体操教室

次の土曜日、乃亜の体操教室の体験の日。

みちかは悟にも来て欲しいと思っていたが、今日も出勤という事だったので仕方なく乃亜と2人で出かける事にした。


最寄駅まで歩きながら、みちかは手作りの短いお話を乃亜に話して聞かせた。


「猫が買い物へ出かけ、1件目のお店でバラの花を買いました。2件目のお店ではケーキを買いました。途中で友達のウサギに会って、たい焼きをもらいました。犬の家に寄って買ってきたケーキを一緒に食べました。

夕方家に帰りました。さて、猫が家に持って帰って来たものは何でしょう。」


「えーと…。」


みちかと手を繋ぎ、歩きながら乃亜が考える。


「たい焼き!」


「ピンポン!乃亜ちゃん、もうひとつあるよ。何か分かるかな?」


「えぇ…と。」


根気強く考える乃亜に口を挟まぬようにみちかは黙って見守った。


「ケーキは食べたでしょ?だから…、バラ!」


「そうです!正解。すごいねぇ。」


駅前のバスターミナルが見えてきた。

このまま駅の中へと入り、反対側の東口へ出なくてはならない。

平日に比べ、土曜の昼間は一層人通りが多い。駅に足を踏み入れる前に、みちかは乃亜の小さな手を守るようにぎゅっと強く握りしめた。

なんとか人混みをすり抜け、東口へ出る。

ビルとビルの間の細い路地へと入り、迷う事なくサンライズ体操教室の入っている東口ビルディングという建物の前にたどり着いた。

エレベーターにのり5階のボタンを押す。

静かな空間でふと乃亜が口を開いた。


「ママ、この中に百瀬先生が居るの?」


みちかは一瞬、首を傾げた。

あの日、百瀬はたしかに乃亜ちゃんの担当をさせて頂きますと言っていた。

だから百瀬が居るとばかりに思って来たけれど、もしも居なかったらと思うとみちかはとても残念な気持ちになった。


「そうね、百瀬先生が乃亜ちゃんを待ってるはずよ。」


5階に着いたのでエレベーターを降りると、すぐ目の前に『サンライズ体操教室』と書かれた入口があった。

入ると傘立てや本棚のあるスペースがあり奥に靴箱があって受付が見えた。


「こんにちは。体験に伺いました友利です。」


受付の奥には小綺麗な職員室のような広い部屋が見える。


「こんにちは。乃亜ちゃんですね。お待ちしておりました。乃亜ちゃん、こんにちは。」


若い笑顔の明るい女性が立ち上がって乃亜に声をかけてくれた。


乃亜は恥ずかしそうに小さな声で、「こんにちは。」と言ってもじもじしている。




「友利さん、そちらで靴をスリッパに履き替えて頂いて宜しいですか?乃亜ちゃんは、上履きをお持ちですか?」


「はい。持って参りました。」


みちかは黒の低めのパンプスを脱ぎ靴箱に収めた。

乃亜も自分の小さな黒の革靴を、みちかの靴の隣に並べる。

スリッパと上履きにそれぞれ履き替えていると、「友利さん、お待ちしていました。」と頭上で声がした。


顔を上げると、百瀬が笑顔で立っていた。

園で着ているTシャツとは違うデザインのポロシャツと紺色のパンツ姿だった。

みちかの表情は自然とほころんだ。


「百瀬先生!!」


乃亜が嬉しそうに声を上げる。

あまり聞いたことのない大きなその声にびっくりしてみちかは思わず乃亜の顔を見た。


「乃亜ちゃん、こんにちは。よく来てくれましたね。今日は楽しく体操しましょうね!」


百瀬が大きな口をニッとさせて笑う。

その舌ったらずな発音の甘い声を聞き、みちかは、あれ?と思った。

その感覚が一体何なのか分からないまま、百瀬に案内されみちかと乃亜は、奥の教室まで歩いた。


「このお部屋が指示行動や行動観察などを行うお部屋です。あと、広い体育館が上の階にあって階段で行けるようになっています。お着替えは持ってきましたか?」


「はい。体操着を持ってきました。」


「あ、そしたらぁ、このお隣の小さなお部屋でお着替えができるので使っていただければ。」


そしたらぁ、と優しく語尾を高く伸ばす声がみちかには心地よく感じた。


「お着替えしていいの?」


乃亜もニコニコと百瀬を見上げる。


「うん。乃亜ちゃん、ここで着替えて、お隣のお教室に来てね。先生待ってまぁす。」


小さな更衣室に親子で入り、乃亜が楽しそうに体操着に着替える。

乃亜は百瀬の事がとても好きなのだろう、娘が心を開いている様子が見れて、ここへ来るまで少々緊張していたみちかはホッとしていた。


乃亜が着替え終わり、隣の部屋へ向かうとマットや平均台、低い跳び箱やフラフープなどが、クルリと輪になるように配置されていた。

後ろの壁に椅子が並べてあり、既に3人の男の子が母親と一緒に座っている。


「お好きなお席に座ってくださいね。」


百瀬の他にもう1人女性の講師が居て、声をかけてくれた。

みちかは奥の席に乃亜を連れて、並んで座った。


すると百瀬がこちらへ歩いて来て、乃亜の前にしゃがみこんだ。


「乃亜ちゃんのお名前を肩につけても良いですか?」


みちかと視線を合わせて確認をしてから「ともりのあ」と書かれた名札を乃亜の左肩につけてくれた。


みちかと隣り合う乃亜の左肩に百瀬の手が優しく名札をつけている。

すっと伸びた長い指、腕からつながる手のラインもとても滑らかで、あまりにも綺麗なその手にみちかは思わず見とれてしまった。



気づくと女の子の生徒も他に2名、母親と入ってきていた。


時間になり百瀬の指示で、6名の子供たちが並び、お名前を呼ばれたら綺麗に手を伸ばし「はい!」とお返事をするという事から始まった。

それから百瀬が教室に並べられたマット、平均台、跳び箱、フラフープを一通り巡り、子供達にその動きを覚えさせてから1人ずつ順番に同じように動く、という課題を始めた。


他の5名は既にこちらのお教室に通っている子供たちで慣れている様子だったので、みちかは引っ込み思案の乃亜が皆んなと同じように動けるのか心配で祈るように見つめていた。


しかし乃亜の順番が来ると、乃亜は意外にもその課題をやりこなした。

すかさず百瀬が乃亜を褒め、乃亜は嬉しそうにみちかの方を見て笑う。

みちかも乃亜に微笑みかけた。

ホッとして気づいた。

百瀬の話し方に、甘ったるいその声に、さっきからみちかはきゅんとしていたのだ。

見れば見るほど桐戸紡久に似ている百瀬を、いちいち紡久と重ね合わせきゅんとしているのだ、そう思った。

心が高揚し、楽しい。

それは本当に久しぶりに訪れた感覚だった。


支持行動の特訓が終わると、次はたくさんの積み木を6人で相談し合いながら組み立てる

という行動観察の課題に入った。

初めは人見知りしていた様子の乃亜だったが、繰り返すうち徐々に笑顔が出てきた。


あっという間に時間が過ぎ、終了の挨拶を終えみちかの元へ戻ってきた乃亜は「楽しかった!」と満足そうな表情をした。


「では、これからお子さんにはお隣のお部屋でおやつを食べて頂きます。その間に本日の総評をしますのでお母様方はこのままお待ち下さい。皆さん、手を洗いましょうね。」


女性の先生はそう言って、教室のドアを開けた。子供達は手を洗いに部屋を出て行く。

乃亜もハンカチを手にみんなの後に真似をしてついて行った。


講師が百瀬1人になると、親たちは一斉にノートやメモを開きペンを手にした。

今日やった課題を一つ一つ百瀬が解説し、実際の試験の話など交え、どうすればもっと良くなるのかを丁寧に話してくれた。

みちかも手帳に、百瀬の話す内容を細かくメモしていく。


時々、百瀬の顔を見て、目線を合わせながらみちかは真剣にメモを取った。




「今日は、以上となります。ご質問のある方はこの後、宮部が承りますのでお声かけてください。どうもありがとうございました。」


百瀬が丁寧に頭を下げると、親たちも頭を下げ、皆バラバラと立ち上がった。


「友利さん、この後お時間よろしいですか?」


「あ、はい。」


百瀬に声をかけられ、みちかは返事をする。

先日、話した時に、体験後、面談をさせてくださいと言われていたのだ、


「こちらでお話しさせてください。ちょっとお待ちくださいね。」


そう言って、手早く机と椅子を組み合わせ、あっという間に三者面談の時のようなレイアウトで席を作った。


「どうぞ、こちらにおかけください。」


「ありがとうございます。」


みちかは百瀬が用意してくれた席に座った。

他の保護者は皆居なくなり、百瀬と2人きりとなった。

百瀬が立ったまま手元のバインダーに目を通している。

静かな教室に、パラパラと紙をめくる音だけが聞こえた。


「乃亜ちゃん、楽しそうでしたね。」


そう言ってふふ、と百瀬が嬉しそうに笑った。


「ホッとしました。百瀬先生のお陰だと思います。娘は先生に、とても心を開いていますね。」


「いや、でも、乃亜ちゃん素直だから。僕なんか助けられてますよ。」


バインダーから1枚、プリントを抜き取りながら

百瀬が言った。

そしてそれをそっとみちかに向けて机の上に置くと、みちかと向かい合う感じで椅子に腰かけた。


「それでは面談させていただきます。改めまして、今日はお越し頂きましてありがとうございます。えっと、まずは、サンライズ体操教室の年間の詳しいカリキュラムがこちらの通りです。」


百瀬の長い指がスッと伸びて、カリキュラム表の『年長4月』という欄を指している。


「今日はこの内容で進めさせて頂きました。基本はこの流れで、常に子供達の様子を見て苦手な課題があればそれも繰り返し入れて行くような感じでやっています。後は、夏を過ぎた頃から志望校の傾向に合わせた指導も入れて行きます。」


みちかはうんうんと頷いた。


「乃亜ちゃんの志望校は、聖ルツ女学園でしたよね?」


百瀬の言葉にみちかはプリントから顔を上げた。

安心感を覚える、カラッとした笑顔。

今まで体験したどの教室の講師もルツ女などの難関校の話になると眉をひそめたり、声のトーンが落ちたり、そのたびにみちかは不安な気持ちになったものだった。



「はい。そう考えています。」


「ですと、お試験では比較的、行動観察で手仕事ををさせて見られる事が多いようです。折り紙とか紐通しとか。乃亜ちゃんは、細かい作業は好きですか?」


「はい。娘は細かい事がとっても好きです。自宅でもよく針に糸を通してみたり…。」


「えっ、ほんとですか。器用ですねぇ!」


百瀬が笑うのでみちかも思わず笑顔になる。


「集中力や落ち着きを見るようなんですが出来なくても、質問ができて最後までやり遂げられるかなどの粘り強さも見ますね。なので、体操を通してその辺りも強化していきます。

あと、ルツ女は集団行動も見ますが、女の子同士の楽しいお遊びをさせたりする傾向が強いです。お店やさんごっことか、おままごととか。聞いた話によると試験会場に本格的なコーナーが作ってあったりするみたいです。なので試験直前は、ほかの曜日の女の子の生徒さん同士で集まってもらって対策をしたり、してます。」


「そうですか。娘は人見知りがあるので…、はじめてのお友達と上手に協力できるか心配があります。」


みちかは百瀬の目を見た。

少し考えた後に、百瀬は言った。


「乃亜ちゃんは慎重なんじゃないかな、と僕は思います。幼稚園の体操の時も、お友達の動きを時々じっと見る様子が伺えたんですけど、考えてから動きたいのかもしれないですね。一呼吸置けるのは、素晴らしい事だと思いますよ。」


「そうですか。そう言っていただけると…。」


乃亜のことを理解して前向きに捉えてくれる百瀬に、みちかは思わず目頭が熱くなった。


「はい。乃亜ちゃんならきっと一歩一歩ルツ女のお試験に向かっていけると思います。ただ、あそこが意外と…お子さんの気が強いと言いますか、芯がしっかりした子が揃うんですよ。」


百瀬が大きな目を見開き、はっきりと口にしたその内容に、みちかは驚いた。


「大人しいお子さんが多いと伺った事があったのですが…。」


「はい、そのように言われがちなのですが実際に入ってみると、頑張れた子、粘り強いお子さんが多い分、芯の強い傾向があるようなんです。おっとりしたタイプのお子さんが入られてすぐに辞めてしまったというお話をいくつか伺っています。」


みちかは言葉を失った。

おっとりしたタイプ、まさに、乃亜はそのようなタイプだ。


「とても良い学校なのですが、まだまだ志望校を絞ってしまうのは僕は勿体無い気がするんです。友利さん、併願校はお考えですか?」


みちかは首を横に振った。

一瞬だけ敬栄学園が頭をよぎる、けれど乃亜に向いているとは思えなかった。



「聖セラフ学院小学校って、ご存知ですか?」


何か楽しい事を話す時のようなトーンで、百瀬が口にした学校名。

みちかは頷いた。


「あぁ、はい。存じてます。家から少し遠いので、志望校としては考えていなかったのですが…。」


「そうですか。僕的にはおすすめです。こちらはカトリックの共学校ですが、子供たちみんなが優しいと評判なんですよ。ヤギや馬なんかの動物を飼っていたり、裏庭が森になっていたり。あの辺りちょっと田舎なので敷地も広いんですよ。のびのびした校風なので、ちょっとルツ女とはカラーが違うんですが。

ここは何より心の教育に力を入れていてお友達の気持ちになって考えようという教育方針です。ホームページに載っている生徒さんの作文も素晴らしいですよ。」


「いい学校ですね。」


ルツ女を強く志望していたせいで、みちかは他の小学校に関してはなかなかリサーチができないでいた。


「はい。あの、来月、学校見学会と説明会があるのでぜひ、行ってみてください。」


「来月ですか?はい、行ってみたいと思います。」


みちかはニコリと百瀬に笑顔を見せた。

百瀬もニコニコと笑って見せて、「あ…。」と、腕時計に目を落とした。


「乃亜ちゃん、お待たせしてしまっていますね。と言うわけでご入会頂きますと、1ヶ月に1度、担当講師とこのような面談をさせて頂いています。それ以外に、会員様はお電話で受験にまつわるご質問も受け付けております。あの、ここまでで分からないことはありませんか?」


「あの…ぜひ百瀬先生に担当していただきたいのですが。この土曜日のコースでしたら毎週、百瀬先生がご担当なのですが?」


みちかはもう入会しようと心に決めていた。

今日の乃亜の生き生きとした表情、百瀬の娘への理解が決め手だった。


「はい。僕が担当させて頂きます。ぜひ、一緒に、頑張りましょう。」


百瀬が一語一語噛みしめるように静かな声で言うと、みちかはホッとした表情で頷いた。



みちかは百瀬と共に、教室を出ると、乃亜の待つ隣の教室へ向かった。

乃亜は椅子に座り先ほどの女性の講師と向き合っている。


その奥の椅子に腰を掛け2人を見守る男性の姿が目に入ると、みちかははっとした。

園で乃亜がお世話になっている体操講師の関崎先生だった。


「友利さんこんにちは。今日は体験頂きましてありがとうございます。」


みちかを見るとすっと立ち上がり、長身の関崎は丁寧に頭を下げた。


「関崎先生、お世話になっております。」


みちかも丁寧に挨拶をする。


「ママ、関崎先生も来てくれたんだよ。すごいね、ここ幼稚園みたい。」


乃亜がそう言って、みんな笑った。


「宮部さん、友利さんご入会です。」


百瀬が女性講師に声をかけると女性講師は「ご入会ですね。では、受付の方で手続きをさせて頂きますね。乃亜ちゃん、お片づけしてママとお着替えしましょうか。」と、優しく乃亜を促した。


みちかと乃亜は、百瀬と関崎に頭を下げた。


「乃亜ちゃん、さようなら。来週、待ってますね。あ、幼稚園で会えるか。」


百瀬が乃亜の目線に合わせしゃがみ込み、乃亜の手を握りしめ優しく笑った。


みちかは百瀬と関崎に深々と頭を下げ、乃亜を連れて教室を出て行った。






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