聖セラフ
5月の晴れた土曜日、みちかは乃亜を連れ聖セラフ学院小学校を訪れた。
早朝の校舎に、正装した子供を連れた濃紺のスーツの母親や父親達が、静かに教室を巡っている。
10時から始まる説明会の前に、授業見学を兼ね自由に校舎や校庭を見てまわれる。
今日の授業見学会の為に、本来なら土曜は休みの在校生が、わざわざ登校し授業を受けてくれているのだった。
低学年でありながら、算数の難しい問題に果敢に手をあげる意欲的な生徒達の様子や、ユーモアのある教師による笑いの絶えない授業など、乃亜の手を引いてみちかはゆっくりと見てまわった。
音楽室や体育館の授業を見学した後、乃亜が「お外の動物が見たい」と言うので、校舎を出て山羊のいる小屋へと向かい広い校庭を歩いた。
土の校庭が、みちかと乃亜の黒の革靴を少しばかり砂で汚す。
いくつも並ぶ山羊の小屋が近くなると、乃亜は小走りになった。
同じように山羊を見にきた数組の親子に混ざり、乃亜とみちかも小屋の中を覗き込んだ。
「可愛い!ママ、赤ちゃんがいるね!」
乃亜の言う通り、小屋の中には母山羊と二頭の子山羊がいる。
「本当ね。まだ小さい。生まれたばかりなのかしら。」
一頭の子山羊は母山羊の乳を飲み、もう一頭の子山羊はこちらを見て小さく鳴いている。
見守る子供達の間で「可愛い。」「鳴いたよ。」など口々に感嘆の声が上がる。
みちかと乃亜も、並んでしばらく山羊を眺めていた。
「こちらの子山羊は3日前に生まれたんです。」
背後から声がして振り向くとニコニコした年配の男性教師が立っていた。
「生徒達は授業を中断して、山羊の出産に立ち会いました。生まれてからは子山羊のお世話も順番にしているんですよ。」
教師の言葉に皆、母親達は感心したように頷く。
「貴重な体験ですね。」
みちかが静かに言うと教師は頷き校舎の方を指差した。
「校舎の裏側は、ちょっとした森になっているんですが、そちらには馬小屋があるんです。馬の餌やりも子供達が担当しています。ぜひ見に行ってみてください。馬に乗る機会もあって、乗馬クラブもあるんですよ。」
「お馬さん、見たい。」
教師が話し終わると乃亜がみちかの手を握りしめ呟いた。
みちかは腕時計を見た。
説明会開始時間まで、まだ少し余裕がある。
「行ってみる?」
「うん!」
みちかは乃亜の手を引き校舎の方へ引き返す。
ぐるっと校舎の裏手に回ると、校庭よりもさらに広々とした敷地があり、奥は馬小屋で周りには森のように木々が生い茂っていた。
「広いねー!」
乃亜が歓声をあげる。
歩いていると、乃亜が「わ!ブランコ!」と木の方を指差した。
見ると所々、木に長いロープがかけられ手作りのブランコになっている。
アスレチックのような遊具もいくつか設置されている。
「楽しそうね。」
乃亜がブランコに駆け寄りみちかの方を振り向いた。
「ママ、少しだけ乗ってもいい?」
みちかは一瞬、考えた。
今日乃亜の着ている淡い水色のワンピース。
学校見学用に新調した有名キッズブランドの数万円はするものだ。
ふと乃亜の足元を見ると、服と同じキッズブランドの革靴はすっかり砂をかぶり、同じようにみちかの靴も大分汚れていた。
みちかは乃亜に言った。
「いいわよ。怪我をしないように、気をつけて乗ってね。」
受付で貰った今日の資料にも遊具で自由に遊んで良いと書いてあった。
乃亜が嬉しそうに頷き、やや高いブランコによじ登るようにして乗る。
乃亜に駆け寄ると、みちかは濃紺のトートバッグを芝生に置き、乃亜の背中を押してやった。
満面の笑みで楽しそうにキャッキャと声を上げ乃亜がブランコを漕ぐ。
体操教室に通うようになって、乃亜に活発な面が出てきたように思う。
ただひたすら動き回る活発さではなく、静と動のメリハリが出てきた、という感じだった。
一昔前と違い、学校側も子供らしさのある子供を欲しがるようになったと百瀬が言っていた。
大人しい乃亜に少しでも積極性が出るように、百瀬はいつも配慮してくれる。
今日も説明会の後、体操教室へ行く予定だ。
週に一度の体操教室を、乃亜もみちかも楽しみにしていた。
「ママ、そろそろお馬さんを見に行こうよ。」
乃亜がそう言ったので、ブランコを止め2人で馬小屋のある広場の奥へと歩いて行った。
小屋の裏の背の高いサークルで囲まれた敷地に馬が放たれ、草を食べている。
乃亜がサークルに近づくと、馬がこちらへ向かってゆっくりと歩いてきた。
手を伸ばせば届く距離まで馬が近づき、乃亜の足元の草を食べる。
嬉しそうな表情で乃亜が息を飲んだ。
「触ってみたい。」
そう言って、乃亜が手を伸ばす。
けれどなかなか勇気がいるようで空中に浮いたままその手は馬に触れられずにいる。
「怖くないよ。ほら。」
みちかはそっと馬に触れてみせた。
毛並みに沿い馬の背中を撫でると手のひらに温かい体温が伝わってくる。
「乃亜ちゃん、お馬さんすごくあったかいよ。」
「え!本当?」
恐る恐る乃亜が馬に触れる。
馬は触れられる事に慣れているのかお構いなしに草を食べている。
「うわぁ、あったかい。気持ちいいねぇ。」
嬉しそうにそう言いながら、乃亜は馬をいつまでも撫でていた。
跳び箱に平均台、そしてマットなど今日使う用具を一通り並び終える頃には友利乃亜以外の生徒は全員教室に揃っていた。
いつもは一番にやってくるのに遅いなぁ、と時計に目をやり百瀬は首をかしげた。
壁に貼られたカレンダーを見て、そういえば今日は、聖セラフ学院小学校の学校説明会だ、と思い出し一人納得した。
その時、ドアが開く音がして友利みちかが体操着の乃亜の手を引き教室に遠慮がちに入ってきた。
「遅くなり、申し訳ございません。」
小さな声でそう言いながら、百瀬とほかの保護者に頭を下げる。
くるみボタンの上品な濃紺のスーツ姿の友利みちかに百瀬は思わず目を奪われた。
いつもはおろしているのに、綺麗に頭の低い位置で束ねられた長い髪も新鮮だ。
膝より丈の長いスカートで、そっと椅子に腰を下ろすその仕草に、自分の心臓が高鳴るのを感じた。
保護者のお受験スーツ姿なんて、見飽きるほど見ているのに、こんなにもドキドキするのは何故なのだろう。
友利みちかと目が合い、百瀬は思わず手元の名簿に目線をやってしまった。
顔が熱い。
いつものように笑いかける事のできない自分を呪いたいとすら思う。
「ええと、では、今日のお稽古を始めます。みなさん立ちましょう。お名前を呼びます。」
百瀬の気持ちなど全く気づかない子供たちは元気よく立ち上がり返事をした。
「友利さん、聖セラフいかがでしたか?」
お稽古後、保護者向けの総評が終わり、皆、教室をぞろぞろと出て行く中、手帳をバッグへとしまう友利みちかに百瀬は声をかけた。
友利みちかが顔を上げ、百瀬の目を見る。
その目がとても嬉しそうに笑った。
「はい、百瀬先生のおっしゃる通りで…聖セラフ、とても良い学校ですね。学校見学ということも忘れて親子で楽しんでしまいました。」
「そうですか、それは良かった。敷地広いですよね。馬は見ましたか?」
1歩、2歩、と友利みちかに歩み寄りながら百瀬は聞いた。
最後の保護者が出て行き、教室は2人きりになる。
「見ました。馬に触れて、乃亜が大変喜んでいて…。絶対にあの学校に行きたいって、帰りの電車で言っていた程です。」
「そんなに?乃亜ちゃん本当に気に入っちゃったんですね。」
ははは、と百瀬が笑うと友利みちかが少し困った顔になった。
「私も、伸び伸びした校風を目の当たりにしましたら、乃亜のためにも聖セラフはとても良いんじゃないかなと今日感じました。主人に話してみないと…と思っております。」
主人という単語に、百瀬の胸が少しだけ痛んだ。
「そうですか。ご主人さまも賛成してくださると良いですね。」
百瀬の言葉に、友利みちかは小さく頷きみるみると不安そうな表情に変わる。
あぁ、なんて可愛いんだろう、百瀬はじっと友利みちかの目を見つめた。
「主人は、ルツ女にかなり心が決まっているんです。聖セラフの良さを上手に話せるか、自信がなくて。」
「そうですか。ご主人さまにもぜひ聖セラフの良さを知っていただきたいですね。9月にも説明会はあります。次回はぜひご主人さまもご一緒に行かれるといいですよ。」
百瀬の言葉に友利みちかが頷いた。
「そうですよね。まずは主人に頑張って話してみます。」
友利みちかが居なくなり教室に一人になると、百瀬は教室の片隅で起動していたノートパソコンに歩み寄りキーボードを叩いた。
そして昨年度の私立小学校入試情報の一覧を画面に出す。
聖ルツ女学園の入試倍率は4.5倍。
高い年は倍率が5倍にまで膨れ上がる事もある程の人気校だ。
対する聖セラフ学院小学校の昨年度の入試倍率は3倍強。
2年前に新校舎に建て替えた事もあって、首都圏の併願校としてここ数年一気に人気が上がりこちらもなかなかの高倍率だ。
でもやはりルツ女に比べたら聖セラフの方が受かる確率ははるかに高い。
近頃はルツ女対策にも力を入れているとは言え、ペーパー試験の出来具合に合否を左右されやすいルツ女に比べたら、行動観察考査に重点をおく聖セラフの試験の方がサンライズ体操教室としても百瀬としても力になれる事は多いのだ。
両校は毎年試験日が重なるため併願ができないのだが、聖セラフは今年度から新たにB日程として、もう1日、試験日を設定するそうだ。
ただし、A日程の募集人数60名に対し、B日程の募集人数はたったの10名だ。
幼児教室向けの説明会でも話があったがB日程の倍率は相当なものと予想される。
下手をしたらルツ女と変わらない倍率になるかもしれない。
そんなわけで両校の併願は大変難易度の高いものとなってしまう。
友利みちかの不安そうな表情が百瀬の頭をよぎった。
何としてでも、試験の終わる秋には友利親子を笑顔にしたい。
志望校がルツ女だとしても聖セラフだとしても必ずどちらかの学校へと合格に導かなければいけない。
百瀬は立ち上がり、事務室へと向かった。
「もーもちゃん。」
不意にノーマークだった背後から声をかけられ百瀬はビクッと背中を震わせた。
「うわ!びっくりした!」
振り向くと関崎がニヤリと笑っている。
仕事着のスウェットではなく、既にスーツに身を包んでいる所を見ると仕事を終えて帰る所なのだろう。
「関崎さん、帰るんですか。」
「当たり前だよ、お前、今何時だと思ってるの?」
関崎は呆れ顔で事務室の壁の時計を指差した。
「あれ、22時…。」
「そうだよ。お前、これどうしたの?聖セラフと…、ルツ女の過去問?」
百瀬のデスクの上の、山のようにプリントアウトされた過去問の束を関崎が手に取り1枚1枚めくっている。
あれから事務室の自分のデスクに戻り、ルツ女と聖セラフの攻略を考えていたらいつのまにかエスカレートしてしまい、仕事の範疇ではない、ペーパーの過去問まで確認してしまったのだ。
過去数年分まで。
百瀬は自分のしている事がなんだか急に恥ずかしくなってきた。
「お前、まさかお教室でも開く気?百瀬優弥受験教室。」
「違いますって。」
関崎は手にしていたプリントの束を、そっと百瀬のデスクに戻した。
そして、言った。
「あんまり入れ込むなよー。」
さっきまでふざけていた関崎の声色が、急に先輩らしいトーンに変わる。
「え…?」
静かな事務室に沈黙が流れた。
事務室には既に百瀬と関崎しか居ない。
百瀬は椅子に座ったまま、関崎の顔を見上げる。
「この2校、友利乃亜ちゃんの志望校だろ?
友利さんが可愛いのは俺もよく分かるけど、そんな、しゃかりきにやるなよな。」
関崎の言葉に百瀬はドキリとして黙り込んだ。
「ペーパーの傾向まで掴んでおくのは悪い事じゃねーよ。でもお前、これはやりすぎ。だいたい土曜日に、彼女放ったらかしにすんなよな。」
「あ…、はい。」
じゃあ俺は帰る、と言って関崎は事務所を出て行った。
百瀬は全身の力が抜けていくのを感じていた。
びっくりした。
突然友利みちかの話題が出て、関崎に何か変な事を言われるんじゃないかと物凄くヒヤヒヤした。
自分には関係のないペーパーの過去問をこんなにも紐解いて、今日の自分はやっぱりおかしいのかもしれない。
気がつくと友利みちかの不安そうなあの、儚げな表情を何度となく思い出している自分がいるのだ。
百瀬はなんとか気を取り直し、数時間ぶりにスマートフォンの画面に目を落とした。
するとちょうど梨紗からの着信が光っている所だった。
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