ひばり

時計の針がちょうど6時45分を指しているのを確認してから、みちかはドアを3回ノックした。


コンコンコン…


指の骨に小さく響く振動の余韻が去るのを待って、なるべく音を立てないようそっと部屋のドアを開ける。


ベッドに一人眠る悟は、小さな寝息をまだ立てていた。

シーツと枕カバーの白と、そして悟の長めの髪と閉じた目元の睫毛の黒のコントラストに少しだけ目を奪われる。


「悟さん。」


自分の中の中くらいの音量を心がけそっとみちかは声をかけた。


「おはよう。」


数秒後、悟は目を開けてみちかの顔を軽く見ると小さな声で「おはよう」と言った。

すぐに視線は時計へと流れゆく。


「今日はオムレツなの。食べる?」


みちかの問いに悟は小さく「うーん。」と唸りそして「少しだけ食べる。」と言った。


小さく微笑みみちかは部屋を出た。

リビングのテーブルにはもうすでに朝食が並んでいる。


悟はあまり朝ごはんを食べない。

昨夜の夕食も、手をつけた気配は無かった。


勤務地がやや遠く、仕事がハードな事もあり、悟が家で夕食を取ることは少なかった。

それでもみちかは欠かさず作る。

外食に慣れてしまった悟に、時々家で食べる食事が一番だと感じてもらえるように、いつも心を込めて作る。

それが仕事だとみちかは思っていた。




「桜、散っちゃったねぇ。」


小さな手をのべて、乃亜が公園の桜の木を指差した。

近所の公園をピンク色に囲んでいた見事な桜も、あっという間に散り緑の葉をたたえている。


「そうだねぇ。散っちゃったねぇ。次はどんなお花が咲くんでしょ。」


歌うようにみちかが答えると、乃亜はキャッキャと笑った。


手を繋ぎ公園の中の集合場所へと向かう。

みちかと乃亜がたどり着く頃、ちょうど反対側の入り口から乃亜と同じクレマン帽子を被った園児が公園へと入ってきた。


「あ、乃亜ちゃん!」


その乃亜と同じクラスのたけとくんは乃亜を見ると嬉しそうに声をかけてくれた。

乃亜は照れるように無言で笑い立ち止まった。


「おはようございます。」


「おはよう。」


続いて到着したたけとくんのお母さんとみちかも笑顔で挨拶を交わす。


やがてパラパラと8名の園児が到着し、幼稚園の智香先生も到着をすると、いつも通りの朝の挨拶が始まった。


「先生、おはようございます。」


「お父様、お母様、行って参ります。」


横一列に並んだ園児たちは深々と頭を下げ、先生に指示された通りの2人組になると、手を繋ぎ公園から歩道へと歩き出す。

母たちはその姿が見えなくなるまで見守る。


乃亜の幼稚園は、徒歩通園だった。

季節を感じながら、自分の足で1キロほど離れた園まで歩くその登園方法は今時珍しく足も鍛えられるし、近所というのが何より安心で、ここへの入園を決めたのが2年前。

園生活は想像以上に早くて、いよいよ乃亜はこの4月から年長になった。

その歩いていく小さな後ろ姿には3年目の貫禄が頼もしく感じられる。


みちかは公園を後にした。

公園を逆戻りしてほんの少し歩けば自宅だ。

家へ戻ると、洗濯機の脱水がちょうど終わったところだった。

みちかはベランダへ出るといつものように色彩がグラデーションになるように、洗濯物を次々と干していった。


ほのかな洗剤のティーツリーの香りが爽やかに広がって、まるで見えないエフェクトのように青空へ昇っていくようだった。

みちかは小さく息を吸い、吐く。

いい天気だなぁ、と思いながら悟の水色のワイシャツが風にはためくのを見ていると、どこからか電話の鳴る音が聞こえる事に気付いた。

慌てて部屋に入り、ダイニングテーブルの上のスマートフォンを手に取った。




電話は、音楽教室からのものだった。


先週申し込んでいた乃亜のバイオリンの体験レッスンが今日の16時からで、その参加意志の最終確認だった。


一体何を見たのか、突然乃亜がバイオリンをやってみたいと言い出したのは1ヶ月前だった。

習い事は年少の頃からクラシックバレエをやっていて今はそれだけなので、もう一つ増やしてもいいような気もしていた。

けれども年長になってしまった今、胸に引っかかっていることがあり、今日の体験でバイオリンを始める決断ができるかは怪しかった。


テーブルの片隅には今朝乃亜が解いたワークの紙がクリップで纏めてまだ置いてあった。

パラパラとめくると、みちかのつけた赤い丸ばかりが目に飛び込んでくる。

ワークの束を手に持つと、みちかはクローゼットまで行き収納ケースを開けた。

中にはこれまでに乃亜が解いた大量の問題集が積み上げられている。

パサリとその上に今日の束を重ね、収納ケースの蓋を閉めた。


乃亜は何故か勉強が好きだった。


いつだったか、悟の実家へ帰る時に車の中で退屈しないよう幼児用の問題集を買い与えやっていたらとても面白かったようでそれからすっかり夢中になってしまった。

幼稚園も字を書かせたりと、わりと座学が多いのでその相乗効果もあったのかもしれない。

それにしても問題を解くことをゲームのように楽しんで夢中になるので、親子の時間にもなるしとみちかは色々な問題集を探しては買ってきて乃亜に解かせていた。

強制したことは一度もなくて、朝もワークが無いとガッカリしてしまうので、いつのまにか朝の勉強も日課になってしまった感じだった。




幼稚園から帰ってきた乃亜に、みちかは手作りのクッキーを食べさせ着替えをすませると、手を繋いで駅の近くの音楽教室へと出かけた。


最寄り駅は子供の足で自宅から徒歩20分くらいだった。

今までこの道のりを歩くと、乃亜は立ち止まり抱っこを求める事もよくあったのに、年長になってからは自分の力で駅まで歩くようになった。

これも成長なのかとみちかは嬉しく思っていた。


予備校などが入っているビルの5階へエレベーターで上がると、バイオリン専門店があった。

みちかと乃亜が入店すると、奥のレジにいた店員がすぐに気づき「いらっしゃいませ。」と声をかけてくれた。


その若い女性の店員はみちかと乃亜に歩み寄り、「こんにちは。体験のお客さまですよね?」と人懐こい笑みを見せた。

「はい。16時から体験の予約をさせていただいた友利です。よろしくおねがいします。」

みちかはその店員の笑顔にホッとしながら挨拶をして深々と頭を下げた。


店内には小さな防音室が数部屋設置されていてその中でレッスンを受ける仕組みになっている。

予約をした講師は、子供への教えを専門とする若い女性講師で、講師、みちか、乃亜の3人で狭い防音ルームの中、レッスンは行われた。

引っ込み思案な乃亜は、最初は消え入るような小さな声で返事をしていた。

それでも初めて触れたバイオリンの弦を、しっかりと押さえることができると講師に褒められ、徐々に乃亜の顔は生き生きとしていった。


斜め後ろの椅子に座って、みちかはドキドキしながらレッスンを見守っていた。

手先が器用な乃亜には、もしかしたらバイオリンは向いているのかもしれない、と思った。


30分のレッスンはあっという間で、講師は簡単にレッスンの予約方法を説明して勧誘をするでもなく、笑顔で「お疲れ様でした。」と防音室のドアを開けた。


みちかと乃亜は頭を下げて部屋を出ると、さっきのバイオリン店のスタッフが「いかがでしたか?」とまた笑顔を見せた。


「とても良い先生で…。楽しく受けさせていただきました。」


答えながらみちかは迷っていた。

乃亜の様子からして、楽しく通える気がするし何より先生も優しくて教え方もとても良い。

入会したい気持ちはあるけれど、今は始める時期ではない気もしている。


「乃亜ちゃん、楽しかった?」


スタッフに優しく聞かれて乃亜も照れたようにニコニコ「楽しかった。」と、小さな声で答えている。


始めるにせよ、悟にもう一度相談しなくては、みちかがそう思ったその時だった。




「あら?みちかじゃない?」


背中の方から知っている声がして驚き、みちかが振り向くと、そこには同級生のひばりが立っていた。

隣には息子の翠くんがバイオリンを背中に背負っている。


「ひばり、久しぶり。」


みちかはびっくりしていた。

ここのところ気がつけばひばりの事を考えていて、新学期が落ち着いたら連絡をしようと思っていたのだ。


「やだ、偶然!」


品の良い笑顔で、ひばりがこちらへ歩み寄る。

ふんわりとしたボブヘアに、落ち着いた濃紺のニットとラベンダーピンクのフレアパンツ。

雑誌を切り抜いたかのようなお洒落をさらっと着こなしたひばりにみちかは親友ながらうっとりと見とれた。


「乃亜ちゃん、こんにちは。大きくなったのね。」


「こんにちは。」


翠くんもこちらへ歩いてきて、ひばりに促される事なくすっと頭を下げる。

乃亜は、一歩前に出てそんな翠くんをじっと見た。


「こんにちは。」


乃亜の棒読みの挨拶に、ひばりが優しく笑って言った。


「乃亜ちゃんもバイオリンやってるの?」


「うぅん、今日は体験に来たの。翠くん、ここに通ってたんだ。ほんと偶然、びっくりしちゃった。」


「ほんとよね。2年ぶり?かな。」


高校時代の同級生だったひばりとは、今でも時々連絡を取り合う仲だった。

家も、車で30分くらいで行ける所に住んでいるから会おうと思えば会えるのだけれど、なかなか子育てをしてると思うようにはいかない。


「翠くんは、3年生になったの?」


「うん、そうよ。やだー、みちかどうしてるかなって気になってた。」


「私もよ。ちょうど会いたかったの。」


みちかの言葉に、ひばりが嬉しそうに笑っている。

翠くんのレッスンも控えていたので、近々ランチに行く約束をして、みちかはひばりと別れた。


スタッフには「入会は、主人と相談をしてからお返事させて頂きます。」と丁寧にお礼を告げて、バイオリン店を後にした。




いつものように、朝5時に起きて歯を磨くため洗面台の前に立つ。


寝起きの顔はいつも微妙に違っているけれど近頃は、自分の顔がなんとなく疲れて見える事が多い。

顔色が悪いというか、くすんで見えるというか。

夜はなるべく早く眠る事にしている。

そうしないと日中身体が疲れてしまうのだ。

それでも顔の疲れ方が気になるのは、40歳を迎えた自分には仕方のない事なのかもしれない、とみちかは思う。


洗顔フォームを泡だてて、顔にのせるとローズとランの香りがいつものように胸いっぱいに広がった。


化粧品会社に勤める悟のお陰で、彼と結婚してからずっと高級化粧品をみちかは使っている。

研究所も大きく、技術も十分にあるその大手の会社の商品の効果を疑ったりしたことはないけれど、細胞の合成よりも老化が進んでしまうらしい年頃の自分には、どんなアンチエイジング化粧品も、若返りというよりは、なんとかくい止めてくれる事が精一杯というのは、ここのところ常々実感していた。


もう、自分は決して若くないのだ。


鏡に映る自分に自分で言い聞かせる。

それにあまりそんな事を気にしている場合ではない、と今は思う。




メイクも着替えも乃亜のお弁当作りも朝食の準備もすませると、あっという間に悟を起こす時間は来てしまう。


いつも大抵そうだけれど、昨夜も遅かった悟と話すのは丸1日振りだった。


昨日のバイオリン教室での乃亜の様子をみちかはどうしても話したかった。

忙しい悟の朝の時間、話し過ぎないよう気をつけ言葉を選ばなければいけない。


朝食のオープンサンドを悟が食べ終わる頃を見計らい、バイオリン教室の講師の感じの良さや乃亜がしっかりと弦を押さえて音を出せていた事を話す。


悟は黙って聞いてくれた。

そしてみちかが話し終わると淡々と言った。


「君の好きなようにしていいとは思ってるけど。バレエと勉強と、バイオリンと。今の乃亜にはそんなにたくさん、まだ無理なんじゃないかな。」


みちかは言葉が見つからず、「そうかもしれないわね。」としか言えなかった。


悟は、立ち上がり、スプリングコートをを羽織り無言でカバンを持つと玄関へ向かった。

彼を見送り、今度は乃亜を起こしに寝室へと向かう。


たしかに悟の言う通りだ。

今はやる事を増やす時ではないのだ。

少しばかり、早くから音楽に触れる時間があった方が良い気がしていた自分から目が覚めるような気持ちで乃亜と自分の寝室のドアノブへ手をかける。


乃亜が起きる時間も、もう少し早めにしなくてはいけない。

できれば悟と家族揃って朝食を取るのが理想だ。

年長の時が経つのは恐ろしく早い事は、みちかは十分、分かっているつもりだった。




偶然の再会から1週間後、みちかはひばりと約束したイタリアンレストランに向かった。


駅近くのデパートのレストランフロアに時間よりも早く着いたみちかは、先に店に入り窓際の席でひばりを待った。

彼女と2人でこうして会うのは本当に久しぶりだった。

なんだかドキドキして落ち着かない。

聞きたいことはたくさんあるけれど、ひばりの顔を見たら舞い上がってしまうような気もした。


そんなソワソワしたみちかの前に、ほんの少しだけ遅れ「ごめんごめん。待たせちゃったよね。」と、華やかな笑顔をたたえてひばりは到着した。


髪を後ろでフワッと結び、柔らかな素材のエレガントな黒のワンピースがよく似合っている。

両耳には大ぶりだけれど上品な黒とゴールドのイヤリング、指に光るジュエリーは綺麗な手元を強調していた。


この人は、本当にいつも洗練されているなぁ、と感心しながら、みちかの顔はいつのまにかほころんでいた。

さっきまで緊張していた自分はすっかりどこかへ行ってしまったようだ。

純粋に、ひばりに会えて嬉しくて、心が躍る。

そもそも友人と、こうしてランチをする事自体、とても久しぶりだった。

ママ友ではなく、高校時代の友人。

想い出が波のように押し寄せ、無条件にあの頃の感覚を一気に取り戻す。


目の前に座ったひばりを前に、思わず「ふふふ。」と笑ったみちかに「やだ!なに?お酒でも飲んでた?」と、ひばりがわざと怪訝な顔をしてみせた。



「違う違う。久しぶりにあなたに会えて、嬉しいなぁ、と思って。」


みちかが素直な気持ちを伝えると、ひばりも嬉しそうに笑った。


「あら、どうもありがとう。いや、なかなか近いとはいえ会えなかったしねぇ。良かったわよ、あの日バイオリン教室に来てくれて。通うことにしたの?」


「うん、それがまだ始めるには早いって主人に言われて。私もそう思ったから今回は見送ることにしたの。」


「そっかぁ。そうね、楽器は始めたら毎日練習しなくちゃいけないしね。うちも結局始めたのは小学校決まってからだったもの。」


「そうだよね。私も小学校入ってからでいいかなぁ、と思って。」


「そうよ、そうよ。」


ひばりにそう言ってもらえると安心するなぁ、とみちかは密かに思った。

昔からいつもそうだった。

同い年なのに、ひばりはまるで姉のようで、相談すればすぐにスッと答えをくれた。

決して厚かましくなく、いつだって率直なのだ。

聡明な彼女に高校時代、幾度となく助けられた。


ひばりと出会ったのは、高校入学直後、ブラスバンド部の見学に行った日の事だった。

たまたま同じフルートを希望していた者同士、その日から自然と話すようになり、入部後はぐんと仲良くなった。

同じパートで、厳しい練習を一緒に耐える仲間という連帯感ももちろん要因だっただろうけど、その頃からひばりが纏っていた上品な存在感にみちかは恋に近い感覚を覚えていた。


みちかの入学したその敬栄学園高等部は、2つの付属校の設置があった。

1つは小学校から高校までが女子一貫校の聖ルツ女学園、もう1つは同じく小学校から高校までが共学の一貫校、敬栄学園だ。


みちかは高校受験をして敬栄学園高等部に入学をしたが、多くの生徒はその敬栄学園中等部や、聖ルツ女学園中学から内部進学で上がってくる。

両校ともカトリックの系列校とはいえ女子校と共学という違いもあって、校風はかなり異なっていた。


聖ルツ女学園は純真、愛徳など主に精神面においての高みを目指す女子教育を校訓として掲げている。

おとなしく真面目な生徒が集まる、いわゆるお嬢様学校だ。

一方、敬栄学園は文武両道の教育方針を元に、正に元気いっぱいの生徒が集まるような校風だった。


そんな敬栄学園高等部だったので、毛色の違う聖ルツ女学園からの内部進学は稀なパターンだった。


それでもひばりが敬栄学園へ来たのは、全国大会で優勝するほどの実力を持つブラスバンド部への入部が目当てだったという。

そしてみちかが、公立中学から敬栄学園を受験したのも同じくこのブラスバンド部が決め手だった。


まるで違う道を歩んで来た2人だったけれど、中学校時代から吹奏楽部でフルートを吹いていた共通点と敬栄学園出身では無いというアウェー感が、2人をグッと仲良くさせた。


そんな出会いだった。


みちかにとって、幼い頃から私学の女子校育ちのひばりの独特の感性や美しい所作や佇まいはとても新鮮で影響力があった。




オーダーしたパスタを食べながら、しばらく同級生の話で盛り上がった。

お昼時に近づくにつれ、店内に人が増えて、時間の速さを感じながらみちかはいつまでもこうしていたいような気持ちになる。


敬栄のブラスバンド部の話題になるとひばりが眉をひそめて「今じゃ、弱小なのよ。」と教えてくれた。

ひばりの憧れだった顧問の楢崎先生が何年か前に退職されてからは、コンクールでの入賞はおろか部員も減ってしまったという。


「翠の敬栄初等部の入学式はね、高等部のオーケストラ部が演奏をしてくれたの。びっくりしたわよ。あの頃、オケ部なんて無かったじゃない?聞いたら、ブラスバンド部が衰退した代わりにアンサンブル部の人数が増えて、オケ部に変わったんですって。」


「あぁ。あるかもね。敬栄、音大の進学率意外と高いしね。」


「そうなのよね。初等部入ってみたら何かしら楽器を習っている子が多くてね。うちもどうしようかな、と思っていた頃ちょうどオケ部の定期演奏会があって。翠を連れて行ったらバイオリンに興味を持ったのよ。」


「へぇ。それでバイオリンを?」


「うん。始めてみたら楽しくて仕方ないみたい。水泳は全然ダメだったのに。」


ひばりが苦笑いをしながら言った。


「まあ、敬栄に入ることができたから中学受験も免れたし。しばらくはやりたい事を思う存分やらせればいいんじゃないって主人の意見もあってね。小学校受験対策でなかなか遊び足りなかった部分もあるし、音楽で青春してくれたらいいかなぁと思って。」


音楽で青春、のところは、照れ隠しなのか冗談ぽくひばりが言いながら笑った。


「私たちみたいにね。」


みちかもひばりの言い方を真似して笑った。



ひばりの息子の翠くんは、小学校受験をして敬栄学園初等部に合格した。

敬栄の初等部は、県内はもちろん県外から受験する子も多くて倍率が高いのはみちかも知っている。


「敬栄難しいのにすごいなぁ、ひばりも、翠くんも。私、乗り越えられる自信ないな。」


みちかの呟きにひばりが「あら。」と、目を輝かせた。


「乃亜ちゃんも敬栄学園どう?」


「うん、それも考えたんだけどね。」


みちかは自分の顔が赤くなるのを感じた。


「実は聖ルツ女学園を、受けたいと思っているの。」


友達に志望校を話すなんて、初めてで、こんなに恥ずかしい気持ちになるのか、とみちかはドキドキしていた。


「いいじゃない!乃亜ちゃん、ルツ女合ってるんじゃない?」


ひばりが屈託のない笑顔でそう言ったので、みちかはほんの少しホッとした。


それでも、聖ルツ女学園小学校の倍率が敬栄初等部よりも更に高い事、試験範囲が多岐にわたり対策が難しい事を思うと、未だ乃亜の志望校をルツ女と考え、それを口に出す事自体が、みちかにとって現実味のない事だった。


小学校受験を経験した、ましてやルツ女OGのひばりにとっても、それは暗黙の了解に違いなかった。


「ルツ女が難しいのは重々分かっているの。こうやって口に出すのもおこがましいと思う。でも色々な学校を見に行ってみて、一番乃亜に合っているなぁ、って感じたのがルツ女でね。」


うんうん、とひばりが真剣な目で頷いた。


「お教室は?どこ行ってる?」


「それがね…。」


ひばりの質問にみちかは口ごもる。

受験塾に関してはここのところずっと迷い、悩んでいる所だった。


「実は、お教室には行っていないの。年中の時、体験には何ヶ所か行ってみたんだけどどこもしっくりとこなくて。」


しっくりとこない、というのとは実際にはちょっと違った。

体験に行ったどこの塾の講師にも、みちかは何か違和感のようなものを感じてしまったのだ。

子育てに正解はない、という言葉を信じて自分の哲学の中で乃亜を手塩にかけ育ててきたという自負のあるみちかにとって、右向け右の塾の教育方針に疑問を感じた。


ただ受験はそうゆうものだという事も、徐々に分かってきたところだった。

ルツ女ほどの難関となれば尚更、身につけておくべき事も多く家庭だけでそれらを網羅するのには無理がある、とも感じ始めていた所だった。



「あら、そうなの。うーん…、正直…。」


ひばりが苦い表情をし、小さく語尾を伸ばしながら言葉を詰まらせた。

みちかは黙ってひばりの言葉を待つ。

応え方に迷った時、相手に失礼の無いようにきちんと頭で整理をしてから口にするひばりの誠実な性格をみちかは良く知っていた。


「ルツ女を本気で狙っているのなら、お教室には行っていた方が賢明だと思う。そうね、ペーパー対策は家庭でもなんとか…、なるかなぁとは私も思うのだけど。行動観察が、あそこは結構意地悪なのよ。噂によると子供達がおふざけするような方向へわざと持っていくらしいの、先生方が。聞いたことある?」


ひばりの言葉に驚きみちかは首を横に振る。


「先生方が?わざとおふざけするように仕向けるっていう事?」


「そう。そこでね、反応を見るらしいわよ。はしゃぎたくなった時、どれだけ抑える自制心が備わっているか。ルツ女らしくて笑っちゃうけどね。それにここ数年は、急に運動能力も見るようになったみたいよ。今年、翠のお友達も何名か受けたのだけど、体操の方をあまり対策されていなかった方は残念な結果だったの。」


初めて耳にするルツ女の細かな受験情報に、みちかは息を飲んだ。





ルツ女のお試験は、所謂ペーパーと呼ばれる筆記試験と、絵画工作などのお制作、時間内に子供達に決まった遊びをさせその様子を見られる行動観察と、簡単な体操による運動能力の確認、それと両親も交えた面接だ。


この多岐にわたる内容の中、一番重要視していなかった体操がまさか合否に関わってしまうとは、驚きだった。

乃亜は体操能力が高い方では無い。


「それは初耳だわ。体操は嫌いとまではいかないと思うけど、どうも苦手みたいなの。背も小さいし幼稚園の体操の時間も、皆んなについていくのが大変みたいで。」


みちかはテーブルの上で手を組んだ。

ルツ女はペーパー難関校であり、自宅でペーパー対策をするだけでもかなりの時間とエネルギーを取られる事は想定している。

そこへ持ってきて運動能力を高めてあげる事まで自分にできるとは到底思えない。


「まぁ、運動能力と言っても最後まで諦めない姿勢とかそこを見られるのだとは思うけどね。

ただ、苦手ならば対策はした方が賢明かもしれないわね。行動観察対策は間違いなく必要よ。ルツ女は欲しいタイプがハッキリしているから。」


ひばりの言葉に、みちかは思わず溜め息を漏らしそうになる。

ルツ女の欲しいタイプ、それはお受験情報を調べれば必ずと言っていいほど目にするおきまりの言い回しだった。

私立小学校では、学校生活の統制を取るため同じようなタイプの子どもを取る学校が多いとまことしやかに囁かれている。

本当にそうだろうか、と思ってはいたもののこうして実際受験を経験した、ましてやルツ女OGのひばりの口からそう言われてしまうと本当にそうなのかもしれない、とみちかは思う。


ただそのルツ女が欲しいタイプというものに、乃亜はぴったりと当てはまるのだった。


控えめであり、従順であり、おとなしい事。


時にやや心配になるほど消極的な一人娘が、ルツ女へ行き同じようなタイプのお嬢さんたちと共に学校生活を送ることはみちかにとってとても安心な事であった。


悟はその辺り少し違う意見を持っているようだけれど優秀な子が揃うルツ女に乃亜が通う事を同じく望んでいるようだった。


そんな事もあり、みちかは、乃亜にはルツ女しかないと強く思っていた。




「やっぱり、全て自宅で対策するのは現実的じゃないかな。」


みちかがそう言い終わらないうちにひばりが「そういえば!」と、目を輝かせ言った。


「乃亜ちゃんの幼稚園て雪村幼稚園よね?確かサンライズ体操教室と提携してない?」


「あ、うん。そうなの。サンライズの先生が体操を教えてくれてるの。ひばり詳しいのね。」


乃亜の幼稚園には提携している外部の体操教室の先生が週の半分以上園に駐在し、体操の時間を担当してくれている。

そればかりか、運動会や遠足、朝の送迎に至るまで体操の先生方が多く関わってくれていた。


「翠の園選びの時に通える範囲内の園は全てリサーチ済みだからね。それより、サンライズって、受験対策の体操教室も運営しているみたいなんだけど、最近結構、そこが合格者出してるらしいのよ。知ってる?」


「え?」


みちかの頭の隅に、昔見た1枚のチラシがうっすらと浮かんでくる。


「そういえば…。体操教室の受験コースがあるって昔チラシで見かけた事あるよ。まだ出来たてだったから入会は検討しなかったの。」


当時は新設されたばかりのコースだったし、そもそもサンライズ自体受験色の一切ない体操教室だったので、さほど学校情報も持っていないだろうと、気にもとめていなかっのだ。


「そう、まだ受験コースは2年目って言ってたかな?でもね、今年、翠の幼稚園のお友達が2人、ルツ女に受かってその2人ともなんとサンライズへ行ってたらしいのよ。体操だけじゃなくて行動観察も見てくれるんですって。確かにまだ実績は少ないみたいだけど結構一人一人きめ細かく見てくれるそうよ。ねぇ、みちか、いいんじゃない?」


「そうなの?知らなかった。いいね、先生に問い合わせてみようかな。」


みちかは、ひばりと話し、一気に心の霧が晴れたような気持ちになった。

1人で悩み停滞していた考えが、やっと動き出したと思った。

そうだ、体操と行動観察は、プロに任せよう。

1人で抱え込もうとするから気持ちが塞ぎ込むのだと思った。


「うん。そうしてみれば。しっくり来るといいね。」


「うん。ありがとう。」


ひばりと別れ、家へと向かう自分の足取りをみちかはとても軽く感じた。

以前、園から配布されたサンライズ体操教室のチラシは、確かまだ取っておいてあるはずだった。

家に着くとみちかはすぐにそのチラシを見つけだし、リビングの時計が14時を指している事を確認した。

乃亜の降園時刻まであと30分、時間はまだ大丈夫だ。

みちかは受話器を取り、そのチラシに記載されている連絡先へと電話をかけた。



「ありがとうございます。サンライズ体操教室でございます。」


2コール目で出た落ち着いた感じの良い女性の声に、みちかはホッとした。


「あの、雪村幼稚園で子どもがお世話になっている者ですが体験をお願いしたくお電話させて頂きました。」


「いつもお世話になっております。体験をご希望という事でございますね。承らせて頂きます。」


先方に、コースや希望の日程、個人情報などを聞かれみちかはそれに一通り答えた。

今日の夕方、担当者から電話がかかって来るという事で、それを了承し電話を切った。

そしてその担当者からみちかへ電話がかかってきたのは17時半の事だった。


みちかが夕飯の支度をしていると、エプロンのポケットの中でスマートフォンが鳴った。

画面の090で始まる知らない番号を確認した後、躊躇なくみちかは着信の文字をタップした。


「もしもし、友利さまの携帯電話ですか?」


「はい、友利です。」


みちかはゆっくりと丁寧に答えた。

予想外にも若そうな男性の声だった。


「私、雪村幼稚園でいつもお世話になっておりますサンライズ体操教室の百瀬と申します。この度は体験教室のお問い合わせを頂きまして誠にありがとうございました。」


聴きやすく耳障りの良い明るい声に心地良さを感じながら、みちかは電話の向こうのその百瀬という相手に対して小さく数回頭を下げた。


「お世話になっております。」


「はい、あの、早速なのですが体験いただく上で、事前に資料をお渡ししながら簡単にお話をさせていただきたいのですが、近々、園までお越しいただく事は可能でございますでしょうか。例えば、明日ですとか。」


「はい。明日、大丈夫です。けれど…園でよろしいのですか?お教室の方まで出向かなくてよろしいのですか?」


百瀬の言葉にみちかはやや戸惑った。

わざわざ園まで受験コースの説明にサンライズの講師が来てくれるのか、随分と手厚いんだなと思った。


「はい、あの、園で大丈夫です。僕、木曜日はいつも園におりますので。ちなみに乃亜ちゃんは、年少さんの時の体操の時間を1年間担当させて頂いております。」


「え…?」


みちかは自分の顔が熱くなるのを感じた。

年少の時に体操を担当?という事は、園に駐在していて、日頃から関わって頂いている体操の先生という事になる。

百瀬先生?

乃亜が年少時の記憶を必死に辿るが、その名前は全く覚えが無い。

園には関崎先生という体操講師が居て、彼が今、体操を担当してくださっている。

てっきり年少の時からずっと関崎先生が担当しているとばかり思っていたが記憶違いだった事になる。

百瀬の名前を聞いてお世話になった先生だとすぐに気づけなかった事にみちかはひどく申し訳なさを感じた。


「そうだったんですね。すみません、あの、娘が日頃からお世話になっております。」


「いえ、あの、乃亜ちゃんはとても素直で可愛いらしい素敵なお嬢さんですよね。受験のお手伝いもさせて頂けましたら光栄に存じます。」


百瀬の明るく乃亜を褒める言葉に憚られながらも明日、園に伺い話をする約束を交わしみちかはその電話を切った。


カウンターキッチンから見えるダイニングテーブルで、乃亜がお絵かきをしている姿が見えた。


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