第一志望校

友利みちかは、乃亜を寝かしつけた後も1人キッチンに立っていた。


冷蔵庫から取り出したコロンと丸い琺瑯鍋には、夕方作った冷やしおでんが入っている。彩り良く野菜が浮かぶ中へ、そっと菜箸を入れた。

小さなお皿で味見し1人頷く。

大丈夫、味も良いしきっと悟が喜ぶだろう。


去年の夏、たまたま作った冷やしおでんを悟はとても気に入って食べた。

冷やしたおでんがあるなんて、その存在自体を知らなかったらしい。

悟はとても裕福な家庭で育ったせいか、時々びっくりする程、世間知らずなところがある。


みちかは冷蔵庫の中をもう一度確認する。

悟がお腹を空かせていたら、しらす丼も出そう。

消化の良いしらすは、夜食に丁度良い。

島のりと新鮮なしらすたっぷりのしらす丼を悟は気に入っていた。


それからいつものように乃亜の問題集を印刷したり、悟のワイシャツにアイロンをかけたりしながらみちかはずっとそわそわしていた。

時計を見上げ、小さなため息をつく。

早く、乃亜の志望校の話を悟としたいのに、悟はなかなか帰ってこない。


『ご主人さまにもぜひ聖セラフの良さを知っていただきたいですね。』

昼間、体操教室でそう言った百瀬の笑顔をみちかはもう何度も何度も思い出していた。

二重の大きな垂れ目がちの瞳、大きな口元の口角が上がり優しく笑ったあの百瀬の表情がずっと忘れられない。

聖セラフを気に入ったのは乃亜自身だ。

だけど、百瀬があの時勧めてくれなければきっとノーマークだったに違いない。

百瀬が教えてくれた聖セラフの魅力を、今日の乃亜の生き生きとした様子を、悟に上手に話す事が出来るだろうか。


その時、カチャリとリビングの扉が開き悟が顔を出した。


「お帰りなさい。」


物音一つ感じなかったみちかは、ドキドキしながら声をかけた。


「お夕飯は、食べる?」


「あ、うん、お願い。先にシャワー浴びてくる。」


そう言って悟はリビングのドアを閉めた。

みちかは立ち上がり、キッチンへ向かう。


悟は食事を取るといつもすぐ自室へ行ってしまう。

話をするタイミングを見計らなければ…とみちかは緊張しながら夕食の支度をした。



「君がこんなに遅くまで起きてるなんて珍しいね。」


テーブルに食事を並べていると、部屋着に着替えリビングに入ってきた悟がポツリと言った。


「そうかしら…。」


あのね、大事な話があるの、と言おうとしてみちかは口をつぐむ。

悟は仕事をしてきたのだ、食事はゆっくり摂って欲しい。


「いただきます。」


ブローしていない悟の髪は、目にかかってしまうほど前髪が長い。

それでも特に邪魔そうにもせず、淡々と食事をする悟をみちかは見つめた。


みちかがいつもデパートで購入してくる老舗ルームウェアブランドのスウェットセットをさらっと着ただけの悟はなんだかとても幼く見えて、まるで高校生くらいの息子の様にも感じる。


こんなに近い存在なのに、どうして私はこの人と全く触れ合う事が無いのだろう。


ふと生まれた思いを振り払う様にみちかはキッチンに戻り、お茶を入れるためお湯を沸かした。



「悟さん、あのね。少し話してもいいかしら。」


食後のお茶を出しながらみちかが聞くと「うん。」と言って、悟はお茶を一口飲んだ。


みちかはダイニングテーブルに悟と向かい合うように座る。

そして自分の湯呑み茶碗を両手で包み込む様にしながら、口を開いた。


「今日ね、聖セラフ学院小学校の説明会に行ってきたの。」


「あ、うん。そうだったね。どうだった?」


「すごくいい環境だったの。自然が豊かで馬を飼育していたり。乃亜はとても楽しそうにしていた。先生方も穏やかで、とても丁寧に学校の案内をしてくれたの。」


悟は黙って頷いている。

みちかはうまく話せない自分をもどかしく感じながら話を続けた。


「乃亜もとても気に入っていたわ。ルツ女とは雰囲気が違うけど乃亜には聖セラフの方が合っているんじゃないかなぁって感じたの。」


「志望校を変えたいって事?」


「うん、あの…。悟さんにも今度、一緒に聖セラフの見学に行って欲しいなぁと思ったの。9月にも説明会があるから。」


「うーん…。」


悟が無表情で黙り込む。

みちかは悟の反応を静かに待った。


「そこ、ルツ女と併願は出来ないの?」


悟の反応に、みちかは小さく息を吸った。

自分がとても緊張しているのがよく分かった。


「出来ないことはないわ。聖セラフは試験が2日間あるから…。だけど、ルツ女と被らない方のB日程の試験は、10人しか取らないの。その日はかなりの高倍率になってしまう可能性が高いと、今日の説明会でも先生が仰っていたわ。」


みちかはなるべく穏やかに言ったつもりではあったけれど、自分の声が震えている様な気がした。

こんなちょっとした事で緊張してしまう、そんな事が最近妙に増えたと思う。



「偏差値は?」


みちかの様子に気づいたのか、悟が少し優しい声で言った。


「え…?」


小学校には偏差値はない。

悟もそれは知っているはずだ。

みちかが戸惑っているともう一度悟が言った。


「付属中学校の偏差値。ルツ女に比べてそこはどうなのかなって。」


前髪の隙間から、悟の丸い目がみちかをじっと見つめている。


「あ、えっと…。」


みちかは咄嗟にテーブルの上のスマートフォンで大手塾のサイトを開いた。

あまり詳しくはないが、中学受験に強いという塾の名前をいくつか耳にした事がある。

県内の私立中学校の偏差値一覧を探し、ルツ女と聖セラフの名前を見つけた。


「ルツ女が61で、聖セラフは…、54。」


「54か…。僕はそこを第一希望には、ちょっとできないかな。」


そう言って、悟が立ち上がる。


「どこを併願校にしても構わないよ。そこは君に任せるから。」


ご馳走さま、と小さく言い、悟はリビングを出て行ってしまった。

声にならない沢山の言葉が、喉元につかえて行き場を無くす。

間もなく悟の部屋の扉が閉まる音が聞こえ、みちかは動悸を落ち着かせるようそっと自分の胸に手を当てた。


いつもこうだった。

悟はみちかが心の声を話す前に目の前から去ってしまう。

新聞やテレビに気をそらしてしまうのだ。


いや、日頃から忙しく悟には自分の時間が無いのもよく分かる。

自宅ではリラックスして欲しい、そう思っている。


みちかはそっと立ち上がり、キッチンへ行き食器を全て洗うと冷蔵庫を開け中へ手を伸ばした。

冷たく固い缶を握りしめ、冷気で冷えた腕でそれを手繰り寄せる。

ダイニングテーブルに座り、音を立てゴールドの缶を開けると、グラスに注いで一気に飲み干した。


第一志望校は変わらずルツ女だ、そう心の中で呟き唇を噛み締める。


きっと自分は楽をしようとしていたのだ。

難関と呼ばれるルツ女の試験から逃げたかったのだ、きっと。


酔いがまわるほどに、頭の中が、ルツ女を目指す事を決めたあの日に時を巻き戻すような

感覚に陥っていく。


5歳の娘に、学校の良し悪しなどまだ分かるまい。


みちかはあの、脳裏に焼きつく百瀬優弥の甘い笑顔をかき消すように、何度となくグラスを飲み干した。



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