第54話 熱き友情の男達(前)

 すうっと鼻で息をする。

 空気に違和感は無い。

 嗅ぎ慣れた匂い。病の気配は微塵も感じられぬ。


 言われるがままに通された一室。そこは余りに飾り気のない、簡素な、寒々とした、みすぼらしい部屋だった。

 騎士団の職務遂行の為に用意されたそれは、とうてい公国の貴族が通されるべきところでは無い。戦時の捕虜待遇でさえ、ましであろうと思えた。


 そこの簡素な寝台に、男は寝かされていた。

 身にまとっていた鎧は外され、一枚の毛布がかけられそこから野太い脚が覗いているのが見えた。


「おお、我が友ナンコーよ……眠っておるのか?」


 一瞬、声をかけるべきか迷ったが、寝台に力無く横たわる友の姿を前に、その傍らに膝を着くべく、大股で歩み寄った。


「起きておるとも、友よ……我が生涯の友にして、偉大なる大隊長、デカハナ・グランフィールド卿。貴殿の手を煩わせて申し訳なく思う……」

「おおっ」


 横たわったままに、力なく首を曲げ見上げて来る、その悲痛と憂いに満ちた眼差しは、まごう事無き古くからの盟友であり、忠実なる部下でもあるナンコー・オーロナイン子爵その人であった。

 が、それは余りにも変わり果てた姿。

 今朝、出立の際には全身から立ち昇る様に生じていた覇気が今や微塵も無く、まるでしなびた瓜の様であった。

 誇張ではない。

 本当に、その身が一回りも小さくなったかに見え、思わず瞳が熱くなるのを隠せなんだ。


「がはははっ! 何を言うか!? 何を言うかナンコー! 俺と貴様の仲ではないか!」


 弱弱しく差し出された右腕を、デカハナはすかさず膝を着いて握り返し、更にその上へ左の掌を重ねた。

 衝撃であった。

 その余りに力無いナンコーの腕が、ぐにゃりと筋肉が伸び切った水死体の如き掌が。


「医師の見立てでは、まるで大量の下血があったかの様だと言う。ナンコーよ、何があった? 突然に倒れたとしか報告を受けていないが? これは尋常な事では無いぞ!」


「と言うと……?」


 そのか細い問いかけに、デカハナは身を乗り出す様にしてナンコーを覗き込んだ。


「貴様からは、病の気配を感じぬ! 普段と変わらぬ匂いしかせん! 貴様を検分した医師の匂い! 隊の他の者の匂い! お前の家の匂い! 今朝、食ったであろう食い物の匂い!

 倒れる直前、怪しい者を検分していたのでは無いのか!?

 一体何があったというのだ!?」


「……言わねばなるまいか……?」


「当たり前だ!」


 すると、ナンコーは悲痛な面持ちで瞳を閉じ、天に祈るかの様に首を逸らし、そして、悲哀に満ちた声色で告白した。


「ある可哀そうなご婦人をお救いしようと、このナンコー・オーロナイン、全身全霊を持ってお相手しておったのだ……余りに不憫……あの若さで、夫よりあの様に疎んじられていようとは……」


「どういう事だ? その御夫人は、貴様に救いを求めて来たのか?」


 ナンコーは、デカハナのその問いに、小さく首を左右に揺らし、否と答えた。


「言わずもがなだ。若い女房を、一人で外出させる。しかも、街の外へだ。これを愛情が無いと言わずに、何と言おうか? ……死ねと……そう言っておるのだぞ……」


「何とっ!!!?」


 デカハナは、驚愕の余りに思わず立ち上がりかけた。


 街の中においても、その治安が完全であるとは言い難い。

 通常、若い女性を外出させる際には、必ずと言って良い程に、何らかの同伴者を付けるのが当然の事。ましてや、街の外へ。文字通り、死んで来いと言っているのと同じ事なのだ。


「恐らくは……外に女が出来て、彼女が邪魔になったのだろう……世間体を気にしてか、離縁する口実にでもするつもりで、死ぬか、かどわかされるか、乱暴されるか……嗚呼……俺は何で……この様な時の為に、鍛えて鍛えて鍛え抜いて来たのでは無いのか!?」


「落ち着け! 落ち着くのだ!」


 唐突に、毛布を跳ね上げ、左腕で己の胸を叩き出すナンコー。これを力でねじ伏せるのは、普段ならばこれ程に困難な事は無かったが、今は悲しい程に容易であった。


「たかが……たかが平民の女ではないか? 貴様が気に病む事では無い。俺達は、街の中の治安が良ければそれで良いではないか? 貴様はその様に、気に病む事では無いのだ……落ち着け……落ち着けナンコー……」


「見損なったぞ! みすみす傷付き涙する女性を見逃す事等、このナンコー・オーロナイン! 薄情では無い! せめて、せめて癒してやらねば……くっ……情けない……情けない身体に生まれてしまったものだ……いざという時には役立たずとは……」


「んんん……貴様、そこまで……」


 これには、さしものデカハナも唸るしか無い。

 そして、それは顔に似合わぬ苦笑となる。目を細め、その名の由来でもある大きな鼻をひくつかせ、ほうと体の力を抜いた。


「ふ……確かに、オーロナイン家は癒しの一族。愚問であったな……赦せ、友よ……」


 その言葉に、ナンコーもハッと息をのみ、無理に体を起こそうとして、再度押し留められた。


「すまぬ……望まぬ婚儀で苦しんでいるのは、他ならぬ貴様であったろうに……」


「言うな! 言うな……良いのだ。それは家と家との事ゆえ。だがな、貴様の様に自由闊達で居られるのは、羨ましくも想うぞ。くくく……」


「すまぬ……すまぬ……」


「言うなと言うたであろう? それよりもだ。貴様が倒れた折に、身の回りに居たのはその女ただ一人であったのは間違い無いな?」


 唐突に、空気を冷ややかなものへと切り替えたデカハナに、ナンコーは戸惑いを隠せない。


「誓って! 誓って、その女人は我が身に起きた事とは関係無いぞ! 関係無いのだ!」


「いやいや。そう心配するでない……俺は何もその平民の女が犯人だと決めつけている訳では無いのだぞ。状況をだ。状況を確認したまでの事。納得出来んかな?」


「い、いや……そうでは無いが……確かに、彼女は我が腕の中で震えておったわ。最も身近にあった人間に間違いは無い。他の者達は、離れておったからな」


「成程。では、確認の為に、貴様に俺の能力を使うぞ。良いな?」


「ああ。存分に調べると良い! あの可憐な女性が、この俺が倒れた事とは無関係である事を、貴様も納得するであろう!」


「では、行くぞ!」


 そう宣言すると、デカハナはその大きな鼻を唸らせ、ナンコーの身の回りの空気をずうっと吸い込んでいった。

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