第28話 海蛇は眠らない


「シュ……」


 湿気った夜風に交じり、僅かな気配が近付くのをシュルルは指で弾いた。

 蚤や蚊の類だろう。

 鱗のある下半身には、そうそう悪さは出来ないだろうけれど、柔らかな皮膚の上半身には、この手の類はやっかい。ま、予め虫よけの香草を焚き染めてあるのだけれど。


 ぽんと厚みの薄い子供の頭骨に手を置き、その汗で張り付いた頭髪から毛じらみを数匹潰すと、ギシギシキイキイ言いそうな粗雑な作りの渡り板の上、シュルルは音も発てずにその尻尾を巡らせた。


「さて、そろそろ帰らなくちゃね……」


 そう、自分に言い聞かせる様に呟く。


 シュルルっと河口沿いのスラムを抜けだすと、再びその姿は、青白い月光に溶け込む様、屋根の上を滑った。

 下の路地を行けば、面倒な見回りの兵士に遭遇する危険性が高い。

 特にあのデカハナとか言う男が厄介だ。

 あれ? 何かもっと大切な事を忘れてる気がするけれど……


 夜の屋根の上は、人々の喧騒も無く、とても静かだ。それだけで心地良い。

 耳をそばだてれば、無数の寝息の気配を。

 やはり荒野で長く過ごした性か、どちらかと言うと人混みはまだ少し苦手。

 遠くを見れば、吸血鬼達が舞い踊る姿が否応なしに目に入るが、変にちょっかいを出して来ない限りは、人間の冒険者より妙な親しみを覚えた。


「やってるやってる……あら?」


 目線を空から路地の気配へと。

 見れば、路地にカンテラを持つ、複数の人影。

 だらだらと、ただぶらついているだけの様に見えるが、カンテラの油もタダじゃない。


「……だろ?」

「だよな。こう……」

「へへ、マジかよ?」


 うん。ただぶらついてるだけみたい。

「うむうむ。感心感心」

 どうやら、今夜は寝ずの番かな?

 ちゃんとこのベイカー街の見張りをしてくれている。


 それぞれの裏手には、大型の竈を幾つも同時に使う為の、大量の薪が積まれている。

 魔法使いや盗賊が何かやろうと思えば、簡単に大火事を起こせるのは、ちょっと屋上から見て回れば判る。

 無論、それは冒険者ギルドがそこまでやるならばの話。風の強い時間帯だと、下手すると一区間のみならず街の大半を巻き込んだ大火となる。流石にそれは無いでしょう。今のところは。


「さて、こうなると、こちらも何もしないという訳には……いかないよね?」

 昼間、ハル君を商人ギルドへ送った帰りに、少し食べ物を買い込んだから、それで何か出来れば……

「ふむ……」

 いきなりだけど、海の魚料理に挑戦してみるのも悪くないかも。今まで魚は、近くの沼地で獲れたものしか食べた事が無かったから、泥臭さを抜く事が大事だったけれど、海はどうなのかな?

 それに、連中がどんな反応をするか、楽しみでもある。

「ブラックサンに来て、最初のお客さんって事かしら? 腕が鳴るわ~」

 喉を鳴らす様にくくくとほくそ笑み、シュルルは早速に拠点へと。


 戻るさなか、それは不意に違和感として……

「何? 生臭い……し、焦げ臭い……まさか!?」

 そう。大気の匂いが変わった。


 風に乗って、焦げ臭さと生臭さが入り混じった匂いが、それが拠点へ近付けば近付く程に強くなり、疑念は煙突から立ち上る黒煙を前に確信へと変わった。

「あいつら~……火加減とか、まさかただ丸ごと焼いたり煮込んだりとか……」

 恐ろしい考えが脳裏をよぎる。

「ありうる!」

 バンと屋上の扉を開くと、そこからも黒煙がもこもこと立ち昇って星明りを遮った。

「きゃーっ!? 風よ! 風よ!」

 泡食って、急いで風を吹き込ませる。


 普段、洞窟で暮らしていて、一番怖いのが、酸欠。

 物を燃やす時に、空気が悪くなって、息が出来なくなったりする事。

 だから、大きな火を使う時は、洞窟の入り口まで出て、煙が中に籠らない様にしながらも、夜なら火の光が見えない様にしたり、昼間なら立ち昇る煙が遠くから見えない様に気を使ったり、色々考えていたつもり。

 ま、洞窟の入り口で火を焚いても、空気の抜け穴が別に無ければ、そうそう籠るものじゃないからね。


 ◇


「で?」


 言葉少なに、説明を求めるシュルル。

 竈のある1階は、それはもう酷い有様でした。即、魔法で片付けたんですが。

 申し訳なさそうに、ジャスミンと三日月が、そこにハルも雁首を並べて正座している。 実際、石の上で正座をしているのはハル君だけなんだけどね。


「はい……」

 恐る恐るの挙手。

「宜しい、ジャスミン君。口を開き給え」

「火を起こすのに成功したので、薪をガンガンくべたら、炎が噴き出して来たので、慌てて水を掛けたら煙がぶわっと出て、あっという間に部屋が煙だらけになりました~」

「これから竈の火力を強める時は、ちょっとずつ薪をくべましょうね」

 シュルルは掌に部屋中の煤を集めて、炭のボールを作って、ぽんぽんと弄びながら、こめかみをぴくぴくさせていた。


「で?」


「はい……」

「宜しい、三日月君。口を開き給え」

「魚を適当にぶつ切りにして、水を張った鍋に放り込んで煮たら、吹きこぼれてたちまち凄い匂いが部屋中に充満したので御座る。そこで、建物の外へ出そうと思ったで御座るが、鍋がめっちゃ熱かったので思わず床にぶちまけてしまったで御座る」

「これから竈の中の鍋を触る時は、厚手の手袋をしましょうね。手、やけど大丈夫?」

「大丈夫……で御座る」

 床にぶちまけられ、散々に踏みつぶされてしまった食材が四角いブロック状になっているのをちらり眺め、シュルルはネズミの餌を量産してしまった事に、そっと溜息をついた。


「で?」


「はい……」

「宜しい、ハルシオン君。口を開き給え」

「僕は、二人のお手伝いをしようと、パンを切ったり、野菜をちぎったりしていたのですが、こんな騒ぎになってごめんなさい」

 本当に申し訳なさそうにぺこり頭を下げるハルに、シュルルは優しく慰める様に微笑み、首を左右に振ってみせた。

「いいのよ。ハル君は悪くないから。悪いのは、うちのダメな姉妹達なんだから」

 そう言って、シュルルはハルをそっと立たせ、優しく抱きしめてあげた。

「お、お姉さ~ん! ごめんなさい! ごめんなさい!」

「よしよし。悪くない悪くない」

 寸でのところで火事を起こして、何もかもダメにしてしまう所だったのだと、自責の念に震える肩を抱きしめるだけで、胸にふつふつと湧く感情に、シュルルは素直に従った。


「ずるいぞ! ハル君ばっかり優遇するな~! というか、どさくさに紛れて触るな~!」 

「ほほう。煙を吸い過ぎても、死ぬ事はあるんですよ。ジャスミンはそうなっても、良かったのかしら? そ~なのかしら?」

「うぐ!?」

 ぺしぺしと尻尾の先で、ジャスミンの真っ黒な頬を張る。

 同時に、ハルの頭を撫で撫でしながら、うふふと自分の頬を摺り寄せた。

 うん、焦げた匂いが香ばしい。

「あ~! それはそれ! これはこれ~っ!」

 ジャスミンも負けじと、尻尾の先で対抗する。

「シュー!」

「シュー!」

 そっと手でハルの耳を塞ぎ、ヘビ語で威嚇を始める2尾。


「あの~……それがし、もう良いで御座るか?」


 三日月は、そっと部屋を出て、裏庭へと。そこでしょんぼりと青白い宵月を見上げた。

 流れる様な雲がかかり、かかってはまた流れて行く。


「先生……それがし、まだまだ未熟者で御座るよ……先生……どこへ行ってしまわれたのすか?」


 月はただ、陰りを帯びては、明るさを取り戻し、ただただ三日月の蛇体を照らし出しては、そこに黒い影を描く。

 嗚呼。月は何も答えてはくれなかった。


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