百瀬先生
降園時間の20分前に、みちかは幼稚園に到着した。
インターフォンを鳴らすと、すぐに「どうぞー。」という職員の声とともに、カチャリと錠が外れ、みちかは自ら門扉を開けて園へ入った。
靴を脱ぎ、スリッパを履き、数歩歩めばすぐに職員室がある。
昨夜頑張って記憶を辿ってはみたものの、百瀬先生の顔はどうしても思い出せなかった。
そっとその狭い職員室を覗くと入り口付近に事務の先生が座っていたので声をかけた。
「こんにちは。あの、ばら組の友利乃亜の母です。」
「こんにちは。」
若い事務職員の先生は、みちかを見ると立ち上がり、笑顔で会釈した。
「あの、百瀬先生にお願いしていたサンライズ体操教室の資料を、取りに伺いました。」
「あ、伺っております。百瀬を呼んで参りますので、少々お待ちくださいね。」
愛想よく、ニコニコしながら職員室から立ち去る彼女を、みちかは会釈をして目で追った。
パッチリとした目のキュートな顔立ちだが、立ち振る舞いは上品でいつも好感が持てる。
すぐにまたニコニコとしながら彼女は戻ってきた。
彼女の後に着いてきた、男性職員がみちかの前で立ち止まる。
「こんにちは、百瀬です。昨日は、体操教室へお問い合わせありがとうございました。」
この人が百瀬先生か、と、みちかは百瀬を見つめた。
やや離れ気味で垂れ目の大きな二重の瞳と、高い鼻に、大きな口元。
日焼けした浅黒い肌。
ニコリと笑うと見える白い歯。
「こちらこそ、昨日はお電話ありがとうございました。」
あれ?と思いながら、みちかは頭を下げる。
そしてまた、自分よりも15センチは背の高い、百瀬と目線を合わせた。
幼い印象の顔立ちをしてるけれど、年齢は25歳くらいだろうか。
半袖のポロシャツから伸びた腕は長く、ちょうどよく筋肉がついていて、なんだかきれいだなぁと見とれる。
どこかで、見たことがある…、でも幼稚園ではない気がする、とみちかはとても不思議な気持ちになった。
「では友利さん、ほんのちょっとお時間頂いてもいいですか?乃亜ちゃんの体験の際のご説明をさせてください。」
右側に流したアシンメトリーの前髪に、長い指で触れながら百瀬ははにかんだように笑った。
「よろしくお願いします。」
みちかも思わずつられて笑顔になってしまった。
職員室のとなりの年少さんの教室に、みちかは案内された。
4月中は、年少児は慣らし保育で午前中には降園となる。
シンと静まり返った小さな教室に、園児用の小さな椅子と、小さなテーブルが並ぶ。
この、りす組は乃亜が年少の時に在籍していたクラスだ。
参観日に、ブロックをお友達と協力しながら長く長く繋げ、嬉しそうに遊んでいた乃亜の姿が蘇り、思わず懐かしさで口元がほころんでしまう。
「友利さん、どうぞ。」
みちかが腰掛けると百瀬もみちかの向かいに座った。
手元の資料を広げる百瀬の伏し目と上がった口角をみちかは静かに見つめていた。
多分、百瀬は、誰かに似ているのだ。
思い出せそうで、思い出せない。
それは胸の中に余白が出来て、周囲をぐるぐると回るような行き場のない感覚だった。
「体験の日程はこちらですね、来週の土曜日です。」
百瀬は、体操教室の概要と、進め方や、持参物などを丁寧に説明してくれた。
滑舌が良くて、聴きやすいのだが、どことなく甘ったるく可愛いらしい話し方をするのは日頃幼児と接しているからなのだろうか。
耳触りの良いその百瀬の声を聴きながら、みちかはうんうんと頷いた。
時折目が合うと、その度に大きな口がニッと広がり爽やかな笑顔ができる。
その度に、あれ?と思ってしまうのだ。
間違いなく私はこの人によく似た人を知っている。
説明が終わり、りす組を出て職員室前で百瀬と別れた。
「来週、お待ちしていますね。」
「はい、ありがとうございました。」
百瀬から手渡された資料の入った封筒をそっとバッグに入れるとみちかは急いでばら組の教室へと向かった。
教室では、ちょうどお帰りの歌を歌っている最中だった。
乃亜はちょうど真ん中の席に座っている。
普段はお迎え時も、朝の集合地点の公園まで歩いて帰ってくるので、なかなか園での様子を見る機会は少なかった。
新学期になってから乃亜の園での様子を見れたのはこれで2回目で、貴重な瞬間だった。
年長さんらしく、しっかりと歌い、お辞儀をする姿にみちかは喜びを感じる。
さようならの挨拶を終えた乃亜と目が合うと、
嬉しそうに笑顔が輝き、無邪気に走ってきた。
そして「ママ!」と可愛らしい声を上げ、みちかにギュッと抱きついた。
家に帰り、乃亜におやつを食べさせたり、ワークに取り組んでいる時もみちかの頭のどこかで、百瀬の事がちらちらと気になっていた。
誰かに似ているなら、似ている誰かが自然に思い出せるまで待てばいい、そうも思った。
だけどどうしても気になってしまう
。
多分、それは最近ではなくて昔会った事があるような人物なのだ。
こんな風に気が散るのは良くない、とみちかは思った。
乃亜にきちんと向き合わないと、乃亜に失礼だ、と自分を戒めたいような気持ちにさえなる。
それでも抑えられなくて考え続けていたみちかは、ついに夕食を作りながら確信し始めていた。
乃亜をお風呂に入れて、髪を乾かし、歯を磨き、絵本を読んで寝かしつける。
そんないつもの流れをとてももどかしく感じた。
やがて暗くした部屋の中、乃亜の寝息が聞こえてくるとみちかはそっとベッドサイドへ移動してランプの灯りを灯した。
スマートフォンに準備しておいたイヤホンを指して、ある人物の名前を検索にかける。
久しぶりに見るその動画サイトを開くと、下へ下へとスクロールして、思い当たる曲名をタップした。
イントロが始まる、彼が歌い出す。
胸がドキドキした。
この人の歌をこんなにちゃんと聞くなんて、一体何年振りだろう。
長い腕と、綺麗な指を伸ばして踊りながら歌う姿。
過去に何度も何度も飽きずに見てはドキドキさせられたそのミュージックビデオに時空を超えたような感覚でみちかは見入った。
思った通りだった。
その顔も、身体の厚みや腕の長さなんかの体型も、何故か髪型さえも。
見当たるところ全部、百瀬は彼に良く似ていた。
桐戸 紡久は、みちかがずっと好きだったアーティストだ。
結婚して妊娠出産子育てと忙しい毎日を過ごしていく中、みちかは昔みたいに音楽を聴くような余裕を無くしていた。
多分、今、彼は30歳くらいになっている。
今、みちかが目にしているのは10年ほど前の紡久の姿で、その若い頃の彼が百瀬に驚くほど良く似ているのだった。
自分があんなにも1人のアーティストに夢中になっていた事は、今考えると何とも言えない不思議な感覚だな、とみちかは思った。
なんとも贅沢な時間を過ごしていたのだろう。
独身時代の自分は、今となってはまるで別の人間のように思えた。
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