夏期講習

その大手幼児教室は、駅に隣接した超高層ビルの15階にあった。

ズラリと何基もエレベーターが並ぶホールで、みちかは乃亜の手を握りしめ、到着したエレベーターに乗り込む。


ウエストでグレーのラインの入ったタータンチェック柄に切り替わる上品な濃紺のワンピースを着た乃亜の姿がエレベーターの中の大きな鏡に映り込む。

綺麗に編み込まれた三つ編みはとてもよく似合い、形の良いおでこをした乃亜はとても聡明に見える。

ストラップ付きの黒の革靴に、シンプルなレッスンバッグ。

上昇するエレベーターの中で、みちかは娘の全身をじっくりと落ち着いて確認した。

緊張する気持ちを抑えながら15階でエレベーターを降りると、目の前に、すぐに幼児教室の入り口があった。

そっと重たい扉を押し、中へ入ると受付があり、若い女性が1人座っていた。


「こんにちは。」


受付の女性は立ち上がり、笑顔でみちかと乃亜に挨拶をする。


「こんにちは。」


すぐに挨拶を返した乃亜に、みちかは会釈をしながらビックリしていた。

人見知りの激しかった乃亜が迷いもなくこんなにはっきりと挨拶できるようになったなんて。

間違いなく百瀬のお陰だ、とみちかは思った。


「挨拶がとてもお上手ですね。」


可愛らしい声で褒める若い女性に、みちかは「ありがとうございます。」と頭を下げた。


「本日からの夏期講習にお伺いした友利乃亜です。」


「友利乃亜様ですね。お申し込みいただいたのは、聖ルツ女学園90分コースですね。どうぞ1番のお教室です。」


「はい、失礼致します。」


女性が手をかざした方には靴箱があり、そちらへ向かうと50代近いショートヘアのベテラン風の女性が立っていた。


「こんにちは。」


女性は声が大きく、乃亜はややびっくりした様子で立ち止まってしまった。

みちかがそっと見守っていると、少しして小さな声で「こんにちは。」と、乃亜は言った。

女性は乃亜の様子に小さく2、3頷くと、みちかの顔を見て笑顔で言った。


「聖ルツ女学園コースを担当させていただく南野です。」


「友利です。どうぞ宜しくお願い致します。」


みちかは深々と頭を下げる。


「乃亜さん、こちらで上履きに履き替えましょう。お母様も、どうぞ。」


テキパキと指示を出す女性に、みちかはなんとなく威圧感を感じ、この方が担当なのかと少し不安を覚えた。

靴を脱ぎ、持参したスリッパに履き替えていると、「南野先生、こんにちは!」と、背後から元気な声がした。

振り向くと水色のワンピースを着たおかっぱで目の大きな女の子と母親らしき女性が立っていた。


「あら!あやのさん、こんにちは。」


どうやらいつもこちらのお教室へ通っている生徒のようで南野は、あやのという生徒とその母親と打ち解けた様子で話し始めた。


みちかが乃亜の方を見ると、乃亜は自分の革靴を靴箱に置き、上履き入れから上履きを出しているところだった。

緊張しているのかひとつひとつの動作に時間がかかっているのは気がかりだったが、みちかは黙って見守っていた。


そろそろ慣れない環境にも適応できるようにしていかなくてはいけない。

百瀬という存在は、乃亜にとって良い意味でも良くない意味でも安心感がとても大きい。

試験はそんなに甘くないから、別の場所で緊張させる事が大切なのだとみちかは自分自身に心の中で言い聞かせた。



子どもを教室へ送り出すと、母親たちはその隣の教室からマジックミラー越しに様子を見ることが出来た。


座学は、幼稚園で慣れてはいるものの、お教室では初めてなのでみちかは不安に思いながら乃亜の様子を見守った。

全部で12名の女の子たち。

皆、ルツ女を目指しているだけあってとても優秀そうに見える。

母親たちも、紺色を着用している人が多くてサンライズとは違った緊張感をみちかは感じていた。


7月の頭に夏期講習の申し込みの間に合うお教室を探し、ひばりに相談したらここを勧められた。

ひばりの息子の翠くんも、受験の時には個人塾と掛け持ちで、夏期講習や模試をここで受けていたそうだ。

問題の質がなかなか良く、ルツ女や敬栄のノウハウを比較的たくさん持っている事も合格者数から感じたらしい。


先生の質問に、子どもたちが元気に挙手をする。

乃亜は、落ち着かないのかキョロキョロとして手を上げられずにいた。

どうやら日頃から、ここの教室へ通っている会員の子どもが多いようで、まだ雰囲気に慣れない乃亜は圧倒されている様子だった。


乃亜がここに馴染んでくれるようなら、サンライズと掛け持ちして直前講習などもここで受けたい、みちかはそう考えていた。

それと、面接対策もだ。


小学校受験において、多くの学校では親子面接が非常に重要視される。

ルツ女は特に父親と子供の関係性などよく見られる傾向にあるようで、乃亜の受験対策から離れてしまっている悟の協力も不可欠なのだ。

最後は、家族3人で気持ちを一つにしないととても受からない、みちかはそう思っていた。

それなので家族揃っての面接の練習を1度か2度は経験しておきたかった。


サンライズでも面接対策はあるのだが、悟と百瀬を会わせる事にみちかは抵抗があった。


誰にも知られることのない密やかな想いであっても、うしろめたさや罪悪感が自分を苦しめるだろう事をみちかは恐れていた。


それに娘の志望校は、ルツ女でなくてはならないという曲がらない気持ちの悟と、乃亜には聖セラフが合っていると一度は見抜いた百瀬を会わせたくはないと、みちかは思っていた。


それぞれに違う特色を持つ私立小学校がいくつもある中で、娘に合う小学校はどこなのか、悟はそこまで掘り下げた事が無い。

百瀬と出会うまでの自分もかつてはそうだったけれど、ルツ女しか見えていない夫を百瀬に会わせる事の恥ずかしさもあった。




全ての内容を終えると親たちは子どもの居る教室へと呼ばれた。

そして自分の子どもが解いたペーパーのプリントが、それぞれ手元に配られた。


「それでは、本日の内容を順に解説して参ります。」


南野が、親たちの前に立ち、ハスキーな声で言った。

子どもたちは前方のテーブルで、お題に沿ったお絵描きを静かに行なっている。


みちかはボールペンを握りしめて、南野の言葉を聞き漏らさないよう真剣に耳を傾ける。


「まずは図形の問題からですね。」と、南野はいくつもの図形が並ぶ1番目の問題の解説を始めた。


「どれとどれを組み合わせれば、この形が出来上がるでしょうか、という問題ですね。図形の問題はルツ女は必ず毎年出ます。ご家庭でタングラムなど用いて対策されているとは思いますが、非常に複雑なものも出題されますので今一度ご確認お願い致しますね。では次です。」


乃亜の解答は4問中3問正解で、最後のやや複雑な形の組み合わせが分からなかったようだった。

タングラムでのパズル遊びはよくやってはいたが、もう少し難しい物にも挑戦しておかなくてはとみちかは思い、赤字でタングラム、とプリントに書き込んだ。


「数量の問題ですね。上の四角の中にネコとウサギとリスがいます。ネコとリス合わせると何匹いますか。その数だけ丸を書きましょう、という問題です。こちらはもう大丈夫ですね。数え間違いのないように。お次は、ウサギがあと何匹やってくればリスと同じ数になりますか。その数だけ丸を書きましょうという問題です。ここではまず、ウサギとリスそれぞれの数を数えて比べる事からやらなくてはいけません。ご存知とは思いますが…。」


そう言って、南野が数の把握の仕方を足早に説明した。

乃亜は、この問題は解けてはいたけれど南野が言うにはこれはまだ簡単で、明日はもっと複雑な数量の問題を出すので復習をしてください、との事だった。


「次の問題です。」


そう言って南野はどんどん解説を進めていく。

公園で遊ぶ子供たちの絵の中で、してはいけない事をしている子供を探して丸をつける常識の問題、色々な果物が載っているシーソーを見て、どの果物が一番重たいかを考える重さ比べの問題、点つなぎ、迷路、など。


南野は、年長のこの時期には既にある程度まで対策が仕上がっている事を前提として解説を進めている様子だった。

ずっと自宅だけで対策をしてきたこともあって、乃亜は、得意な分野と苦手な分野の差が大きいようだった。

丸とバツが半々くらいの結果となっていて、南野がつけた、勢いのあるバツの赤字の多さにみちかは密かに焦りを覚えた。




駅から繋がる地下街を、人混みを縫うようにみちかと乃亜は手を繋ぎ歩いた。


履き慣れたはずの黒のローヒールの足取りが重い。

それは自分だけではなく乃亜も同じようだった。


テナント店が並ぶ地下通りのウインドウにうつる自分達の姿は、見る人が見ればすぐに分かるお受験親子ルックだ。

それが今は無性に気恥ずかしく感じて、とにかく早く自宅へ戻りたい、そんな風に心が小さく悲鳴をあげている。

終わったらデパートの甘味処で、かき氷でも食べていこうなんて考えていた事もすっかり忘れてしまうくらい気持ちは沈んでしまっていた。


乃亜のプリントの出来栄えは、半分が不正解。

しかし、今日の問題はまだ基礎に近く、明日明後日と徐々に難しくなっていくという。

更にルツ女の考査では毎年行われる、先生と一対一の対応を見られる個別試験も、受け応えの声が小さく元気が無いと南野に注意されてしまった。

唯一救われたのは、集団行動や自由遊びの分野で、サンライズでの対策の成果か乃亜は南野に絶賛された。

周囲との協調性は抜群だし、お友達に譲る配慮もしっかりできる。

あとはキラリと光る何かが欲しい、それがないとルツ女は難しいし、聖セラフにおいても同じ事が言えると、辛口の南野はハッキリと言った。


地下街から階段で地上へ上がる。

途端に夏の午後の暑さがみちかと乃亜に襲いかかる。


「ママ、暑い…。」


乃亜が小さく呟いた。


やっぱりかき氷を食べさせてあげれば良かったとみちかは少しだけ後悔した。

明日の帰りは立ち寄ろうね、と約束しながら頭の中で今日の夜の勉強の計画を立てる。

明日の夏期講習が、とても心細かった。

今の状況を理解して、気持ちを分かってくれる存在は百瀬しか居ないとみちかは思った。

百瀬に会いたい、会ってたくさん話を聞いて欲しい、そう思った。


泣きたいような気持ちをなんとか抑えながら、乃亜の小さな手を引いてみちかはひたすら焼けるようなアスファルトの上を歩いた。




体操教室の始まる20分前、準備を終えて1人教室の片隅で百瀬はバインダーに目を通していた。


夏休みも半ばを迎え、サンライズ体操教室小学校受験コースでも、来週頭には行動観察模試を控えている。

百瀬の受け持つ内部生の申し込みは、ほぼ100%、外部生の受講者も何名か参加する予定だ。

ここ本部にある体育館に、いくつかあるサンライズ支部の受講生が全員集まり行われる大規模な模試となるため、ここのところずっと準備に追われていた。


模試を控えた自分の受講生達とその保護者達に、今日はどんな言葉をかけるべきか、百瀬は真剣に考える。

夏休みのこの時期になると、小学校受験対策に疲れを感じてしまう家庭も少なくない。

ずっと頑張ってきたからこそ感じる疲れではあるけれど、まだまだ本番まで2ヶ月半。

ここで今一度、やる気を高めてもらう事はとても大切な仕事だった。

それに今日は来月行う親子面接対策の案内もしなくてはならないし、保護者へ話すことが山のようにある。

百瀬は大きく息を吐いて、頭を切り替える。

ひとまずは今日の体操教室で行う内容を頭の中で整理しなければ…。

受講生一人一人に思いを巡らせようとした、その時だった。

突然背後から「百瀬先生!!」と聞き慣れた可愛らしい声がした。


振り向くと、入口の方から体操着姿の友利乃亜がこちらへ向かって駆けてくる。

あっという間に乃亜は百瀬のもとにたどり着き、そして勢いよくギュッと抱きついた。


「わぁ、乃亜ちゃんか。びっくりした。」


乃亜は力強く百瀬にギュッと抱きついたまま動かない。

顔を上げると、友利みちかが照れたような表情で百瀬に近づいてきた。


「こんにちは。すみません先生。乃亜ちゃん、ご迷惑よ。」


濃紺の上品なセットアップに、珍しく髪をゆるく巻いた友利みちかはとても可愛らしく見え、百瀬はドキッとした。


「先生、乃亜ちゃんね、先生に会いたかった。」


乃亜が百瀬を見上げ、ニコッと笑う。

その無垢な表情に、思わず心が和み百瀬は手にしていたバインダーを教壇に置くとしゃがみこみ乃亜の手を取った。


「乃亜ちゃん、ありがとう。先生も会いたかったな。」


そう言ってから、百瀬はハッとした。


「そうか、乃亜ちゃん夏期講習を受けてきたんだよね。他のお教室はどうだった?」


先週、友利みちかは面談で、光チャイルドゼミナールの夏期講習へ行くと話していた。

百瀬がゆっくりと乃亜に質問すると、乃亜は小さく首を横に傾けて少しだけ口をへの字に曲げた。


「乃亜ちゃん、百瀬先生が一番だと思った。」


小さな声で乃亜が呟く。

可愛いなぁ、と純粋に思いながら百瀬は乃亜の頭をポンポンと撫でた。

そして立ち上がった百瀬は、友利みちかに視線を合わせた。




「ちょうど昨日まで、夏期講習だったんです。」


友利みちかが言った。


「どうでしたか?光チャイルドは。」


百瀬の質問に、友利みちかは困ったような顔で微笑んで見せた。


「先生方が、大変熱心だったのですが…。その分とても厳しくて3日間連れて行くのが大変でした。自分なりに頑張ったようなのですが…。乃亜はずっと百瀬先生に会いたいと、言っていました。」


友利みちかの言葉が嬉しくて、百瀬は思わず照れ笑いをした。


「厳しいという噂はよく聞きます。でもその中で頑張った分、自信がつく子も多いみたいですよ。乃亜ちゃん、よく頑張ったね。」


百瀬は、乃亜に優しい視線を向けると友利みちかがポツリと言った。


「だといいのですが…。周りの生徒さん達が、とても優秀で。毎日とても心細くて、私も娘と同じで、ずっと百瀬先生にお会いしたかったです。」


友利みちかの言葉に、思わず百瀬は固まったまま彼女の顔を見た。

困ったような表情で、友利みちかは百瀬を見つめている。

百瀬は言葉を失ったまま、友利みちかの目をじっと見つめ返した。


「あの…、行動観察だけは本当によくできたようで先生がとても褒めてくださったんです。本当に百瀬先生のおかげだと思います。」


照れたようにそう言うと、友利みちかは乃亜の方へと視線を移してしまった。


「そんな…。乃亜ちゃんの実力ですよ。」


たった今起きた一瞬の出来事は一体何だったのだろう。

あっという間にうやむやに埋もれてしまった言葉の意味を探ることもできずに、百瀬は頭がボーッとするばかりだった。

その時教室の入り口がザワザワとして、受講生達が次々と教室へ入ってきてしまった。


友利みちかは綺麗に会釈をすると、乃亜と共に教室の後ろの席へと歩いて行った。



「ももちゃん、今日終わったら飲みに行かない?」


事務室でPCに向かっていた百瀬の耳元で、関崎が囁いた。

百瀬は、ハッとして関崎の顔を見る。

いつも時間になればまっすぐ家に帰るイメージの関崎から飲みに誘われるなんて珍しい。


「え、いいですけど…。」


半信半疑で百瀬が応えると関崎はニタッと幼児に向けるような笑みを浮かべた。


久々に定時に退社をし、関崎に連れて行かれたのは女子がデートに好むような可愛らしい半個室のある居酒屋だった。


「関崎さん意外ですね。こうゆう趣味だったんですか。」


席に着いた百瀬が真顔で言うと、関崎は苦笑いした。


「そんなわけないだろ。ももちゃんの好みかなぁ、と思ったんだよ。」


「マジですか。嬉しい…。」


関崎の冗談に百瀬は笑った。


「俺はとりあえずビール。あとは百瀬の好きなもの頼んでいいから。」


「あ、いいんですか?じゃ、とりあえずビール頼んでから決めようかな。」


そう言って、百瀬は店員を呼ぶと2人分のビールをオーダーした。


「しかし、すごいお洒落ですね。」


テーブルの上に載っているメニュー表も木製だし、天井には小ぶりなシャンデリアが吊り下げられていて、そこかしこが凝った造りだ。

関崎の背後からドーム状に百瀬の背後まで続いている真っ白な壁は、よく見るとヨーロッパの古城の壁のような模様の漆喰塗りだった。

思わず百瀬は壁に手を伸ばし、撫でてみる。

壁はほんの少し掌に痛みを感じるようなザラザラとした刺激的な感触をしていた。


「でも、こうゆう店なんて彼女とよく来るでしょ?」


関崎がそう言ったタイミングでちょうどビールが運ばれてきて、2人はひとまず乾杯をする。

あっという間に、グラスの中身は半分以下になってしまった。

ふぅ、とひと息ついた後、百瀬はポツリと口を開いた。


「関崎さん、俺、別れたんですよ。」


百瀬の言葉に関崎が無言のまま両目を大きく見開いた。


「うそ、いつ別れたの!?」


関崎が悲壮感漂う表情で小さく叫んだ。

まるで体操の時間に跳び箱から落ちた幼児に向ける表情と同じだ、と百瀬は思った。

関崎さんは俺が振られたと思い込んで哀れんでくれているんだなぁ、と思いながら百瀬は梨沙と別れた時期を必死で思い出そうとする。


「えっと…。いつかな、先月ですかね。」


すでに、別れたのがいつだったのかさえよく思い出せない。

そのくらい自分は冷めていたんだな、と百瀬は改めて思う。

実際に、梨沙と別れて寂しいと思った事は一度もなくて、むしろ気分は清々としていた。


「なんでまた…。」


相変わらず苦い顔の関崎に、さすがに別れた本当の理由なんて言えないよなぁと百瀬は思った。


「会える時間がなかなか取れなくなってたんで。別れたら楽になったんですよ。」


百瀬は出来るだけカラッと言った。

関崎は退屈そうな表情で「マジかよ。」と、呟く。


「だから放ったらかすなって言ったのに。」


そう言ってビールを飲み干す関崎に、聞いてくださいよ、と言いたいのを百瀬はぐっと堪える。

疲れているのに朝夜構わず何度も求められて、人前でも構わず身体にベタベタ触れてきた梨沙。

あんなに四六時中しつこくされたら、関崎だって耐えられないだろう。



「俺、若い子の相手は向いてないみたいです。」


思わず吐き捨てるように言ってしまった百瀬はバツが悪くメニュー表に目を落とす。

でも、そうなのだ、梨沙は精神年齢で言えば子供とさほど変わらなかった。


「そうなの?贅沢だなぁ。お前だって、もうちょっと経てば若い子の方が良く見えるようになるよ、絶対。」


関崎が独り言のようにポツリと言った。


「そうですか?」


「そうだよ。男なんてみんなそうだよ。年上に憧れるのも若い時だけ。」


妙に分かりきった風の関崎の物言いに百瀬はほんの少し気分を害されたように感じ再びメニュー表に目を落とした。


自分も一時的にただ年上に憧れているだけなのか、そんな思いが百瀬の心にひっかかる。


特別な事のように思える今のこの気持ちも、世間にはありふれた、よくあるつまらない事に分類されてしまうのか。

もちろん、奇跡なんて起こらないし、自分は道を踏み外さない。

なにかを壊したり、誰かを悲しませたりする気も全くない。


こんな気持ちは始めてなのに。

つまらない事は言われたくない。

誰にも分からないに決まってる。


百瀬はメニュー表を見る。

そしてわざと明るい声を出す。


「関崎さん、ここステーキめちゃくちゃ美味そうですよ。」


「へぇ。俺さ、全然知らないでここ入ったから。いいじゃん、頼んで。あとビールも。」


百瀬が店員を呼んでビールのお代わりと一緒に色々とオーダーをし終わると、関崎が何故かニヤニヤして身を乗り出した。


「この間さ、体操教室の後、寺田リンちゃんのママと長々と話してたんだけどさ。」


「またですか?関崎さん、仲良いですねー、寺田さんと。」


寺田リンは、雪村幼稚園の年長児の課外授業で関崎が受け持っている体操教室の優等生だった。

寺田リンには姉と兄がいて、皆、雪村幼稚園を出ている。

母親は長いこと園に通っているせいか、園では誰よりも情報通で顔も広くみんなに知られている。

付き合いも長く話しやすい性格なので、百瀬もよく会話は交わすが関崎とは特に仲が良かった。


「いや、なんかうちの受験コースに親戚が入会したがってるとかで。紹介してたんだけど、その時たまたま教えてもらっちゃったよ、友利さんの年齢。」


「へ?」


突然、友利みちかの名前が出てきてしまって百瀬は複雑な思いで関崎を見つめる。

このタイミングで友利みちかの話題とは、関崎にはやっぱり自分の気持ちを見抜かれているのだろうか、と百瀬は密かに思った。


「40歳なんだって。リンちゃんのママと同い年。なぁ、どう思う?」


「は?どう思うって、何ですか?」


百瀬は返答に困り、運ばれてきたビールを思わず口にする。

いつか園から友利乃亜を抱き抱え、家まで送った時に百瀬の年齢を知り「お若いんですね。」とにこやかに驚いていた友利みちかを思い出す。

そうか、彼女が40歳なら、ひとまわり近く自分よりも年上なのか、と百瀬は酔いが回り始めた頭でぼんやりと考えた。


「あの若さで40歳って、凄いよね。なんていうかさ、可愛いじゃんあの人。」


関崎が熱く語りながらビールを口にする。


「そうですね…。まぁ、確かに可愛らしいですよね。」


百瀬は当たり障りなくオウム返しをするしかなかった。

彼女の魅力を語ったら止まらなくなる自信がある。




「なんだろうね、やっぱ旦那に大切にされてるのかなぁ…。」


関崎が遠い目をして言った。

店員が来て、百瀬が頼んだ料理を次々と目の前に並べていく。

今日は関崎の奢りだろうから、遠慮なく好きなものをオーダーしたのに関崎の発言のせいで料理がそれほど美味しそうに感じない。


「あれ、面接対策には来ないの?友利さんのご主人。見てみたくない?」


「いや、来ないです。今日、案内したんですけど、面接対策は光チャイルドでやるみたいで。」


「ふぅん。残念だね。あ、美味そう。冷めないうちに、いただきます。」


関崎が洒落たカッティングボードに並んだステーキを箸で摘まみ上げる。

百瀬も関崎に続いてステーキに箸を伸ばした。


今日、友利みちかに面接対策の申し込みを断られ、残念どころかこれで友利みちかの旦顔と顔を合わせなくて済む、と百瀬はホッとしたのだ。


それからしばらく関崎と百瀬は黙々と料理を口に運んだ。

関崎が内装の可愛らしさだけで選んだ割にどの料理も味は良く、百瀬の気持ちは自然と和んでいった。


考えてみれば、関崎は良い先輩だと思う。

感が良くて鋭いけれど、その分話しやすいし、こうしてたまに美味しいものをご馳走してくれる。

そんなに頑なにならず、友利みちかへ抱く気持ちも軽いノリで話してしまってもいいのかもしれない、と酔いの回った百瀬は思った。


「でもさ、光チャイルドに面接対策頼むって、友利さんそんな事まで百瀬に話しちゃったりするんだね。」


関崎の言葉に、百瀬は最後の一切れのピザに伸ばした手を思わず止める。


「あぁ…。」


百瀬はなんとなく気まずく、一瞬、言葉を詰まらせた。

受験塾の併用は、普通、担当講師には話さないものだろう。

それが常識なのかもしれない事は百瀬も分かってはいた。


「俺が、進めたんです、夏休みは他の教室のルツ女対策コースに行った方がいいって。正直、うちのカリキュラムじゃ、まだまだルツ女対策は完璧とは言えないじゃないですか。」


「まぁね。それでいいんじゃない?仲良いじゃん、友利さんと。」


関崎が百瀬の目を見てニヤリと笑う。

百瀬も関崎の反応につられ、思わず顔がほころんだ。


「いや、ていうか…。あの人、面談の時とかすごい心細そうな顔するんですよ。やられますよ、あの表情には。なんとかしてあげたくなります。」


「ふぅん。いいじゃん、ももちゃん頼られちゃってるんだ。」


そうニヤニヤしながら言いつつも、関崎は半個室の一部壁の抜けた隙間から素早く店員を呼び止めオーダーをする。


「えっと、ビールを…、百瀬も飲むよね?」


百瀬が頷くと、関崎はビールを2人分オーダーした。

そして店員が遠のくと言った。


「羨ましいよ、友利さんの担当。俺も受験講師やりたいなぁ。」


「えぇ?関崎さんには無理ですよ。」


百瀬が冗談を言って笑うと関崎も爆笑した。


「うるさいよ!でもね、寺田リンちゃんのママにもよく言っといたから。百瀬はいい講師ですよって。そしたらなんて言ったと思う?百瀬先生、イケメンですもんね、だって。百瀬、母達の間で人気らしい。」


「はぁ?マジですか?俺、サッカー教室だと、母親たちの風当たりめちゃくちゃ強くて結構悩んでますけど。おかしいなぁ。」


百瀬が笑っていると、関崎が真面目な顔をして言った。




「でもさ、正直、百瀬としては受験講師やってるのって、どうなの?辛くない?もっとサッカー教えたいんでしょ?本音は。」


「いや、うーん…。まぁ、そうなんですけど。」


また関崎は鋭いところを突くな、と思いながら百瀬は考える。

百瀬が体操教室に入社したのは、そもそも子供にサッカーを教えたかったからだ。

関崎はその辺りをよく理解してくれている。

だけど本当に最近になって、受験講師の仕事が嫌ではなくなってきたのも確かだった。

そこに友利みちかの存在が大きい事も、なんとなく感じている。

関崎にはどこまで真面目に語るべきなのだろう、百瀬は少しだけ考えた。


「正直、最初はほんとに嫌でしたよ。右も左も分からない俺が、講師に駆り出されたのもルツ女対策要因ですからね、身内がルツ女OGっていう理由だけで。でも実際、少しは合格実績出せるようになったし、まぁ、ちょっとは面白くなってきたかなぁ。今のカリキュラムに不満はありますけどね。」


「ふぅん…。ももちゃん頑張ってるなぁ。」


「そうですか?」


「うん。彼女と別れたのもいいタイミングだったかも。」


関崎はそう言うと、少しの間黙った。

そして声を潜めて言った。


「あのさ、内緒だよ。実はこの間、雪村幼稚園の出向に関する事で話があるって室長に呼ばれたんだけどさ。」


「え!まさか関崎さん…。」


ついに関崎が、雪村幼稚園を去る日が来たのかと、百瀬は身構える。


「いや…。それが…、ももちゃんが雪村幼稚園を9月いっぱいで異動。サッカー教室も。」


「えぇ!?俺ですか?」


関崎の言ってることが信じられなくて、百瀬は頭が一気に真っ白になる。


「え…、なんでこんな中途半端な時期に?サッカーもですか?えぇ…。」


百瀬の頭の中で、次のサッカーの試合とか、口煩いけれど一生懸命な母親たちとか、子供達の顔が一気に思い返される。


「無理ですって、こんな急に。だいたい誰が引き継ぐんですか?」


「川村先生だって。あの人なら急でも何でも誰も文句は言わないだろうって、室長が言ってた。」


「あの川村さんが?マジですか。」


川村は、以前同じ支部にいた先輩で、百瀬よりも5、6歳年上のベテラン講師だった。

雪村幼稚園のサッカークラブはもともと彼から引き継いだし、何より彼は高校時代にサッカー留学をしていたほどの人物で、サッカーの腕前は百瀬よりも上なのだ。


「そう。で、年少の体操は、俺が引き継ぐ予定。」


「え…、じゃあ、俺はどこに…。」


戸惑う百瀬に関崎が「絶対まだ言わないでね。」と、念を押した。


「社長がお受験事業を拡大させる計画立ててるらしくて。来年、幼稚園受験対策コースも設立するんだって。で、百瀬は受験専任講師に抜擢される予定なんだって。」


「はぁ?受験専任講師?」


あまりにも急すぎる展開に、百瀬は酔いが一気に覚めるようだった。


受験専任講師だなんて、毎日がお受験一色かと思うと素直に喜ぶ気にならない。

体操講師とサッカー教室、そして受験講師、やる事も考える事も多くて大変は大変だけれど、園と本部を行き来する生活は嫌いではなかったのだ。

だいたいどうして室長は、自分より先に、関崎に話したのだろう。



「どうしても百瀬に任せたいって社長からの任命らしいけど、これで百瀬に辞められちゃったらどうしようって、室長はすごい心配しててさ。百瀬がサッカー教えたい事は室長もよく知ってるじゃん?『どっぷり受験講師じゃ百瀬くんも辛いよね?』って言ってたよ。『辛いと思います』とは言っといたけど。社命だからどうにもならないんだって。」


「マジかぁ…。なんでまた俺が…。」


百瀬は両手で、頭を抱え込む。


「そんな新しいこと始める前に難関小学校の対策に力入れないのかなぁ。せめてペーパー対策の講師雇うとか。」


「まぁね。でもあくまでもうちは体操教室だし。受験コースは、行動観察分野で勝負していきたいんじゃない?」


「はぁ…。」


百瀬もそれはよく分かってはいた。

そもそもサンライズの受験コースは、受験においての行動観察対策を担う教室という理念を掲げて社長が立ち上げたのだ。

途中で面接対策も導入されはしたけれど、受験対策を全てカバーできる教室ではない。


友利親子の事があるからこそ、自分は最近難関校対策に熱くなってしまっているのだ。

百瀬はため息をついた。


「俺も詳しくないけどさ、幼稚園受験こそ行動観察なんだろ?社長の考えとしては、1、2歳児向けのコースの開講を考えていて、それに向けて社員教育にも本格的に力を入れるって。なんだっけ、モンテッソーリとか…最近なんとかエミリオ?みたいな名前の教育法もあるじゃん、分かる?」


「レッジョエミリアですか?」


百瀬が答えると、「そうそう!それ、ももちゃんさすが!」と、関崎は手を打った。


「百瀬はそれの勉強で、イタリアに海外研修に行かされるみたいよ。国立小学校の受験結果が出たらすぐ。」


「イタリアですか!?」


「うん。そう。」


百瀬は言葉を失った。

関崎の口から出てくる自分に関する情報は、全てがあまりにも唐突だった。

ガラッと飛躍してしまうであろうこれからの日々の事で頭はいっぱいになる。

質問すら思いつかない。


「はぁ、マジかぁ…。」


9月いっぱいで雪村幼稚園とお別れして、12月にはイタリアへ幼児教育を学びに行く。

社命には抗えないけれど、あまりにも急だ。

子供達にサッカーを教える環境に戻れる日は、もう二度と来ないのだろうか。

それに受験が終わったら、友利みちかにも会えなくなってしまうのだ。

友利乃亜が卒園していく姿も見れないなんて。


「来週には、室長から話があるからそのつもりでね。俺が話しちゃうのもどうかな、と思ったんだけどね。百瀬が受験講師として今前向きになれてるなら、決して悪い話でもないと思うんだ。ももちゃんならできるし、ももちゃんしか居ないと俺も思う…。」


「関崎さぁん…。」


百瀬は泣きたくなった。

先輩にそんな風に言われ嬉しくないわけではない、だけど自分は一体どこへ向かわされているのだろう。


「飲め飲め。とりあえずなんでも話せるように、個室の店探したんだよ。急いで探したらこんな女子力の高い店になっちゃったけど。」


関崎の冗談に、百瀬は苦笑いを返した。


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