友利部長

「はぁ、疲れた…。お腹すいたなぁ。」


南 可那はヘナヘナと椅子に座ると、細く長い両腕を目の前の長テーブルの上へと投げ出した。

顔をテーブルにうつ伏せにしたまま、グッと猫のように背中を伸ばす。

近頃は忙しくてジムにも行けていないし、身体はなまりきっている。

セミナーが終わったら有休を取ってエステとジムに絶対行ってやる、と心の中で誓った。


体を起こし、テーブルの上に小綺麗にディスプレイされた色とりどりの商品を見つめる。


夏に発売されるmellow luxeの限定アイテムは、5本のリキッドアイシャドーと、2本のマスカラと3本のグロスルージュだ。

汗や皮脂にも崩れずに、つけたての仕上がり感を長時間保つ。

上品な7色のパールを高配合し、夏の暑さも忘れさせる涼しげな目元と口元を演出する。


若い女の子向けのメーキャップ&スキンケアブランドmellow luxeは人気モデルの藤森エマちゃんがブランドモデルを務める。

もはやブランドの顔とも言える彼女は、色白で、切れ長の目元とふっくらとした唇が魅力的な日本人とフランス人のハーフだ。

今回の浴衣の衣装をまとったヴィジュアルも透明感がありながらもセクシーでとてもお洒落に仕上がっている。


TVCMでは、エマちゃんと彼氏が花火を観るため夜のデートに出かける、という設定で、花火に見とれるエマちゃんの横で、エマちゃんの煌めく目元に彼氏が見とれる様子がリアルに演じられている。


CMの放送は来月からだが、社内でその映像を何度も見せられその度に可那はうんざりしていた。

CMの終わりは、エマちゃんの甘ったるい声の「メロメロメロウな夏が始まる」というナレーションで締めくくられる。


mellow luxeのプロモーションにはケチはつけたくないけれど、この浮き足立ったキャッチコピーだけは可那はどうしても受け入れられない。


彼氏だった営業部の山下くんが九州に異動になってからもう丸1年が過ぎた。

頼り甲斐のない山下君とはなんとなく1年半付き合ったが、異動が決まると遠距離恋愛するほどの気になれずに、あっさりと別れてしまった。

それからあっという間に1年が過ぎる。

そんなわけで可那には彼氏がもう1年も居ないという事になる。


今年の夏も一人なのかと思うとゾッとした。

今日だって土曜日なのに、こうして休日出勤をして一人でセミナーの準備をしていたのだ。

後輩の吉川ちゃんはここのところずっと、体調不良でお休みしている。

新婚の彼女は噂によればご懐妊かと囁かれているがデリケートな問題なので皆、彼女が休んでも見て見ぬふりをしているような雰囲気になっていた。

吉川ちゃんの肩書きははサブトレーナーというもので、トレーナーをやっている可那の補佐が主な仕事だ。

日頃から、2人で組んでも手が足りないほどの仕事量なので、吉川ちゃんが不在だと可那の毎日は本当にてんてこ舞いだった。

こんな時に限って、1番大掛かりな仕事でもある新製品セミナーが2日間も入っているのだ。

社内向けセミナーは昨日なんとか無事終わり、週明けの取引先向けのセミナーを控え、こうして休日出勤をして1人準備をしているところだった。


参加者30名ほどの短時間の小規模セミナーではあるが、1人だと準備は大変だった。

なんとか全てが仕上がる頃には17時を少し過ぎていた。


「あ、いたいた。南、終わった?」


ふいに声がして、可那が振り向くと同期の木下 涼がセミナールームの入り口にアデールの制服姿で立っていた。


「あら涼ちゃん。今日は店頭?」


「うん、リンカ堂のフェア初日でヘルプ入店してきた帰りなの。南のデスクにバッグがあったから、出社してるんだ、と思って。」


涼が、5つの島型に組まれたテーブルの隙間を縫うように可那の方へと歩いてくる。

背が低くて可愛らしい雰囲気を持っているけれど中身はサバサバしている、そんな彼女は可那の仲の良い同期の1人だ。


「よく分かったね、ここに居るって。」


「うん。友利部長に聞いたら、ここだって教えてくれた。」


涼は可那の座っていた島までたどり着くと、新商品のディスプレイのとなりに小さく籠盛りになっているキャンディーを1つ、つまみ上げた。


「食べていい?」


可那は頷く。


「まだ、友利さん居るんだ。」


「うん、何か熱心に資料作ってたよ。南、大変だねぇ、1人で準備したんでしょ?」


カサカサとキャンディーの包みを開きながら可那を労うように眉間に皺を寄せ涼が言った。

吉川ちゃんが休んでいる事は、アデールの内勤のメンバーにも知れ渡っているのだろう。


「そうだよ。まぁ、なんとか終わったけど。けっこうハードだったよー。」


「ねぇー。困っちゃうね。わ、この色可愛い。」


涼がいつのまにか手の甲に、リキッドアイシャドーを試している。


「EX05番?それ1番いい色だよね。モデルカラーのネイビーブルー。」


「モデル色なんだ。なんとも涼しげな青だね。」


涼の手の甲でキラキラと濃紺が輝いている。


「ねぇ、これから夏子さんと飲みに行くんだけど南も行ける?」


涼の突然の誘いに可那の顔がパッと輝いた。


「マジで?行く行く。私、もうさっきからお腹空いちゃってさ。」


「やった。じゃ、すぐ着替えてくるね。南も帰る支度してて。」


そう言って涼はアイシャドーを元の場所に戻すと、さっさとセミナールームから出て行った。


可那は、急いで教室の中央に置かれたプロジェクターと、教室の片隅の教卓に載ったPCの電源を落とした。

シン、と静まり返った教室を見回す。

お客様用のテーブルは整然と並んでいるし、テキストも人数分しっかりテーブルに載っている。

電気を消してセミナールームの扉を閉め、エレベーターで1つ下の階へと降りた。




営業部のデスクが並ぶフロアには、ほんの数名の社員が残っていた。

mellow luxeの島では、ブランド部長の友利悟が1人でPCへと向かっていた。


「お疲れ様です。」


可那が声をかけると、友利はPCから顔を上げじっと可那の顔を見つめた。

そしてボソッと言った。


「準備、終わったの?」


「はい、終わりました。」


自分のデスクのPCでタイムカードを操作しながら可那は答えた。


「大変だったね。お疲れ様。」


友利の言葉に可那はPCから顔を上げる。

そしてできる限りの笑顔を作って見せた。


「いえ。やれば1人でもできるもんですね。」


「悪いな。ありがとうな。」


笑うでもなく、友利悟は可那の目を見つめながらそう言った。

可那も友利の顔をじっと見つめる。

今日の彼は、細身の身体によく似合う控えめに光沢感のある、紺色のスーツを羽織っている。

自分よりも10歳も年上なのに、童顔のせいで彼はいつもとても若く感じた。

目の上ギリギリでラウンドバングにカットされた厚めの前髪のマッシュヘア。

その無造作にセットされた髪にも、キメの整っている肌にも、いつでもツヤがある。

年下のように若く見えるのは、童顔のせいだけじゃなくて、ほかにちゃんと理由があるのだと可那は内心思っている。


友利を見つめながら、身体のどこかがジワリと反応するような感覚に、可那は陥った。

友利を見ていると、時々そんな気持ちになってしまうのだ。

そんないけない浮遊感を追い払うように可那は勢いよくノートPCを閉じた。


「そういえば、木下がお前のこと探してたよ。」


「あ、涼ちゃんならさっきセミナールームで会いました。」


可那はそそくさとジャケットを羽織り、バッグを手に持った。


「飲みに行くの?」


「はい。夏子さんと3人で。お疲れ様でした。」


「お疲れ様。」


友利の声を背に感じながら、可那は足早にエレベーターホールへ向かった。


「お疲れ様でーす。」


勢いよく3つのビールジョッキがぶつかり合う。

可那はジョッキの3分の1程のビールを喉に流し込むと大きく息を吐いた。


「ふぅ、美味しい!生き返るー!」


可那の向かいの席に座る夏子が既に空っぽのジョッキを片手にガハハと笑う。


「だろうね。セミナー準備1人でやらされるなんて、私も経験した事ないわ。当日も1人で進行?」


「はい。部長挨拶以外は全部1人です。」


可那が大袈裟に顔をしかめて見せると夏子は「わお、マジで?」と驚いた。

そしてすぐに「すみませーん。」と高くよく通る声で店員を呼びビールをオーダーした。


「夏子さん、早ーい。」


涼がメニュー表をみんなに見えるようにテーブルに広げたので、ついでに料理もどんどん選びオーダーした。


夏子が指定した、オフィスからほど近い雑居ビルの中にあるこの居酒屋は、創作料理が美味しくて社内でも評判の店で、探し当てたのも流行らせたのも夏子本人だった。

この店の他にも数多くの美味しい居酒屋が夏子の頭の中にはストックされているので夏子を交えて飲む時は必ず夏子に店を決めてもらう、というのがお決まりだった。


「南ちゃんて、メロウに出向してもう何年経つんだっけ?」


夏子がお通しのカルパッチョをフォークで器用にすくい上げながら言った。

メロウとは、mellow luxeの愛称で社内では皆そう呼んでいる。


「もう丸5年経ちました。」


「え、もう、そんなに経つんだっけ!?」


可那の隣で涼が大げさに反応する。


「もう丸5年か。ついに南ちゃんにも試練の時が訪れたわけね。」


夏子が半分ふざけたような遠い目をして言った。


「夏子さん、メロウに行ってからというもの、私ずっと試練ですよ。」


そう言って可那はビールジョッキの持ち手を勢いよく掴んだ。


可那と涼がこの大手化粧品メーカーアデールに入社してもう丸10年が経つ。

その10年前に新入社員の教育を担当していたのが当時トレーナー職だった夏子だった。

2人よりもひとまわり年が上でベテランの夏子は、キリッとした顔立ちも手伝ってか厳しくひたすら怖いイメージで、可那も涼も当時は当たり障りのない会話しか交わすことができなかった。

それが入社4年目のある日、たまたま3人で飲む機会があり、可那と涼が酔った勢いで仕事の不満を夏子にぶちまけてしまってから、急速に距離が縮まった。

酒に強くて、盛り上げ上手なのにいつもどこか冷静で、情もありながら的確なアドバイスをしてくれる、そんな夏子に可那も涼も今では絶大な信頼を寄せている。


現在夏子は社内でのお客様相談窓口業務の傍ら、自らの希望で週の半分はチーフマネージャーとして店頭での販売職に就いている。

社内でのいくつかの派閥はあるものの、経験豊富な夏子には可那や涼だけでなく社内の誰もが一目置いている、そんな存在だった。



「まあ南ちゃんが自分で選んだ道とは言え…。もう少し人員は欲しいよね。」


夏子の言葉に可那は頷く。


mellow luxeは、アデールが100%出資する子会社だ。

8年前の立ち上げ当時、全国のアデール社員から50名を選抜し、そのプロジェクトをスタートさせた。

高機能高級化粧品が売りのアデールとは違い、お洒落に敏感な若者をターゲットにしたmellow luxe。

『メイクには旬がある、スキンケアにも旬がある』をコンセプトに誰もが旬を気軽に楽しめるメーキャップ&スキンケアブランドとして市場に出ると瞬く間に話題となった。

そんなメロウが5年前、美容職増員の為、社内公募施策を行い、当時入社6年目になる可那は自らの意志でメロウに出向したのだった。


「ほんとに深刻な人不足ですよ。来週なんて関西までヘルプに行ってくれって言われちゃったんですよ、関西の担任が辞めてメイクアドバイスサロンやれる子が誰一人居ないとか。」


「え、チャンスじゃない?それって池之内ユリカのポジションに近づいてるんじゃない?」


可那が言い終わるか言い終わらないかの所で興奮気味に涼が口を挟んだ。

大きな目をさらに大きく見開き、可那に熱い視線を送る。


「えっと…、うーん…、そうなのかなぁ。今後は他のエリアのサロン会にも積極的に私を行かせたいって友利さんには言われたんだよね。」


「ほら。」


涼の目がキラキラと輝いた。


池之内ユリカとは、メロウのディレクションを務める人物だ。

もとは可那達のように、アデールの美容部員だったらしいが、そのメーキャップのスキルの高さを買われ、本社へ引き抜かれた。

アデールの社内メーキャップアーティストとして数年間活躍したのち、メロウ立ち上げの際にブランドディレクターに就任した。

43歳とは思えない美肌とクールビューティーな顔立ちの彼女。

そのメイクセンスは『時代を先取りして池之内流の旬を生み出す』と美容ライターからも絶賛されている。

偶然にも同じヘアメイクの専門学校を卒業してアデールへ入社したその大先輩に、可那は長い事、憧れていた。

そしていつしか自分も彼女のように社内アーティストを経てブランドディレクターを目指したい、と思うようになったのだ。

そんな時にタイミングよくメロウの社内公募施策があり、飛びつくように応募したのだった。




「友利部長は、南ちゃん推しだもんね。」


次々と運ばれてくる料理を、可那たちが取りやすいようにバランスよく並べかえながら夏子が言った。


「それもそうだけど、友利部長は南に頼りすぎ!」


涼が皆んなに小皿を手渡す。


「知ってた?ともりんてさ、貝聖大卒なんだって。初等部から貝聖だとか言ってたよ。相当なボンボンだよね。あのおっとりした感じも、納得しちゃった。」


「え、そうなんですか?うわ、おぼっちゃまだわぁ。」


夏子と涼の会話に軽い相槌を打ちながら、可那は小皿にじゃんじゃん料理を載せていく。

青々としたベビーリーフを箸で掴み、口へと運ぶ。

この店自慢の自家製シーザードレッシングの味が舌から快楽となり脳へと伝わってくる。

それは耳から入る友利部長の話題と混ざり合い、酔った頭に心地よく溶け込んでくるようだった。


「奥さん、めちゃくちゃ可愛いらしいよ。この間の新店オープンの時に来たらしくて仲村くんが会ったんだって。」


「あ、聞きました!女優の宮石まゆに似てるって言ってた!」


夏子と涼の話を聞きながら、何日か前に誰か同じ事を言ってたなぁと、可那は手と口を動かしながらぼんやりと思い出す。

2人の話題は徐々に、社内不倫カップルの話題へとそれていった。

そろそろビールのお代わりをしようかなぁ、と可那が思ったその時、急にテーブルの傍らに置いてあったスマートフォンが鳴り出した。


思わず反射的に「うわ。」と、可那は口にした。


「どうしたの?」


「まさかまた、ともりん?」


夏子と涼が一斉に可那に注目する。


「はい、噂をすれば…。」


可那は小さく咳払いしてスマートフォンを耳に押し当てた。


「もしもし、お疲れ様です。」


「南?飲んでるところごめん。ちょっとだけいい?」


すまなそうな友利の声が小さく聞こえた。


「大丈夫です。どうしましたか?」


「あのさ、前回の春の新色の什器ってまだ残ってたよね?今、新店から3面展開したいって連絡もらって。あと1個欲しいらしいんだ。倉庫見たんだけど見当たらなくて。どの辺にあるか分かるかな?」


「あー…。」


什器、什器…。

可那は記憶を辿る。

先週、営業の細川さんが倉庫整理をしたからと言って、その時に確かに什器の保管場所も確認させてもらったのだ。

その場所は、電話で説明できないこともないけれどやや複雑だった。

可那は少しだけ迷ってから言った。


「保管場所、私知ってます。ちょっと複雑なんで、私、今から行きます。」


「え、でもまだ飲んでるでしょ?」


戸惑う友利部長の声をかき消すように「ちょっと待っててください。」と言って可那は電話を切った。


「やだ、また、ともりんの呼び出し?」


夏子が向かいの席で眉間に皺をよせている。


「ちょっと分からないことがあるみたいなんで、行ってきます。夏子さん、ごめんなさい。涼、ごめんね、お会計、あとで教えてくれる?」


「うん。分かったぁ…。」


立ち上がる可那を涼が残念そうに見上げた。



会社のビルに引き返すと、息を切らしながら可那はエレベーターのボタンを押した。

静かなロビーに自分の息がはぁはぁと響くようだった。


到着したエレベーターに乗り込むと設置してある鏡を覗き込み、髪を整えた。

ややぴたっと身体にフィットしボディラインの見えるベージュのスーツ。

汚れていないか確認していると、小さくエレベーターが揺れて静止した。


営業部のあるフロアに着くと、外の音も聞こえずますますシンとしていた。

横に長く広いそのフロアは、節電のため、友利の座るメロウグループの島以外の電気は消されている。


「お疲れ様です。」


カーペットにパンプスが音もなく食い込むのを感じながら可那は友利に近づいた。


ワイシャツ姿の友利がこちらに気づいて立ち上がった。


「わざわざ来てもらってごめん。」


「いえ。友利さん、まだ居たんですね。」


「あぁ。帰ろうと思ったら電話が鳴ってさ。明日からフェアが始まるから3面展開したいって相談されて。俺、あの店帰り道だから今日届けますって言っちゃったんだよ。南が近くに居てくれて助かった。」


友利が可那の横をすり抜け出入り口へと歩いていく。

倉庫へ向かうのだろう、可那は後ろをついて歩いた。

倉庫は別のフロアにある。

エレベーターを並んで待ちながら、可那は先週、営業の細川が倉庫整理をしてくれた事を話した。

こうして自分よりも20センチは背の高い友利と並ぶと、自分は女なんだなぁと、くすぐったい気持ちにさせられる。


エレベーターに乗り込むと、友利の身体からよく知っているコロンの香りがした。

アデールのメンズライン。

サンダルウッドとムスクとフランキンセンスのオリエンタルでセクシーな香り。

ロングセラーの定番品だ。

男性を魅力的にする香りだけど、誰にでも似合うわけじゃない。


「友利さんて、変わらずアデールオムですね。」


可那は思わず自然と笑顔になった。


「だって、なんだかんだ、これが一番だよね。そう思わない?」


「うん、まぁ、私たちの世代なら。」


可那はちょっと意地悪な顔で笑って友利を見た。


「南、それ古いって意味だろう。」


「いや…。」


倉庫のある階でエレベーターが開き、2人の笑い声が響く。

下のオフィスのフロアよりも一層、柔らかい絨毯に可那は足を取られそうになりながら、歩幅の大きい友利に並んで歩く。


「私は好きですよー。友利さんこの香り似合いますよね。」


「そう?なんか変えられないんだよね。」



友利はそう呟きながら倉庫の入り口の前で立ち止まると、壁にある機械にICカードキーをかざし、ロック解除をした。

大きなドアノブに長い指をかけ、ガチャリという音と共に、倉庫の扉を開く。

ほんのりと甘いホワイトローズの香りの立ち込める倉庫に2人で入って行く。


友利はもう10年以上、アデールオムを使っている事になるのか、と可那は思った。


可那がアデールに入社した当時、配属された営業2部を担当する営業マンが友利悟だった。

当時まだ30歳だった友利は今よりも更に童顔で若くて、頼りなく感じた。

けれどどんな些細な事でも相談すれば解決策を考えてくれる友利の存在は、右も左も分からなかった当時の可那にとっては気がついたら無くてはならない存在に変わっていた。

自分がいろんな場を乗り越えて来れたのは友利のおかげだと、可那は今でも思っている。



倉庫には高さ3メートル近くはあるスチールラックが図書館の本棚のようにいくつも並んでいる。

一番奥のラックがメロウの倉庫スペースだった。

可那は立ち止まる友利の横をすり抜け、一番端のラックの上を指差した。


「あの手前の段ボールの裏にある段ボールに入ってるんです。えっと、脚立、脚立…。」


可那がキョロキョロとすると、友利がアデールのスペースから脚立を運んできた。

片手でひょいと脚立を開き可那の目の前にそっと置く。

可那はその3段ほどの脚立に乗ると、手前の段ボールを持ち上げて、下にある友利に手渡した。

そして、奥にある段ボールを手前に寄せる。


「うわ、重い…。」


予想以上にそれは重そうだった。

そういえば什器がいくつも重ねられ入っていた気がする。


「俺、やるよ。」


「大丈夫です。」


心配する友利をよそに、可那は力を込めて段ボールを持ち上げる。


そしてそっとバランスを取りながら、脚立を1段降りた、その時だった。


「きゃ…!」


段ボールの底が抜け、中から什器がどさどさと落ちて行く。

驚きバランスを崩した可那を、とっさに友利が横から支えた。


「あ…。」


可那は気がついたら友利に抱きしめられていて、完全に体重を預けている状態だった。

どうしよう、と思いながらも酔いのせいなのか無意識なのか、気がついたら友利の身体に可那は腕を回していた。


「南、大丈夫?」


ものすごく近くで、友利の声が響いている。

アデールオムの香りにクラクラする。

上質なワイシャツ越しの友利の身体の感触。

6年前と全然変わらないと可那は感動さえしていた。


「ちょっとだけ足にぶつかったけど…。大丈夫。」


友利は可那の身体をしばらく抱きしめた後、そっと可那から体を離し、そのまま手を取り脚立から降りるまで支えてくれた。


「什器割れてないかな?」


什器が散らばる床にしゃがみ込み一つ一つ確認する。

心を落ち着かせなくては、と床に目線を落としたまま可那は思った。


まだ、胸はドキドキしていた。

溶ろけそうになったまま放置された身体。

あぁ、まただ、と思い出す。

あの時と同じだと思うと顔が熱くなった。



6年前、営業部の飲み会が終わると外は雨だった。

たまたま家の近くの居酒屋で、可那は徒歩で歩いて帰れる距離だった。

皆、最寄駅へと帰って行く中、友利だけがタクシーで帰るというので、傘を忘れた友利と相合傘をしてタクシーが止まりそうな所まで歩いて送った。


その時は結構飲んでいたし、お互いに酔っていたのだと思う。

歩道で立ち止まり、タクシーを待ちながら友利は何を考えたのかふいに可那を抱き寄せた。

そして傘の中で、突然キスをされた。

可那も友利の事を好きになりそうな時期だったから、そんな風にされ、立っていられなくなりかけた。

それなのにタクシーが止まると、友利は何もなかったかのように1人乗り込んで帰って行ったのだ。


その翌日は、ものすごく気まずい雰囲気になってお互いにギクシャクして、1年ほどそんな感じが続いてしまった。

そんな頃に可那のメロウへの異動が決まり、一度は接点を失った。

まさかその3年後、友利がメロウに異動して来るだなんて思っていなかったので、友利との仲は永久に終わったのだとその頃の可那は信じて疑わなかった。


「良かった、割れてない。もぉ…細川さん、段ボールに詰め込みすぎ…。」


友利が持ってきてくれた別の段ボールに什器を詰め直しながら可那は頬を膨らませた。


「うん、細川にはよく言っておく。良かったよ、君にケガがなくて。」


お店に持っていく什器をメロウのショッパーに淡々と詰める友利を可那は頬を膨らませたまま睨みつける。


時々、君、と呼ぶのやめてもらえませんか?


そう言いかけて、可那はグッと口をつぐんだ。




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