素敵な彼女

その巨大スクリーンのエンドロールを見ながら、みちかは放心状態に陥っていた。


両頬に流れる涙は、恥ずかしいから隠さなければと思っていた事ももはやどうでも良い程とめどない。


先日亡くなった大女優の遺作がどうしても観たくて本当に久しぶりに映画館で映画を観た。

乃亜が幼稚園で過ごしている間に、1人こっそりとやって来たこの映画館は自宅から数駅離れたショッピングモールの中にあった。


闘病をしながらの撮影、正に生きる意味を体を張って表現したその大女優の演技は本当に素晴らしく感動的で、余韻に浸り動けなくなっている観客は自分だけではないようだった。


10時スタートだったのでもう12時になる。

みちかはスマートフォンのマナーモードを解除しながら時間を確認すると、ハンカチでそっと涙を拭き立ち上がった。

久しぶりにランチを食べてから帰ろう、乃亜のお迎えにちょうど良い時間だ。

そう思いながらシアターを出て、化粧を直そうとトイレに向かった。

その時だった。


受付でチケットを買う列に百瀬の姿があった。

咄嗟にみちかは足を止める。

七分袖のジャケットに細身のパンツを合わせ、いつもより一層若く見える私服姿の百瀬と向き合うようにしてピタッと寄り添っていたのは、髪の長い女の子だった。


腰に届きそうなほど長い髪は、栗色に艶めき毛先の付近はフワッとゆるくウェーブがかっている。

丈の短いワンピースを長い足でサラッと着こなし、まるでモデルのようだ、とみちかは見惚れた。

小さな顔に、二重の大きな瞳とふっくらとしたベビーピンクの唇。

もうあと数ミリで、2人はキスしてしまうんじゃないかと見ている方がドキドキするくらい距離が近い。

百瀬の手に絡まる華奢なその手の先には綺麗に赤く塗られたネイルが見え隠れしている。


甘えるような表情で百瀬を見上げる彼女。

こんなに可愛い人を見たのは初めてかもしれないと、みちかは純粋に感動していた。


2人はとても絵になっている。

若くてお洒落で素敵だなぁ、とみちかは思った。

なんだか眩しくて、黙ってそっとその場を立ち去った。



ランチは何を食べようか、じっくりと考える時間もそうないのにレストランフロアを歩きながらみちかはなかなか決められなかった。

さっき見た百瀬と彼女のぴったりと向かい合う姿が頭から離れない。


彼女は何歳なのだろう、百瀬より年下だろうか、20代前半くらいに見えた。

あんな風にぴったりとくっついていつも過ごしているのか、思えば自分は悟と手を繋ぐ事すらもうない。


みちかは立ち止まり、小さく溜息をつく。


乃亜の先生として百瀬を信頼している分、いつのまにか勝手に彼の存在をとても近くに感じていたけれど、それはなにか間違っていたのかもしれない。

心が弾んで高揚するのも、1日に幾度も笑顔を思い出しフワッとした気持ちになるのも。

どれもすべておかしくて、正しいのは乃亜と自分は百瀬のお客さんだという事実だけなのかもしれない。

例え誰にも見えない心の中でも想ってはいけない事がある、そんな気がした。


みちかはくるりと向きを変え、もと来た道をまた戻る。

もう13時になる、とにかく家に帰ろう、乃亜を迎えに行こう、ただそれだけを思いながら駅へと歩いた。



真っ直ぐな太い眉に、パッチリとした二重の目元、思わず触りたくなるようなぽってりとした唇の可愛らしいモデルの写真が目につき、みちかは雑誌をめくる手を一度止めた。


数日前に見かけた、百瀬優弥の彼女のように可愛くてお洒落な顔だ。


『ジューシーな赤リップに女を上げるツヤめきパールのグロスをオンmellow luxeメランコリックルージュ03&パーリーグロスリュクスGD07』


使用アイテムの欄には悟の会社の化粧品ブランドのアイテムの名が連なり、ページの隅には『私がメイクしました。』と、mellow luxeのブランドディレクター池之内ゆりかの写真も載っている。


モデルのメイクも池之内自身の雰囲気も全てが旬だ、とみちかは感心した。

ページをめくると池之内の特集は数ページに渡って組まれていた。

同年代でこんなにも洗練されていて仕事もバリバリとこなしていて、なんて素敵な人なのだろう、とみちかは食い入るように雑誌を見つめる。


「友利さん、友利みちかさん、1番診察室へどうぞ。」


オルゴールのBGMが流れるだけの静かな待合室に、小さく放送が入った。

自分の名前を呼ばれたみちかは雑誌を閉じて立ち上がる。

元の場所へと雑誌を戻し、1番診察室のドアをノックした。


「どうぞ。」と、いつもの聞き慣れた医師の声が聞こえ、「失礼します。」と、診察室のドアを開ける。


「友利みちかさん、どうぞ、おかけください。」


シャープな顔立ちの女医の涼しい笑顔にほんの少し緊張しながら、みちかは「よろしくお願いします。」と、会釈した。

2つある椅子の片方へバッグを置きもう片方の椅子にそっと腰をかける。


「午前中にした血液検査の結果をお知らせしますね。」


女医はそう言って、デスクのPC画面に目線を向けた。


『更年期を甘く見ると怖いから40歳を過ぎたら定期的にホルモン値を測定した方がいい。』と言ったのは、母親だった。

みちかの母は更年期の症状がとても重くて期間もかなり長かった。

30代半ばにそんな事を言われてもピンと来なかったし、40歳で更年期の事だなんてまだ考えられないと、当時のみちかは思っていたけれど、ここ1、2年で頭痛や動悸を度々患うようになり本当に40歳を過ぎたら自然と婦人科へ通う気になった。


3ヶ月前、初めてホルモン値を測定したら少しだけ問題があって、漢方薬を飲む事になった。

その時はなんだか急に病気になったようでショックだったみちかは「いつまでこれを飲めばいいのですか?」と医師に聞いた。

すると医師は「これから始めるのに、そんな事は分かりませんよ。」と、涼しく笑った。

それから3ヶ月おきにクリニックに通う事になった事は悟には話していない。

なんだか恥ずかしい、という気持ちが大きくてどうしても話せずにいた。


同い年なのに悟はとても若く感じる。

まるで自分だけがどんどん歳を取っているような気がした。

肌や髪や体のハリ、艶、潤い。

悟に出会った頃の自分と、今の自分はきっと全然違う。

色々な事を食い止めるよう、努力をしているつもりだけれど、それが功を成している実感はない。

それは誰かに評価される事が一度もないからかもしれない。


「前回とほぼ変わりませんね。引き続き、漢方を出します。根気よく飲んでください。」


医師はまた、涼しく笑っている。

みちかは素直に頷きながら思った。

今夜は漢方ではなくお酒を飲もう、と。



診察を終えて、薬局で薬を受け取る頃にはすでに16時を回っていた。

午前中に採血をして午後に結果が出る、混んで待ち時間の長いクリニックなので通院の日は1日がかりになってしまう。

今日は、通常保育のお迎え時間には間に合わないので、乃亜は延長保育をお願いしている。

いつもは集合場所まで迎えに行けば良い所を、今日は園までお迎えに行くのだ。

みちかは幼稚園までの道のりを急いだ。

延長保育をお願いしたのは前回の通院以来、まだ2度目だ。

慣れない環境に居る乃亜がやや心配だった。


園に着いたのは17時近くだった。

延長保育のお部屋に行くと、ほんの少し疲れたような顔をした乃亜が先生に連れられてみちかの前に現れた。


「ママ、遅い…。」


乃亜がふてくされたような顔で目をこすりながら言った。


「ごめんね…。」


小さく謝り、親子で先生にご挨拶をして、教室を出た。


無言で、重い足取りの乃亜の手を引いてみちかは幼稚園の門を出る。

なんだか乃亜の手が熱い、眠いのかな?と、みちかは思った。

今日は確か昼間の保育時間に体操があったはずだ、疲れているのも無理はないな、と思いながら自宅への道を歩いた。


幼稚園から自宅までは、約1キロほどある。

子供にとってはやや長い道のりだけれど、日々の徒歩通園で乃亜も慣れているはずだ。

乃亜の歩くペースに合わせながらも頭では早く帰ることを考えてしまう。

いつもより帰りが遅くても、今日だってしっかり乃亜の勉強時間を確保したい。

乃亜の自宅学習の時間は朝と夜で毎日2時間だ。

ルツ女の合格を勝ち取るためには、ペーパー対策は重要だし、とにかく今は自宅での反復学習で確実に力をつける努力をする、とみちかは固く心に決めたのだった。


幼稚園から半分ほどの距離を歩いた時に、ふと乃亜が足を止めた。


じっと足元を見つめ、唇を噛み締めている。


「乃亜ちゃん、どうしたの?」


乃亜はみちかの手を握りしめ、硬い表情で黙ったまま立ち尽くしている。


「疲れちゃったの?」


みちかは、しゃがみこみ乃亜の顔を覗き込んだ。

泣き出しそうな表情で乃亜がみちかの目をじっと見つめている。


「あと半分だから、頑張って歩こう。」


できる限り優しい声をかけながら、みちかは内心、不安に思う。


乃亜がこんな表情をしたり、歩きたがらないなんて、最近では珍しい事だった。

自宅学習の時間に、自分が厳しく接してしまっているせいだったらどうしよう。

いや、そんな事はない、体操と延長保育で疲れているからだ、きっとそうだ。


みちかは気持ちを落ち着かせながら、乃亜に両手を広げてみせた。


「乃亜ちゃん…、抱っこする?」


乃亜は反応しない。

年長になってから急に重くなったし、なるべく抱っこをする事を避けてきた。

だからたまにしてあげる抱っこはとても喜ぶはずなのに…。

みちかは不安な表情で乃亜を見つめる。


乃亜は怒ったような赤い顔をして、ただみちかを見つめている。


「乃亜ちゃん…。」


みちかは乃亜の両手を取り、顔を覗き込んだ。

乃亜は嫌がるように、首を横に振る。

抱っこをしようとしても体を揺らして拒絶する。


困ったわ…。

みちかは徐々に動悸を覚えていた。


幼稚園から続くこの歩道は、雪村幼稚園の園児たちのためだけに存在するような小さな小さな細道だ。

少し離れた所に車道もある事はあるが、タクシーは滅多に通らない。

みちかは途方に暮れ小さくため息を漏らした。



百瀬優弥は、幼稚園の門を出ると車道ではなく、園児たちの通園コースになっている細道へと入った。

子供達に『ひみつのこみち』と呼ばれているこの道は、住宅街の中にあり園児が通る時以外はひっそりと静かだ。

この細道を抜けると、狭い車道に出て、やがて駅に繋がる大通りへと続いていく。

園から体操教室の本部のある駅前までは徒歩で20分はかかる距離だった。


くねくねとした細道を軽い足取りで進んで行くと、園児としゃがみこむ母親が目に飛び込んできた。


深い緑色のロングスカートに上品な白のレースブラウス、その裾から色白の細い腕がすっと伸び、向かい合う女の子の手を握りしめている。

ゆるく清楚にまとめられたハーフアップの髪がふわりと風に揺れ、俯いたその横顔が見えた瞬間、百瀬は自分の心臓が高鳴るのを感じた。

それは、ここ数日間ずっと待ち焦がれていた景色だった。


「友利さん。」


立ち止まり声をかけると、友利みちかは百瀬を見上げ、ほんの少しだけ驚いた顔をした。


「百瀬先生…。」


色白の頬が、ほんの少しだけ上気しているのかうっすらとピンク色に見える。

友利みちかはそっと立ち上がり、「今日は、幼稚園にいらっしゃったんですね。」と、優しく微笑んだ。


「はい。あれ!乃亜ちゃん、どうしたんですか?疲れちゃったのかな?」


友利みちかの足元では乃亜が目を潤ませながら百瀬を見上げている。


「あの…、なんだか延長保育で疲れてしまったようで。珍しく抱っこも拒絶するので困ってしまって…。」


友利みちかが乃亜に視線を落とし、それから百瀬の顔を見た。

なんとも言えない、心細そうな表情だった。

そうか、彼女はここで動かなくなった乃亜を相手に途方にくれていたのか、と百瀬は理解すると乃亜の前にしゃがみ込んだ。


「乃亜ちゃん、頑張って歩いてみようか?先生も一緒に歩くよ。頑張ろう?」


乃亜の目線より、やや低い位置から乃亜を見上げ友利みちかがやっていたように乃亜の両手をそっと握る。


「乃亜ちゃん、歩けないかな?」


優しい声で話しかける百瀬を見つめながら、乃亜の潤んだ瞳から涙がポロポロと溢れる。


「乃亜ちゃん…、先生が、抱っこしようか?」


母親の抱っこを拒むほどなのだから無理かもしれない、そう思いながらも百瀬は落ち着いて乃亜の瞳を覗き込んだ。


しばらくすると乃亜が泣きながら小さく頷いて一歩二歩と、百瀬の方へと近寄ってきた。

百瀬はそっと、乃亜を抱き上げ立ち上がった。

乃亜は完全に百瀬に身体を預けている。


友利みちかが驚いたように目を大きく見開き百瀬を見た。


「友利さん、僕、おうちまでお送りしますよ。」


「そんな…。いいんですか?お時間…、あの、教室へ戻られたり、お忙しいんじゃないですか?」


百瀬は首を振る。


「大丈夫ですよ。今日はサッカー教室がお休みだったのでいつもより早くて。時間に余裕があるんです。」


「そうですか…。すみません、先生…。本当に助かります。」


友利みちかが頭を下げる。

2人は並んでゆっくりと細道を歩き出した。




「珍しいですね。乃亜ちゃんがこんな風にぐずるなんて。」


百瀬の言葉に友利みちかが頷いた。


「そうなんです。ただ疲れているだけならいいのですが…。」


そう言って、友利みちかは力なく笑った。


「近頃、自宅学習で厳しくし過ぎてしまっていたので…。その反動だったらどうしようと、不安になってしまいました。」


「友利さんが厳しいなんて…。僕、想像つかないです。」


百瀬の口からスッと出てきた言葉に、友利みちかが首を振る。


「出来ないと妙に焦ってしまって…。ダメですよね、焦ってはいけない事は分かっているつもりなのですが…。」


「皆さん、そうだと思いますよ。でも乃亜ちゃんなら大丈夫です。まだ時間はありますからね。」


百瀬がそう言うと、友利みちかは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。百瀬先生とお話ししていると元気になれます、私。」


そう言って、百瀬に抱っこされる乃亜を見て「あら…。」と、びっくりしてみせた。


「乃亜ちゃん、眠っちゃいましたね。」


抱っこするとすぐに乃亜が寝息を立て始めたのを百瀬は感じていた。


「先生が抱っこしてくれて心地よかったんですね、きっと…。」


ニコニコと微笑む友利みちかは本当に穏やかに見えて百瀬は彼女に甘えたいような衝動に駆られていた。


静かな住宅街に2人の足音だけが聞こえる。


「あの、友利さん、今度良かったらお見せしたいものがあるんですよ。」


「え…、何かしら?」


百瀬の言葉に友利みちかが嬉しそうな表情をした。


「ルツ女の文集です。僕の姉の代のものなんで結構古いんですけど…。」


「あら、先生のお姉さま、ルツ女ご出身なんですか?」


友利みちかが立ち止まって驚いている。

百瀬はなんだか恥ずかしいような気持ちになった。


「はい。そうなんです。実は、母もルツ女出身で…。だから僕も女の子に生まれてたら、きっといっぱい勉強してルツ女を受けていたと思います。」


百瀬の言葉に友利みちかが、ふふふと笑った。


「もしかして先生は敬栄ご出身ですか?」


友利みちかの質問に、「あ、いえ。」と言って百瀬が一度黙り、乃亜を大事そうに抱き直した。


「僕は、自分で言うのは変ですが、小さい頃から運動神経が良かったみたいなんです。妙に足が早かったりしたらしくて。それで親は国際体育大の付属幼稚園に僕を入れてくれて。そのおかげでずっとスポーツ漬けの人生です。」


「そうなんですね。そんな小さな頃から先生はスポーツの才能があったんですね。」


「いえいえ、ただのスポーツバカです!」


百瀬は首を勢いよく振りながら「あ、でも。」と続けた。


「そうやって小さい頃に僕の得意な事を見極めてくれた両親には感謝しています。だから僕は、幼児教育って大事だって思うんです!」


百瀬の言葉に友利みちかが優しく笑う。


「素敵なご両親ですね。それに、先生は身をもって経験なさっているから、子どもたちの気持ちが良くお分かりになるんですね…。」


「いえいえ、そんな…僕はまだまだ未熟なんで。」



話しながら、『ひみつのこみち』の終わりに車道が拓けてくるのが見えた。


「友利さんのご自宅は、どちらなんですか?」


聞きながらいつまでもこうして話していたいと、百瀬は思った。

すっかり百瀬に身を預けて眠りこけている乃亜の重さも全く気にならないくらいだった。


「うちは、パン屋さんの路地を曲がって少し登った所なんです。先生、重くないですか?私、代わります。」


友利みちかが心配そうに百瀬を見上げる。

パン屋まではあと、300メートルほどの距離だった。


「いえ、全然!お家の前まで抱っこさせてください。」


百瀬が言うと、「すみません、ありがとうございます。」と、友利みちかが申し訳なさそうに笑った。


「気にしないでください。あ、それで、さっきお話しした文集なんですけど。」


道の向かい側にあるパン屋に向かうため、百瀬は友利みちかと並んで立ち止まり、信号を待つ。


昨夜、探し出した文集は、姉の部屋の本棚の中に時が止まっていたかのようにひっそりと保管されていた。


先週の体操教室の面談で、友利みちかからルツ女を第一希望として頑張って行く、と聞いてから何か役に立つものがないか自宅に残る姉と母の学校関連のものを夜な夜な漁り、探し出したのがその文集だった。


現在、百瀬が住むマンションは、元々は家族で住んでいた家だ。

姉は既に嫁ぎ、両親は5年ほど前から海外に住んでおり、百瀬は広いマンションに今は一人で住んでいる。


「読んで頂くと、結構ルツ女の学校生活が分かるんですよ。あの学校、週に一度、作文朝会っていうのがあって一斉に作文を書かせるんですよね。それの傑作集みたいなものです。今も続いているみたいなんですが。」


「あぁ、作文朝会。学校説明会で伺った事があります。凄いですね、お姉さまの代からずっと続いていたんですね。」


友利みちかが感心したような顔をする。

信号が青になり、二人は横断歩道を渡った。


「はい。姉は僕の2歳上なんですが、作文朝会の日はめちゃくちゃ早いんですよ、朝出て行く時間が。子どもながらに内心、女に生まれなくて良かったーって思ってました。あんな早起き、できないぞって。」


「あぁ…、朝早いみたいですね。そうですか、お姉さま2歳年上…。先生は、今おいくつなんですか?」


「僕ですか?29歳です。」


百瀬が応えると、友利みちかが「わぁ…。」と高く可愛らしい声をあげた。


「お若いんですね。いいなぁ、これから30代か…。楽しい事たくさんですね。」


友利みちかの反応を、百瀬はなんだか不思議に感じた。

彼女は自分が思っているよりも、実は年上なのだろうか…。

色白の肌も艶やかな髪も、まだまだ30代にしか思えない。




「そういえば、先日…。映画館で、先生をお見かけしたんです、私。」


照れたように笑う、友利みちかの顔を百瀬は見つめる。


「え…?」


映画館と聞いて百瀬は一瞬で、自分の体中の血の気が引いて行くのを感じた。


「先生は、とても素敵な彼女さんがいらっしゃるんですね。あまりにも可愛くて、私、見惚れちゃいました。」


無邪気に笑みを浮かべながら、嬉しそうに友利みちかが言った。

百瀬は背筋が凍りつくような思いでなんとか笑ってみせた。


最悪だ…、と思った。

梨沙と一緒に居るところを、まさか友利みちかに見られていたなんて…。


2人でパン屋の角を曲がり緩やかな坂を登る。

百瀬は押し黙ったまま、静かに記憶を辿った。

あの日も梨沙は、映画館でしつこく身体を寄せてきた。

何度もキスをせがまれたし、いつものように人目もお構い無しに、きわどいところを触ってきたりもした。

それをまさか友利みちかに見られてしまうなんて…。


気がつくと、百瀬は口を開いていた。


「あの…。彼女とは、別れたんです。」


「え…?」


友利みちかが立ち止まり、口に手を当て驚いている。


「その、映画を観た日が最後でした。」


「やだ…。ごめんなさい、私、余計な事を言ってしまって…。」


うろたえている友利みちかに、百瀬はなるべく明るく言った。


「いえ。いいんです。僕の仕事が忙しくてなかなか時間も合わなくなっちゃったんで。思い切って別れてスッキリしてます。だから気にしないでください。」


「そうなんですね…。」


友利みちかが申し訳なさそうに佇んでいる。


その友利みちかの後ろには、大きな邸宅がある。

百瀬は、もしかして、と思い表札に目線を流すと「友利」という文字が見えた。


「いえ。本当に、お気になさらないでください。それより、友利さんのお家って、こちらですか?」


「あ、はい。ここなんです。長い距離を、本当にありがとうございました。」


そう言って、友利みちかは一歩二歩と百瀬に近づく。

百瀬は、乃亜を友利みちかの腕の中へとそっと手渡した。


こんなに近づくのは初めて、という程近い距離感で、百瀬は友利みちかを見つめた。


伏目の表情、ほんの少しだけ触れ合った手の感触、近づいてはじめて気づいた甘くて柔らかい香り、まとめた髪の1本1本の艶感。


こんなに素敵な人はほかに居ない、完璧だ、と確信する。


「先生とお話できて楽しかったです。文集、楽しみにしていますね。」


そう言って、百瀬がはじめて見るような人懐こい表情で、友利みちかは笑った。



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