第18話 潮騒を超えて


「ややっ!? なんじゃこりゃあっ!!?」


 透明と化したのはそのしなやかな肉体のみ。打ち寄せる波は、そのまろやかなラインを煌々とした青白い月明かりに、艶やかに浮かび上がらせて見せた。


 駆け込んだデカハナは、思わず鼻白み、慌てて砂を蹴り立ち止まった。


「きゅ、吸血鬼じゃねえ!? こいつぁ~人魚か!?」


 目を剥き、ずおっと鼻で息を吸う。微細な匂いの変化も、利き逃さぬぞと。


「デカハナの~!!」


「何だあっ!!? 俺ぁ今、忙しいんだよっ!!」


 背後からの声に、苛立ちを隠そうとせずがなるデカハナ。

 そんな様に、やれやれと。


「やっぱ、お前にゃそいつは無理だわ!」


「な!? 見てろ、このゼニキチ野郎!! この俺様が手柄を立てて……」


 その時になって、デカハナは自分がこの透明な怪物と、ゼニ野郎との丁度真ん中に立っている事に気付いた。

 それは投げ銭の射線上。

 て事は、俺が邪魔して……


 ハッと息を呑み、剣の柄に手を掛けたデカハナ。その瞬間、プッと血生臭い何かが顔全体に吹きかけられ、思いっきり吸い込んでしまった。


「うげぇっ!?」


「ほらな」



 胃からの込み上げた熱いものを、至近距離から吹き付けてやった。

 私は残る力を振り絞って、引き潮に身を投じた。



 背後からの嘲笑。大きな水音。そんなものお構いなしに、思いっきり潮水で顔を洗う。何かやばい液だったら、とんでも無い事になる。そんな恐怖に、頭から突っ込んだ。


「あらら。逃げられちゃって……ま、非番の俺にゃ関係ないか……」


「ちっ、畜生!! てめぇが余計な茶々さえ入れなけりゃ!!」


「何だよ。そっちは見てただけだろ!? それとも、俺から上へ報告して欲しいのかよ!? はははは!」


「う、うるせえ!! うるせえ!! ちっくしょうっ!!」


 海面を叩いて悔しがるが、そんな罵声も潮騒の響きを前には、遠く霧散してしまう。


「ま、嫌でもその内、また会えるでしょ……ははは! 俺は帰るぜデカハナの!」


「野郎!! 待ちやがれぇっっ!!」


「やなこった! は、ははは!」


 ピ~ンと指で弾けば、スポッと手の内に舞い戻る。そんなミスリル銀貨に鼻を寄せれば、変わらぬ良いゼニの、豊かな香りがした。

 あれは、絶対良いゼニになる。

 そんな確証が、男の胸にはあった。



 ◇



 夜の海を泳ぐ。

 泳ぐというか、波間に身を委ねる感じ。

 頭を水中に没すれば、天から降り注ぐ光の柔らかなカーテンが、幾重にも折り重なっては、水底のなだらかな波紋を浮かび上がらせ、夜行性の魚達の優美な踊りを彩った。

 銀の鱗。鉛色の鱗。あまたもの金属的光沢が、幻想的に光り輝き、気付けば自分もその内の一つであった。


(うわっはぁ~~~~……)


 感嘆の吐息。


 左肩のしこりの様な重い痛みも、次第に気にならなくなり、水中に生い茂る青き草原のゆらめきに身を重ね、自在にたわむしなやかな我が身に遊ぶ。


 その内に、港湾内から抜け出て、砂浜沿いに泳ぐと、適当なところで陸に上がった。


「あ、はぁ~~~……」


 冷えた体に砂地はほのかに暖かく、心地よく抱かれる様。

 こちらから抱き締めるには、余りに大きく、逞しい。


 とくん。


 己が内に、たゆたう甘美な衝動。


 おぞましくも冷酷な、そして矮小な人の我欲。その汚れを忘却させる程の、激しい命の鬩ぎ合い。死すら覚悟した一閃。

 その敗北感は苦みも無く、ただ凌駕されたという。技量において、組み伏せられたという現実。本来の野生ならば、はらわたをぶちまけて捕食されるという事。

 否。敗北を受け入れたという事は、精神的に食われたという事。

 どういう事だろう?

 敗北したのに、まだ生きているという事は。


 己が脳内に生じた、歪み。

 気付けば、笑っていた。

 何に?

 何がおかしい?

 答えが見えない……


 私は重い身体を起こすと、潮風でべたつく身体を魔法の水で洗い流し、ずるずると砂丘を越えた。

 見渡せば、街の外れ。

 見覚えのある風景に、ゆっくりと進む。


 やがて、目的の場所へ。

 大きな木が生い茂る、その茂みへ。

 音も無く抜けると、そこには1台の馬車があり、傍らに2尾の姉妹がとぐろを巻いて寝転がっていた。


「お帰り~」

「ただいま~」

「どうで御座った?」

 眠そうな2尾に迎えられ、私もとぐろを巻いた。

 すると2尾も、好奇心に瞳をまろやかに輝かせ、覗き込む様に顔を寄せて来た。

 これにはちょっと複雑な表情になる。

「楽しかったよ」

「どう? どう?」

「殺されかけたし~」

「ほほう」

「変な二人に追い回されちゃってさ。そいつら、幻覚が効かないんだよね~」

「ずばり、男でしょう!?」

「否定しないで御座るな?」

「ご想像に……お土産まで貰っちゃって……」

 そう言って、2尾に左の肩を見せると、そこには1枚の大銅貨がまだ張り付いていた。

「へえ~……取れないよ?」

 爪を立てて引っ張られても、不思議と剥がれない。

 叩いても引っ張っても無理。もう痛くは無い。


「う~ん……眠いけど、魔法鑑定しておきますか……」

 仕方なくそうした。だって、追跡タイプの魔法がかかってたら、ここってやばくなるじゃん? いくら幻影に守られていても。


 鑑定結果は……


「呪われた……」

「えっ!?」

「やばいで御座ろう?」

「絶対捕まえるって呪いみたいな、そうでないみたいな……」

 2尾とも、あいまいな私の言い方にきょとん。そんな同じ顔で、見つめないでよ!


「捕まってるけれど、捕まって無いみたいな……」

「何それ?」

「ますます意味不明で御座るな」

「犬が木におしっこかけるレベルのおまじないみたいな……」

「つ~ば付けたって奴!?」

「むむむ……何かかけられたで御座るか!!?」

「か、かけられて無いわよ!! かけ……」

 そういえば、石の破片をいっぱいかけられたっけ……

「そこで言い淀むって!!?」

「むむむ……大人の階段を昇ってしまったで御座るか……」

「ふわっ!? な、ないないない!!」

「皆迄言うな。ここは野良犬にかまれたと思って、私の胸で泣くとイイさ」

「拙者の胸も貸すで御座る!」

「もう!! この話はもうお終い!! 寝る!! とっても疲れてるんだからね!!」

「うん。判るよ。疲れる様な事、して来たんだね?」

「ここは、そっとしておいてやるのが姉妹の情と言うもので御座るな……」

「ぷんぷん!」

「お~よしよし」

「皆迄言うな、皆迄言うな……」

 ぷうっとっ頬を膨らます私を、両側から挟む様にして、何故か頭をなでなでされる。

 もう、子供じゃないんだからね!

 そう思いながらも疲れの性か、両側にあったかな柔らかみが。これがもう、きゅっと挟んで来るので、とたんに意識は混濁して寝入ってしまった。


 しまったぁっ!!


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