよ。受かれば、ちょくちょく通えるようになるかなぁと思って。」
友利の口から珍しく『娘』という言葉が出て来て可那の胸はざわついた。
「え?待ってください?お嬢さんて、まだ幼稚園生ですよね?」
確か友利の娘はまだ小さいはずだ。
可那は首を傾げた。
「そうだよ、今、年長。小学校受験するからさ。」
「ふーん。お受験?て、やつですか?」
「そうそう。お受験。」
そういえば、と可那は思い出す。
いつか夏子と涼と飲んだ時、友利が初等部から貝聖大だという話題が出た。
アムリタホテルの近くにどんな小学校があるのかは知らないけれど、友利は自分の娘にも小学校受験というものを経験させるのかぁ、と可那はぼんやりと思った。
地方出身の可那にはお受験というものが今いちよく分からない。
地元には私立小学校すら存在しなかったし、幼稚園のうちから勉強だなんてした事が無かった。
字が読めた記憶すらない。
「へぇ…すごい。なんか大変そうですね。」
「まぁね。今日も模擬試験を受けに塾に行ってるよ。」
友利のなんだか嬉しそうな表情を見て、可那は面白くないなぁ、と思った。
娘の話、しかもお受験なんて全く興味も湧かない。
そんな事より、話したいことは沢山あるのだ。
可那は社内不倫をしている上司の噂話に話題を変えた。
サンライズ本部、3階の体育館の隅で、友利みちかは娘の乃亜と向き合っていた。
赤い生地に10という文字が白抜きされたゼッケンを付けたポロシャツに紺色のキュロットを履いた乃亜は落ち着かない様子でキョロキョロと周囲を見渡す。
固めに結った三つ編みが忙しく揺れる様子に、みちかもソワソワした。
「乃亜ちゃん、お茶は?飲んでおく?」
「うん。飲みたい。」
乃亜に水筒を渡し、みちかも体育館を見渡した。
普段はよその支部に通っている子や外部の子も含め今日の受講生は60人は居そうだ。
皆、体育館のあちこちで母親と過ごしている。
白のポロシャツに男子は紺色の短パン、女子は同じようなキュロットを履き、騒ぐ事もなく静かに模試の時間が来るのを待っている。
採点をするサンライズの講師も、今日は10名ほど居るのだろうか。
遠くの方には、いつもの体操着ではなくワイシャツにネクタイを締めた関崎の姿もあった。
無意識にみちかは百瀬の姿を探していた。
「百瀬先生居ないね。」
乃亜を見ると、水筒を両手で持ち不安そうな顔をして体育館を見回している。
てっきり他の子供たちに圧倒されていたのかと思っていたけれど乃亜も百瀬を探していたのか、とみちかはほんの少し驚いた。
「そうね。今日はいらっしゃらないのかしら。」
ひどくがっかりした気持ちになりながら、みちかは乃亜から水筒を受け取る。
腕時計を確認すると12時45分だった。
あと15分で模試は始まってしまう。
百瀬は模試よりももっと大事な仕事ができてしまったのだろうか。
みちかは息を吸い込みそっと吐き出すと、乃亜の視線に合わせてしゃがみ込み乃亜の手を取った。
「乃亜ちゃん、確認するわね。先生がお話しを始めたら?」
「静かに先生の目を見てお話しを聞きます。」
みちかは乃亜の目を見つめ、うんうんと頷いた。
「お名前を呼ばれたら?」
「大きな声でお返事をします。」
「お友達と自由に遊ぶお時間になったらどうするんだっけ?」
「1人で遊ばないで、お友達と仲良く一緒に、遊びます。」
みちかが満足そうに微笑むと、乃亜もニコッと笑った。
「頑張ってね。」
大丈夫、乃亜は落ち着いている。
乃亜の肩に手を載せみちかが頷いたその時、乃亜が小さく「あっ…。」と、声を漏らした。
「お待たせ致しました。模擬試験開始10分前になりましたので、受講者の皆さんはこちらにお並びいただきたいと思います。まず1から15までのゼッケンをつけているお子さまから並んで頂きます。こちらのスタッフのところまでお連れください。」
乃亜の視線の先にはマイクを持ち話す百瀬の姿があった。
みちかは立ち上がり、乃亜の手を握りしめる。
みちかは自分の胸が、一気に高鳴るのを感じていた。
エレベーターの扉が開き、他の母親達と一緒にみちかも掃き出されるように歩き出した。
エレベーターホールから外へと繋がる通路で、立ち話をする女性達と目が合う。
同じ時間に教室へ通っている子供の母親だ。
にこやかに会釈しながらその場を通り過ぎる。
サンライズ本部から外へ出ると途端に、熱気と強い日差しに襲われた。
前を歩く母親達は皆バラバラに散って行く。
みちかは迷わずに早足で駅を目指した。
混雑する人波に押し流されないよう慎重に改札へと向かう。
乃亜が模試を受けている間の1時間半、数日前から、この時間の過ごし方は決めていた。
地下のホームで電車を待ちながら、腕時計を確認する。
自宅から駅まで子供の足でおよそ20分、駅からルツ女まではあとどのくらいかかるのか。
そろそろ書き始めなければならない願書には、自宅から学校までの所要時間を書く欄がある。
何度もルツ女へ足を運んでいるけれど、正確にその所要時間を計った事はまだ無かった。
途中、危険な場所が無いのか今一度確認もしておきたい。
みちかはホームに滑り込んできた紫色のラインの電車に乗り込んだ。
ルツ女の最寄りの3つ目の駅までは各駅停車で7分程だ。
朝はかなり本数が多く、そう混まないと聞いている。
あっという間にその駅に着き、改札を抜けてエスカレーターで地上へ上がって行く途中、向かいの下りエスカレーターに乗ってきた制服姿の4人の女の子達とすれ違った。
濃紺のリボンのついた麦わら帽子と半袖のセーラー服。
夏期講習の帰りだろうか。
皆、可愛らしく利発そうな顔をしている。
あぁ、乃亜も1年後はあの夏服を着てここを通学しているだろうか。
地上へ出て緩やかな坂を登りながら、乃亜がお友達とこの道を歩いている姿を思い描いた。
学校への道は、ビル郡が連なるかなりの大通りだ。
それでも歩道はしっかりと広く、自転車とすれ違っても余裕があるほどだ。
3分ほど坂を登り、大きな神社の脇に入って行くと聖ルツ女学園小学校が見えてきた。
正門の前まで辿り着くと、みちかは小さく息を吐いた。
駅からここまで子供の足だと、5分ちょっとかかるだろうか。
近いと思っていたけれど、家から40分は必要だ。
電車を待つ時間も考えると1時間は見た方が良いかもしれない。
そんな事を考えながら、ルツ女の周りをゆっくりと1周する。
敷地を囲んだ背の高い塀から、木々の深い緑が見え隠れしている。
学園での我が子の12年間の生活、お祈りと学び、心身の豊かな成長を夢見て、どのくらいの親たちが今、自分と同じ気持ちで過ごしているのだろう。
ルツ女を目指す事は、どこまでも広がるあの分厚い真夏の雲を掴み取る事のようだ。
みちかは小さな横断歩道を渡ると、学校のすぐ向かいに面する神社の境内へと入った。
縁結びで有名なこの大神宮で、乃亜と学校のご縁をお祈りして帰ろう。
この学校に、この土地に、どうかご縁がありますように。
小さな可愛らしいお守りを買って、真っ赤な鳥居を抜けた。
神社に寄った事で、駅まで少し遠回りになってしまったな、と思った。
模試終了時刻まで残り30分、サンライズの本部へ戻るにはちょうどよい時間かもしれない。
早足で大通りを下って行きながら、みちかはふと足を止めた。
大通りの向かいにそびえ立つアムリタホテル、ずっと昔に悟と泊まった事があるそのホテルから出てきた背の高いスーツ姿の見慣れた男性。
若い綺麗な女の子と並んで歩いて行くその人は、悟だった。
自分は夢を見ているのかな、と気持ちの悪い感覚に襲われ、全身がゾワっとする。
黒のパンツスーツを着こなしたその女の子は、隣を歩く悟の腕に自分の腕を絡ませた。
甘えるように悟を見上げ、微笑みかける。
ふたりは一体何を話しているのだろう。
みちかの耳には通りを行き来する車の音しか入ってこない。
どうしよう。
どうすればいい?
みちかは立ちつくし、向かいの通りをただただ見つめた。
悟は全くこちらに気づかず、彼女と楽しそうに坂を登って行く。
2人を呼び止めてもいい、自分にはその権利がある。
だけど乃亜を迎えに行く時間がもう迫っているのだ。
腕時計を確認し、みちかは大きく息を吐いた。
自分の身体が震えているのを感じながら、早足で坂を下った。
「友利さん、良かった。心配しました。ちょうど今から総評をお話しさせていただく所です。体育館へ…。」
百瀬はそう言いかけ、みちかの顔を見ると急に黙り込んだ。
前髪の隙間から、三白眼の大きな垂れ目がこちらを確認するようにじっと見つめている。
途方に暮れながら、みちかは彼の目を見つめ返した。
ここまでどうやって戻ってきたのか、ほとんど記憶が無い。
ひどく喉が渇いていた。
こんなに暑いのに、何かを一口飲むことすら思いつかなかった。
「友利さん…、大丈夫ですか?」
今、外で見てきた事全てが夢に感じる位、百瀬の姿はとてもくっきりとして見えた。
パリッとしたワイシャツと、グレーのネクタイ。
ネクタイはよく見ると控えめな光沢感の中に子供想いの百瀬らしく飛行機や車の透かし絵が入っていた。
「遅くなって、すみません…。」
乃亜の所へ行かなくては、と思うのに足が全く動かない。
まるで子供を持つ前の、責任のない頃の感覚に戻ってしまったようだった。
「いえ、あの…。もしかして、体調優れないですか?」
まるで子供に話しかけるような百瀬の甘ったるい声に、みちかは泣きたくなるのを必死でこらえる。
自分はバチが当たったのかもしれない。
これは、突然目の前に現れたこの素敵な人にうつつを抜かした罰かもしれない。
「すみません。あの…ちょっと気分が悪くて。」
「友利さん、こちらへ!」
その時ギュッと腕を掴まれる感覚に、みちかはハッとした。
よく分からないまま、目の前にあった扉が開かれ小さな教室に連れ込まれた。
みちかは自分の腕が百瀬に握られている事にただ驚いていた。
教室の隅には、パーテーションがあり百瀬がそれをずらすと、奥には小さなベッドがあった。
「医務室なんです。総評の間、ここで休んでいてください。乃亜ちゃんは僕がお連れしますから。心配しないで。」
百瀬はみちかをベッドに座らせた。
百瀬の手のひらがほんの一瞬、みちかの手を包み込む。
温かい。
どうしてこんな事をしてくれるのだろう。
そう思うと自然とみちかの目から涙がこぼれた。
「百瀬先生…。」
先生には時間が無いのだ、子供たちも保護者も皆んな、彼を待ってる。
分かっているのに涙がポロポロと止まらない。
「乃亜ちゃんの、事ですか?」
百瀬が心配そうな表情でみちかの前にゆっくりとしゃがみ込んだ。
とても忙しいのに、すごくゆっくりと時間を纏っているかのようだった。
育ちの良い優しい人なんだなぁ、とみちかは思いながらハンカチで口元を押さえる。
「ごめんなさい、あの…。お気になさらないで。どうか体育館へお出になってください。」
「分かりました。えっと、あの。」
百瀬は立ち上がり、壁際にある小さな冷蔵庫からペットボトルを取り出すとみちかに手渡した。
「良かったらお飲みになってくださいね。」
百瀬が居なくなり、静かになった教室で、みちかは冷たいペットボトルを握りしめる。
素敵な女の子と並んで歩く悟の見たことのないあの笑顔。
良からぬ想像が次々と頭をいっぱいにする。
見た目が若い悟と彼女は、まるで恋人同士にしか見えなかった。
一体いつからこんな事になってしまっていたのだろう。
みちかの目から涙が溢れ、ペットボトルを握りしめる手の甲を濡らす。
百瀬が両手で包み込んでくれたその手を、みちかはもう片方の手でそっと包み込んだ。
「友利さん居なかったの?」
体育館に戻って来た百瀬に、関崎が心配そうに耳打ちをする。
模試の終わる時間になっても友利みちかが戻らないので百瀬は心配になり関崎に声をかけて体育館を飛び出した。
「会えたんですけど、ちょっと今来れない状況で…。」
百瀬は小声でそれだけ伝えると急いでマイクを持った。
子供たちはすっかり綺麗に並び体育座りをして、一斉にこちらを見あげている。
母親達も後ろで無駄話もせずに待っている様子だ。
百瀬は遅れた事を詫び、今日の模試の全体の評価と今後の課題を説明した。
母親と帰って行く子供達を体育館の出口で見送りながら、百瀬は関崎を手招きした。
「友利さん具合が悪いみたいで、医務室で休んでもらってるんです。ちょっと様子を見て来たいので、その間、乃亜ちゃんと遊んでもらって頂いてもいいですか?」
「そうなんだ。宮部さんに行ってもらったら?」
女性スタッフの名前を口にした関崎に、百瀬は小さく首を振った。
「俺、行ってきていいですか?これ終わったら。」
「え…、別に、いいけど。」
何か言いたそうな関崎の視線を感じながら、気づかないふりをして、「百瀬先生さようなら!!」と、帰って行く子供たちに笑顔を向け手を振る。
関崎が乃亜の所まで駆け寄り、母親の事を説明している姿を横目で確認しながら、百瀬は挨拶を繰り返した。
やがて乃亜以外の全ての受講生が居なくなると、百瀬は体育館を出て階段を降りた。
友利みちかは間違いなく自分を待っている、根拠のない確信が自分の中に何故かあった。
顔色がとても悪かったけれど、熱中症とか体調不良ではない気がする。
涙の理由は分からないけれど、受験に関する事でも、たとえそうでなくても自分は今彼女に必要とされているのが分かった。
百瀬は、友利みちかの居る教室を小さくノックして数秒待つとドアを開けた。
「友利さん。入りますね。」
なるべく優しい声で名前を呼ぶと、パーテーションがそっと開いて友利みちかが現れた。
その顔を見て百瀬はホッとする。
そこには余裕をたたえたいつもの彼女が居た。
少しはにかんだ表情を浮かべて。
「大丈夫ですか?」
「はい。ご心配おかけして申し訳ありませんでした。」
「良かった…。お顔色も良くなりましたね。」
友利みちかに近づくと、ほんのりと甘い香りがした。
さっきは必死だったから、気づいていたけれど意識する余裕が無かったのだ。
それはいつもの彼女からは感じた事のない甘くて深い香りだった。
脳が痺れて胸が高鳴る、何もかも手放したくさせるような浮遊感のある香り。
「あんな姿をお見せしてしまって…。恥ずかしいです。乃亜は、大丈夫でしたでしょうか。」
「関崎と体操をしてます。乃亜ちゃんは模試もしっかり出来ていましたから、ご心配ないです。今日の様子は、動画で後日ご覧いただけますので。」
友利みちかが心からホッとした表情をした。
さっきは勢いで手を握りしめてしまったけれど、どうしてそんな大胆な事が出来たのか自分でもよく分からない。
「友利さん、あの、これ僕の携帯番号です。もしお困りの事があったら、いつでもご連絡してください。会社の携帯より繋がりやすいので…。」
百瀬はポケットの名刺ケースから、一番上の名刺を差し出した。
何かあった時のために、1枚だけプライベートの携帯番号を書いて持っていて良かった、と思った。
友利みちかはそれを両手で受け取った。
彼女の自分を見つめる瞳が潤んでいるのを見て、思わず口元が緩んでしまいそうになる。
彼女は本当に可愛い、11歳も離れた大人の女性なのに、何故こんなにも可愛いのだろう。
「ありがとうございます。」
友利みちかの両の手の中に、自分の名刺が大切そうに包まれているのを見て百瀬は温かい気持ちになった。
「乃亜ちゃん、こちらまでお連れしましょうか。」
「いえ、私も体育館に参ります。関崎先生にもお礼をお伝えしたいので。」
百瀬は友利みちかと教室から出ると、並んで体育館へ続く階段を登った。
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