梨紗
「可愛いよなぁ。」
教室の扉が閉まり、百瀬と2人きりになると関崎がポツリと言った。
「え?乃亜ちゃんですか?」
百瀬は関崎の顔を見た。
「友利さん。」
そう言って、関崎はちょっと照れたように笑った。
この先輩は、またそんな風に生徒の母親の事を見てるのかと思い、おいおい、と百瀬は呆れる。
「関崎さーん。」
「まぁまぁ。百瀬はあの人いくつだと思う?」
「えー?友利さんですか?」
百瀬は考える。
「30代だとは思いますけど…。いくつなんですかね。」
「分かんないね。でもなんか可愛いんだよね。それでいて大人の女性だよね。そこはかとなく余裕を感じる。」
「あぁ…。」
百瀬は一瞬、立ち尽くした。
関崎の言ってる事は分かる気がする、と思う。
「ま、お前は鳴沢リリだもんな。友利さんとはタイプが違うよな。ほんといいなぁ、お前は。」
そう言うと、関崎は机を持ち上げ、教室の後ろへと運び始めた。
「鳴沢リリじゃないですから。」
百瀬もそう言いながら、関崎を手伝う。
関崎は何かにつけ「鳴沢リリ」と言って百瀬を冷やかした。
百瀬の付き合っている彼女が若い世代に大人気のモデル鳴沢リリによく似ている、と言うのだ。
一度、仕事帰りに駅で彼女と待ち合わせをした事があった。
その日はたまたま同じタイミングで仕事を終えた関崎と職場から一緒に帰ったので、彼女と関崎はほんの少し駅で顔を合わせたのだった。
関崎は彼女の容姿を絶賛した。
ハーフのような目鼻立ちのはっきりとした顔立ちに、完ぺきなスタイル。
確かに梨紗はモデルのようなヴィジュアルをしている。
「いいよなぁ。お前はモデルと付き合えて。」
「あの、モデルじゃなくてショップ店員です。」
「変わんねーよ。」
関崎がそう言って笑っている。
この人も余裕なんだよなぁ、と百瀬は思った。
百瀬よりも8歳年上の関崎は、もう10年以上前の事だがこの体操教室の女性社員と恋愛関係になりそのまま結婚したらしい。
社内で一番可愛くて仕事もできたという噂の奥さん。そして、可愛い子どもが2人。
時々写真を見せてもらうが、本当に仲の良さそうな家族だ。
百瀬がこの体操教室に就職したのが7年前、雪村幼稚園に出向するようになったのは5年前だったが、関崎はもっとずっと前から雪村幼稚園に出向していた。
長身でシュッとしていて爽やかな塩顔でベテランの関崎は当時から園児にもその母達からも絶大な信頼を得ていた。
最近やっと、自分も支持を得るようになったと百瀬は感じ始めていた。
子どもは正直だから、ここまでの道のりは本当に長かった、と思う。
だから乃亜のような自分を信頼してくれる園児は本当に可愛いと思うし、友利みちかのように頼ってくれる母には、なんとか協力してあげたいと心から思うのだった。
百瀬が仕事を終えて帰宅したのは22時過ぎだった。
外で夕食を簡単に済ませてきたので、すぐにシャワーを浴びる。
平日は雪村幼稚園で、体操教室やサッカー教室を担当し、土曜日は本部で受験コースを担当しているが、受験コースの仕事の時は、仕事も多く、特に帰りが遅くなりがちだった。
私立小学校の説明会があれば足を運ぶし、何かと受験関連の研修も多い。
受験コースの立ち上げは2年前で、講師に抜擢されてから百瀬は本当に忙しくなった。
幼稚園と小学校が体育大学の付属だったという経歴が受験講師の抜擢の一因だったようだが、実際には幼稚園からエスカレーターだったため、百瀬には小学校受験の経験は無い。
けれど母と姉が揃って私立の女子一貫校のOGという事が、なにかと助けにはなっていた。
2歳年上の姉は気が強く弁が立ち、子供の頃、百瀬は泣かされてばかりだった。
姉の母校とはまさに聖ルツ女学園だ。
母も同じだった。
勢いよくドライヤーで髪を乾かしながら、ふいに百瀬の脳裏に、ルツ女の話をした時の友利みちかの不安そうな表情がよぎる。
はじめての面談だったのに、どうして自分は乃亜にルツ女が向いていないと捉えられてしまうようなことを言ってしまったのだろう。
友利みちかは今頃、がっかりしていないだろうか。
百瀬は、今日は自分の主観を少々話しすぎてしまった気がしていた。
何故なのだろう、友利みちかのあの自分にすがるような目を見ると、今ある知識を彼女に向けて全部吐き出したくなる。
自分の話で一喜一憂する彼女をもっと見たい、そう感じるのだった。
関崎の言う、大人の余裕。
それは友利みちかの一部分に過ぎないはずだった。
現に色んな彼女の表情を、自分は今日見たのだ。
関崎には言えなかったけれど、百瀬はそう感じていた。
友利みちかが教室への入会の意思を示してくれた時、百瀬は本当にホッとした。
これから毎週、彼女に会えるのは嬉しい。
髪が乾いたのでドライヤーを止め、百瀬は脱衣所から部屋へと向かった。
その時だった。
ピンポーン…
突然、インターフォンが鳴った。
びっくりして壁のモニターを見ると、梨紗の姿が映っていた。
「うわ…マジか。」
思わずそんな独り言が口をつく。
時計を見ると23時だった。
ピンポーン…
一瞬、寝てしまった事にして無視してしまおうかと思う。
けれど夜も遅いし危ないので渋々ロック解除をすると、モニターの梨紗がニコリと笑ってこちらに手を振った。
百瀬が玄関の鍵を解除してやると、しばらくしてカチャリとドアが開き梨紗が顔を出した。
「やっほー。来ちゃった。」
遅い時間と思えないハイなテンションでそう言うと、靴を脱ぎ終わるか終わらないかのうちに梨紗は百瀬に思い切り抱きついてきた。
「優弥、会いたかった。なんで電話に出てくれないの?あ、いい匂いがする。シャワー浴びたんだ。」
梨紗の形の良い唇が百瀬の唇に押し当てられてそのキスはあっという間にエスカレートしていく。
「待って。梨紗、ちょっとやめて。」
梨紗の肩を掴んで、百瀬はできるだけそっと自分から引き離した。
そうされた梨紗の大きな目が、みるみる潤んで涙をこぼす。
「5日も会えなかったんだよ?梨紗、もう我慢できないのに。」
そしてギュッと梨紗は百瀬にしがみついた。
「優弥は会いたくなかったの?」
梨紗の柔らかい身体の感触と甘い香りに包まれて、百瀬は、もうどうでもいい、そんな気持ちになる。
梨紗にまたキスをせがまれ、今度は百瀬も仕方なくそれにこたえた。
梨紗の頭に優しく触れて、それからそっと背中に触れる。
いつのまにか梨紗の手は、百瀬のスウェットのズボンに滑り込んでいた。
「ほら、ね。優弥、ベッドに行こうよ。」
梨紗にそう言われて、あぁまたか…と百瀬は悔しく思った。
明日は朝から園のサッカークラブの試合があって早起きしなくてはいけない日だった。
ここでまた梨紗の要求に応えてしまったら、明日の朝グッタリなのは分かりきっているのだ。
だけどぴったりと密着する梨紗をもう振り払う事は出来なかった。
2人で部屋の奥のベッドへと向かう。
梨紗とは付き合って1年になる。
百瀬の仕事が忙しくて、なかなか昼間ゆっくり会えないせいもあってか、いつからか梨紗は時々夜中に「会いたい」と電話をしてくるようになった。
はじめは百瀬も嬉しく思って受け入れてはいたけれど、翌朝が仕事で早かろうがお構い無しの梨紗に疲れてしまい、可哀想だけれど段々と電話を無視するようになっていた。
ついにはこうして連絡なしで自宅まで押しかけてくるようになってしまったなんて重症だな、と百瀬は思う。
百瀬より5歳年下の24歳の梨紗。
本当に美人だと思うしスタイルもいいし性格も明るくて人当たりもいい。
だけど年がら年中、イチャつくことを好み、人前だろうと平気で身体に触ってきたりする。
百瀬はそれを本当にやめて欲しいと思っていた。
教え子やその母親に、いつ見られるかも分からないのに。
その夜は、電気を消す間ももどかしいくらい、梨紗は何度も百瀬を求めた。
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