第45話 イキリ屋の娘
ゆるい傾斜を進み馬車が到着したのは、イキリ屋本店とは別の、貴族街の一画だった。
無論、貴族街と一口に言っても、貴族ばかりが住んでいる訳では無い。イキリ屋の様な豪商ならば、金でその地位を得る事もそれに準じた扱いを受ける事も可能というもの。
一般庶民の入る事を許されぬ、内なる城壁に守られたエリア。それが貴族街であり、更にその中核には公王の住まう宮殿がある。
このカラシメンタイコ公国の中枢たる宮殿とこの貴族街は、新鋭騎士団たる第1、第2、第3騎士大隊が交代で警備しているものの、蛇の道は蛇とばかりに怪しげな連中が頻繁に出入りしているのも、悪徳の支配する街ブラックサンの日常である。
「まだお休みでは……」
馬車を降り、見上げた窓辺の灯りにそう呟くジェフに、ドアを開けたままの姿勢で。
「はい。お嬢様のご加減が悪く……」
「また熱を出したのか」
「左様で」
疑問では無い。だが、その答えにふんと鼻を鳴らし、忌々し気に顔を歪めた。
夜の冷気を纏うまま、男らは足早にある一室へと向かう。
そして、ノックの後、ジェフは慇懃に言葉を連ねた。
「旦那様、只今戻りまして御座います」
僅かな衣擦れの気配。そして、しわ枯れた短い声が返った。
「入れ」
「は……」
まあるいドアノブを回し、ゆっくりと開けると、途端に暖かで濃密な空気がわっと押し寄せ、それと共に薬湯独特の香りが鼻をついた。
「ジェフよ、首尾はどうだったか?」
「上々で。明日には万事、事が済むかと思われます」
「そうかいそうかい。では、ワシも明日は特等席で見物させて貰うとするよ。その折は、冒険者ギルドの方にも、呼び出しを頼むよ」
「畏まりました」
そこは、まるで貴族の娘の部屋と見まごうばかりの、小さく見事な調度品に囲まれた寝室であり、その中央には天蓋付きの寝台がぽつんとあった。
そして、その脇に立つ、如何にも恰幅の良い老人が、イキリ屋トゥーベ。イキリ屋の主人である。
ふうと息を継ぎ、少し苦し気にジェフへと向き直る。
「孫にせがまれてな。本を読み聞かせしておったところだ」
「その様で」
「こんばんは、ジェフのおじさま」
「お加減、宜しくないと耳にしました」
寝台の中から響く、か細い声。その主が僅かに身じろぎ、上体を起こそうとするのを、慌ててトゥーベはその重そうな身体を屈め、手を差し伸べた。
「こらこら、寝てなくてはダメだよ」
「でも……」
「左様で御座いますよ、お嬢様。お休みになっていて下さいませ……」
あくまで丁寧な言葉使い。ただ、瞳は冷徹な輝きをひそませていた。
「詳しい話を聞こう。別室へ」
「は……」
「ではな。じいじはお仕事の話があるでな。また、後で様子を見に来るが、それまで大人しく寝てなさいよ」
「はあ~い……」
ぱたりと閉じた本が、寝台脇の小さなテーブルへ置かれ、優し気な面差しのトゥーベがジェフへと振り向くと、そこには冷たいまでの商売人の顔に化けていた。
ふうとため息をつく様に、重たげに身体を運ぶ。
ただ、その歩みは明確な意志の現れとして、4人の男を別の部屋へと誘う。
「この部屋には、あまり来るなと言った筈だよ」
「急ぎのお話がありまして……」
「聞こうじゃないか」
廊下を歩み遠ざかる気配。
ふかふかの寝台の上で、暖炉の暖かさに包まれた少女は、そっと傍らの本に、そのか細くも白い腕を伸ばし、分厚い装丁を持ち上げては放し、ぱふっと音を発てた。
「つまんないなあ~……お話の続き、まだかな~……」
布団の中で、足をぱたぱたと動かし、軽くせき込んではぱたりと身体を沈めた。
小さな吐息が、だだっ広い寝室に吸い込まれては静寂と化し、薪の爆ぜる音が小さく響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます