母と妹

週末は、みちかの父の七回忌だった。


父のお墓のある寺院で法要を済ませ、近くの料亭で精進落としの会食を行ったが、悟はどうしても外せない仕事があり会食には参加せず会社へと向かった。

会食を終え僧侶と親族を送り出した後、みちかと乃亜、みちかの母と妹家族の6人でコーヒーでも飲もうかとイタリアンレストランへ立ち寄った。


みちかが母のるり子と会うのは数ヶ月ぶりだったが、妹のしほりとはもっと久しぶりだった。

みちかと5つ歳の離れたしほりは、旦那の豊の実家のある少し離れた県に住んでいるので最近はこんな集まる機会でもないと姉妹で顔を合わせる事はなかなか無かった。

久しぶりに会ったしほりが妙にふっくらとしていて、やけに落ち着いた雰囲気になったのを見てみちかは不思議に感じていた。


「乃亜ちゃん、読経の時も大人しかったね。年長さんてこんなに落ち着いていたっけ?」


みちかの隣で大人しく折り紙を折る乃亜を見つめながら、しほりが微笑んだ。


「そういえば健はお義父さんの三回忌の時は、落ち着かなくて大変だったよね。乃亜ちゃんはすごいね。最後のお坊さんのお話もよく聞いてたよね?びっくりしちゃった。」


豊がニコニコしながら言った。


「俺、そんな前の事覚えてないもん。」


息子の健が、携帯ゲーム機から頭を上げて口を尖らせる。


その様子を見てるり子が笑った。


「いいのよ。男の子は元気が一番じゃない?」


小学校2年生の健は父親の豊にそっくりでパッチリとした目の大きなハーフのような顔をしている。

男の子を育てたことの無いるり子にとって、初孫の健はそれはそれは可愛いようだった。


やがてコーヒーと、子どもたちのパフェが運ばれてきて、乃亜も嬉しそうに「わーい、パフェだ!」と折り紙を折る手を休めた。


みちかが一口目のコーヒーを飲みカップをそっとソーサーに置くと、るり子が言った。


「乃亜ちゃんのランドセルも、近いうちに買いに行かないとねぇ。」


そのるり子の言葉に、乃亜がはっとみちかの顔を見上げる。


「乃亜ちゃん、黒のランドセルだよね?ママ。」


心配そうな表情の乃亜に、みちかは静かに頷いてみせた。


「えぇ?黒?黒のランドセルがいいの?乃亜ちゃん。」


るり子が不思議そうな顔をしている。


「えっと…、実は、乃亜、小学校受験をしようと思っていて。」


みちかの言葉にるり子が口をぽかんと開ける。


「えぇ?小学校受験?敬英でも受ける気?」


しほりと豊も静かにみちかを見守っている。




「うぅん、敬英じゃなくて…、他の学校を受けようと思っているの。ダメだったら近くの公立の緑ヶ丘に行くけどね。」


「小学校受験て、難しいんでしょう?」


しほりが心配そうな表情をみちかに向ける。


「そうね。なかなか厳しいみたいだけど、乃亜はお勉強が好きだからチャレンジしてみようと思って。」


できる限り明るい声でみちかは言った。

身内に経験者が居ないと、軽く捉えられるかもしくは重く捉えられる、と何かで読んだ事があるけれどどちらにしても本当の意味で理解をしてもらう事は難しい事だろう、とみちかは思う。


「親の面接なんかもあるんでしょう?」


豊の言葉に、るり子が血相を変えた。


「親の面接?悟くん、大丈夫なの?」


るり子が怪訝そうな顔をするのを見て、しほりはバツが悪そうにコーヒーを飲む。

みちかはそのるり子の表情に、自分の動悸が早まるのを感じていた。


「乃亜ちゃんはきっとしっかりできると思うよ?だけど、親も見られるんじゃ…。ねぇ?」


るり子の言葉には誰も同調しようとしない。

明らかに場の雰囲気が悪くなっている事もお構いなしでるり子は続ける。


「だいたい悟くんのあの髪型…。会社は大丈夫なの?部長さんなんだし、少しはちゃんとした方がいいよねぇ?あんなキノコみたいな頭じゃあちょっと取引先もびっくりしちゃうんじゃない?」


あはははは、とるり子が笑いみちかは自分の顔が熱くなるのを感じた。


「私は似合ってると思うよぉ。悟さんて、変わらないよね。お父さんの三回忌以来お会いしていなかったから四年ぶり?なのにむしろ若返った気がした。お洒落だし、背も高くてスラッとしてるし、美容部員さんにモテちゃうんじゃない?」


「まさかぁ。」


しほりのフォローの言葉に、るり子は気を悪くしたようだった。


「ママ、乃亜ちゃんお外のお魚が見たい。」


その時、乃亜が、みちかの袖を引っ張った。


「え?お魚?」


きっと父親の事を悪く言われている事に気付いているのだろう、みちかは珍しくわがままを言う娘の目が悲痛な色をしているような気さえしてしまった。


「あぁ、入口のところにあった水槽でしょ?おじさんと一緒に見に行こうか!」


豊が優しく乃亜に声を掛ける。


「俺も行くー!」


健が元気よく立ち上がる。

ギギギーッと椅子の足が床を引きずる音がして「健、静かにね。」と、しほりが小さく注意した。


乃亜と豊と健が席を立ち、テーブルは親子3人だけになった。

みちかは仕方なく、口を開いた。


「悟さんの部署は、若い子向けのコスメブランドの部署なの。美容部員さんの制服もとてもお洒落だし、営業さんもスーツには流行に沿った細かな規定があるくらい。イメージがとても大切で、悟さんは雑誌にも度々取り上げられる有名なトップスタイリストさんに何ヶ月も前から予約を入れて髪を切ってもらっているの。」


みちかのコーヒーはもう、冷たくなってしまっていた。

まるで言い訳を言っているかのような情けない気持ちにさせられる、るり子といるといつもそうだが未だに慣れない。


「それはいいけど、面接って色々質問されるんでしょう?大丈夫?悟くん。変な事言わないかしらねぇ。」


「大丈夫よ!悟さん、笑顔が素敵だし、お母さんちょっとさっきから言い過ぎよ。」


しほりがやや強い口調で嗜めるとるり子は拗ねたような表情で黙った。

3人の間にしばらく沈黙が流れた。


入口の方から乃亜と健のキャッキャと楽しそうな声が聞こえてくる。

子煩悩の豊は、いつもこうして乃亜の事も楽しませようと気を使ってくれるのだ。

みちかはそれを有難く感じると同時にいつも「悟もこんな風にしてくれたらいいのに。」と心の奥で寂しく感じていた。


「そんな事より、しほりちゃん、吉報があるのよね?」


気を取り直したのか、るり子が明るい声でしほりに話題を持ちかけた。


「え?なぁに?吉報って。」


みちかも出来る限り明るい声を出しながら、るり子としほりを見つめた。


しほりが座り直し、落ち着いた表情でみちかを見つめる。


「実は今、2人目を妊娠していて6ヶ月なの。お姉ちゃんには安定期に入ってから話そうと思っていたから、報告が遅くなっちゃったんだけど。」


そのしほりの言葉はみちかにとっては衝撃で、襲ってきた感情の波はすぐに整理できず言葉が出てこなかった。


「そう!それで、ね、性別が?」


ゆり子に促されしほりは満面の笑みで言った。


「女の子なの。」


「女の子ー!やったぁ。」


るり子が無邪気に手を叩く。

みちかはやっと口を開いた。


「そっか…どうりでふっくらしてる気がした。安定期なのね。女の子、良かったね。」


妹に向けゆっくりと噛みしめるように、みちかは言った。


「おめでとう。」


「ありがとう。」


可愛い妹の心からの嬉しそうな表情に、みちかも柔らかく微笑んで見せた。




家に着いたのは夕方で、もちろん悟はまだ帰宅しておらず、みちかは急いで夕飯の支度に取りかかる。

事前に下ごしらえを済ませておいたハンバーグを煮込み、ささっとサラダを作る。

いつものように、悟の分も用意して、乃亜と2人で食卓についた。


「乃亜ちゃん、今日はお坊さんのお話をきちんと聞けて偉かったね。」


みちかが褒めると乃亜がポツリと言った。


「じいじが居なくて、ママは寂しい?」


「え?」


乃亜のハンバーグを切る手を休め、みちかは乃亜を見つめた。


「悲しいから、寂しいに変わりますってお坊さんが言ってたよ。」


「あぁ。」


みちかはナイフとフォークをそっと置いて乃亜を見つめた。


「よく、聞いていたのね。」


確かに僧侶は読経の後、乃亜が言ったように話していた。

『故人が亡くなった直後は哀しいという感情でいっぱいになりますが、時が経つにつれてそれは、寂しいという気持ちへ変わっていきます』と。


みちかの父親は、6年前に癌が見つかり、見つかった時は既に末期だった。

当時、父は59歳でまだまだ若く、若いが故に癌は進行が早く、入院して2ヶ月後の7月の日の朝に父は亡くなった。

6年も経つのに、入院中に何度も握った父の手の感触をみちかは未だに忘れられない。

父が亡くなった、それは例えようのない喪失感だった。

この世でたった一人の自分の本当の理解者を失ってしまったという哀しみ。

真面目で優しく穏やかで、大好きだった父親。

父が亡くなった時、みちかは妊娠7ヶ月でその年の10月に乃亜が生また。

子育ては想像以上に忙しく、お陰で父を亡くした哀しさは紛れた。

みちかは乃亜が生まれてきてくれた事に感謝した。


「そうね、寂しかったわ、大好きだったから。」


みちかが静かに話すのを、乃亜はじっと静かに聞いている。


「でもね、じいじはいつもママの近くに居てくれるの。だからもう大丈夫。」


「良かった。」


みちかが微笑むと乃亜がホッとしたような顔をして笑った。



それからお風呂に入り、ベッドで絵本の読み聞かせをした。

乃亜が寝息を立てた事を確認すると、そっとみちかは起き上がりリビングへと向かう。


時計はぴったり21時を指している。

連絡は無いけれど、今日も悟は遅いだろう。

冷蔵庫を開け、ラップをかけた悟の夕飯を中に収め、顔に向かってくる冷風を感じながらみちかは立ち尽くした。


ガラスのジャーに入った赤い柘榴のエキスとペットボトルの海外の炭酸水が視界に入る。

それらに手を伸ばそうとして、昼間のゆり子の言い放った言葉としほりの嬉しそうな笑顔がみちかの頭をかけめぐった。

『大丈夫?悟くん。変な事言わないかしらねぇ。』

『実は今、2人目を妊娠していて6ヶ月なの。』


ため息をつき、そして冷蔵庫の隅に並んでいるゴールドの長い缶に手を伸ばす。

パタンと冷蔵庫を閉める音が静かなリビングに響いた。


リビングの椅子に腰をかけ、みちかは静かにグラスにビールを注ぎ、一気に半分近くを飲み干した。


ふぅと小さく息を吐いて、目の前の本棚を見つめる。

明日の朝、乃亜が解くワークを準備しよう、何にしよう、そう考えようとするのに考えなくてはいけないのに、頭の中で大きな重い風船が膨らんでそれ以外のことを考えられないように支配していくようだった。


「いいかい?あの人の子供は、もう生んじゃだめだよ。」


それはいつかゆり子がみちかに言った言葉だった。

まるで白雪姫に出てくる魔女が言いそうなセリフだとみちかは思った。


みちかの喉をビールの泡が通過していく速度が徐々に早まっていく。

立ち上がり、冷蔵庫を開け次の缶に手を伸ばす。

悟は遅いからまだ大丈夫、今日はこれで終わりにしよう。

新しい缶を開け、苦味を感じるたび頭がクラクラとしていく。


みちかが乃亜を生んでから、ゆり子と悟は不仲になった。

ゆり子の中の『理想の父親像』と悟とが大きくかけ離れていたのが悪かったのか、たとえ義とはいえ母親としてゆり子を上手に敬う事が出来ない悟が悪かったのか、きっとどちらもだろう。

乃亜が生まれてから悟の仕事はより忙しくなり、悟とみちかは別々の部屋で眠るようになった。

ゆり子がみちかに放った魔女のようなセリフは悪い魔法となってみちかと悟をも脅かした。


もう、何年もみちかは悟に触れていなかった。

悟はみちかに触れようともしなかった。

乃亜を身籠ってから一度も。

だけどそれは自分達だけじゃないとどこかで思っていた。

世の中の夫婦には、ありふれた事なんじゃないか、と。

妹夫婦だってきっと。


2本目の缶を持ち上げるとすでに軽く、みちかは立ち上がり冷蔵庫へと向かった。


本当にこれで最後にしようと決め、重たくて冷たい缶をみちかは握りしめる。

テーブルにつくとみちかは深呼吸をした。

スマートフォンを手繰り寄せ、桜貝色に塗られた爪で、桐戸紡久という文字を液晶画面に叩き出す。


暗く刺々しい気持ちが薄れ、脳が艶やかに色づいてくるまでみちかは彼の歌声を聴き続けた。




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