園庭で

朝のお迎えの来る10分前。


友利みちかはクレマン帽子を乃亜に被せ、園指定のリュックサックを乃亜の背中に背負わせた。


お弁当に水筒、お着替えの体操着。

今日も忘れ物はない、確認し終えるとダイニングテーブルの上にある1枚のプリントを手に取った。


園からのお知らせ、提出の締め切りは7月5日(木)、今日だ。


先週末に配布されたこの用紙、通常であれば週明けには提出している。

既に記入もしてあるし、提出も乃亜のリュックのポケットに入れれば済んでしまう簡単な事なのに、今日までずるずると出さずに来てしまった。


理由ははっきりしている、そんな事を考えついた自分にみちかは戸惑っている。


「ママ、行かないの?」


プリントを見つめるみちかを、不思議そうに乃亜が見上げる。


「そうね、行きましょう。先生、いらしちゃうものね。」


みちかは乃亜に笑いかけると、プリントをリュックには入れずにダイニングテーブルに戻し、乃亜の手を取った。


公園は緑が増え、夏らしい日差しが降り注ぐ。

いつものように、先生やお友達と園へ向かい歩いて行く乃亜の後ろ姿を見送り、自宅へと戻る。


今日は、百瀬が園に来る日だった。


今日提出締め切りのプリントを、乃亜の降園時間に合わせて園まで届けに行けば百瀬に会えるかもしれない。

理由は何でもよくて、ただ園に行く自然な理由がほしかった。


先週だって、体操教室で百瀬には会った。

それなのにもっと百瀬の顔を見たいと思う。

あぁ、やっぱり、自分はどうかしている、とみちかは思う。

気がつけば百瀬に会いたいと思っているのだから。


先週、百瀬から借りたルツ女の文集はもう何度も読み返している。

第一志望校をルツ女にすることに対する迷いも不安もいつのまにかみちかの中には無くなっていた。

合格に向けてひたすらやれる事をやろう、そう思い、乃亜と向き合っていく事に決めた。

正直、サンライズ体操教室と自宅学習だけでは試験内容を網羅しきれないと百瀬は言った。

夏休みにはどこかの塾で、学校別対策の講習を受けるべきだと強くアドバイスされた。


ここ数日間、夜な夜なネットで、まだ申し込みが間に合う塾をみちかはピックアップしていた。

早々に決めて申し込まなければ、定員いっぱいになってしまう、既にそんな時期だった。

洗濯物を干しながら、小さなあくびが一つ出る。

昨夜寝たのは2時を過ぎていた気がする。

みちかは掃除機をかけてからリビングでメールを作成した。

ひばりに送るメールだ。

夏期講習に通うならこの中で、1番のオススメはどこの塾なのか、彼女に聞けばきっと間違いないだろう。




午後になり、乃亜の降園時間はあっという間に来て、ひみつのこみちをみちかは1人で黙々と歩いた。


今年は猛暑のようで、ここのところ真夏のような日が続いていたけれど、今日は風があって気持ちの良い日だ。

ミモレ丈のプリーツスカートが風に揺れてふわっと持ち上がる。

その柔らかなパープルの色合いを見て、みちかは少し恥ずかしいような気持ちになった。


日頃から年齢以上に、落ち着いた服を着るよう心がけてきた。

だから、こんな可愛らしいスカートを選んで買った事も、乃亜のお迎えに着ていく事も初めてだった。


昨夜は、乃亜を寝かしつけてからシートマスクで肌のスペシャルケアをした。

一昨日は、爪をファイルして薄いピンクのネイルを塗った。

悟と結婚をして8年経つけれど、自分がこんな気持ちを抱く事になるだなんて思いもよらなかった。


眠っていた細胞が目を覚まして、胸をざわつかせている。

ずっと疑って取り合わないようにしてきたけれど、もうそうもいかないくらい、はっきりと見えてきた気持ち。


ひみつのこみちが終わり、急に視界が開け、目の前には雪村幼稚園が見えてきた。

園庭では、ネイビーブルーのクレマン帽を被った大勢の園児が、帰るコースごとに列を作り先生の指示を待っている。

降園する園児たちのために開かれた門の前に立つ警備員に挨拶をして、みちかはその楽しそうな可愛らしい声が響き渡る園庭へと入って行った。

乃亜はまだ教室に居るようで園庭には姿がない。


「あ、乃亜ちゃんママ!」


1人の女の子がみちかのもとに駆けてくる。


「ゆうかちゃん、こんにちは。」


乃亜と年中の時から同じクラスのその女の子は、みちかが挨拶すると満足そうに戻って行く。

彼女の走って行った先を目で追うとそこにはサッカーのブルーのユニフォームを着た百瀬の姿があった。


1人の園児が楽しそうに百瀬に話しかけている。

背中から抱きついたり、ハイタッチを求める園児もいる。

たくさんの園児の対応を次々とこなす百瀬の姿を、みちかは離れた場所から見つめた。

スッと伸びた背筋、艶やかな黒髪。

彼はなんて若いのだろう、切なくて複雑に色々な気持ちが混ざり合う。

誰にも話す事はないだろうこの気持ちは、言葉にするならどんな表現が適しているのか、みちかはぼんやりと考える。


自分はもう、どうしようもないほど、ただひたすらに百瀬のことが好きなのだ。


賑やかな園庭で、みちかはしばらく立ち尽くしていた。

無邪気に百瀬と向かい合う、子供たちを心底羨ましいと思った。




「ママ!」


その時背中にドン、と鈍く小さな振動を感じ振り向くと乃亜がニコニコして立っていた。


「ママ、お迎えに来てくれたの?」


嬉しそうに笑う乃亜を、みちかはしゃがみこみそっと抱きしめた。


「そうよ。今日はママと帰ろうね。」


「やった。」


みちかが身体を離すと乃亜はピョンと飛び跳ねた。


「乃亜ちゃん、ママ、先生にお渡ししたいものがあるの。ちょっと待っていられるかしら?」


「うん、待ってるね。」


乃亜が頷いたので、そのままみちかは職員室へプリントを提出に行った。


園庭へ戻ると、元の場所に乃亜は見当たらない。

キョロキョロと見回すと百瀬の元で笑う乃亜の姿があった。

ドキドキしながらみちかがそちらへ歩いて行くと百瀬が顔を上げ、目が合った。


「こんにちは。」


百瀬がニコニコと人なつこい笑みを浮かべる。

思わずみちかも笑顔になる。


「こんにちは。」


「乃亜ちゃん、今日はママがお迎えなんだね。」


百瀬が乃亜に声をかけると乃亜は「そうだよ。ママと一緒に帰るの。」と言って、みちかのところまで駆け寄ってきた。

乃亜が離れると、すぐに他の園児が百瀬に飛びつき、何か話しかける。

みちかは百瀬の姿を見つめたまま、乃亜の手を握りしめた。


「乃亜ちゃん、帰りましょうね。」


そっとみちかが言うと、乃亜は大きな声で百瀬に向かって言った。


「百瀬先生、さようなら!」


乃亜の声に、百瀬が顔を上げ「乃亜ちゃん、さようなら。」と言った。

そしてみちかの目を見て百瀬は言った。


「また土曜日に。」


みちかは笑って頷いて見せた。


すぐに百瀬は園児の対応に追われたので、みちかは乃亜と園庭をあとにした。


ほんの一瞬見つめあった、その余韻に浸りながらの帰り道。

家に着いてからもずっとそれは残ったままいつまでも消えなかった。


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