第二十話

 どうしても我慢出来なかった感情が噴出して、泣くだけ泣いて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになって、

(どうしよう…恥ずかしい…)

 と思い始めた矢先。


 頬に、初めての感触を感じて、涙も悲しい気分も兄や河野への腹立ちも全部吹っ飛んだ。


 数秒にも満たなかった、一瞬。

 でも桜にとって、時間の長さは関係なかった。

 びっくりして、その方向へ顔を向けると、かつてないほど近くに仁の顔があった。

 

 一瞬、見つめ合った二人だったが、仁のほうが先に根負けした。

 桜の背に回していた手を彼女の後頭部へ回し、自分の顔を見ないように胸に抱え込んだ。


「こっち見んな」


 桜にしか聞こえないくらいの仁の小さな抗議は、声に恥ずかしさが山盛りで、桜は自分の照れを棚に上げて笑い始めてしまった。


「おい、笑うなよ」

「だって…」

 仁のパーカーにしがみつきながら、桜は中々泣き止まなかった。


 ぐぅぅぅ~~~。

 ロマンチックな空気をぶっ壊したのは、仁の空腹だった。

 今度は違う意味で顔を真っ赤にして、手を反対側に突き出して桜から身を離すと、

「ラーメン!食いに行くぞ!」

 桜のほうを見ないで、とっとと公園の出口へ向かって行ってしまった。


 でも、仁のお腹に助けられたのは桜も同じ。

 慌てて走って行って、仁の右腕に掴まった。


◇◆◇


 帰り際。

「お兄ちゃんに会うの、やだな~~」

 あの調子なら、どうせ帰宅した桜を捕まえて、自分勝手な説教でも始めるかもしれない。良くてチクチク嫌味攻撃だ。

「俺が一緒に行って謝ろうか?」

 見かねた仁が申し出たが、桜はびっくりして断った。

「い、いいのいいの!だって、なんで仁が謝るの?私とお兄ちゃんの問題だもん…。兄妹げんかだよ」

 仁は桜の頭にポン、と手を置いて、

「俺には、そんな人に見えなかったぞ」

 びっくりして振り仰ぐと、仁がとても優しく笑っていた。

「ちょっと変わってそうだけどな。お前が心配なんだろ」


 こういう時、いつも桜は仁を尊敬する。

 こっちが自分の感情に振り回されているときに、一歩引いた目で見て、意見してくれる。同級生だけど、とても大人に見える。


(お兄ちゃんに見せたい…。いや、お兄ちゃんより仁のほうが大人だから、またへそ曲げる…)


「ありがと。うん、ちゃんと仲直りするね」

 仁はもう一度桜の頭を撫でると、じゃあ、というように手を上げて、自分の家のほうへ帰っていった。


◇◆◇


 仁が心配してくれたのは、この後の顛末だ。

 帰宅後、『大丈夫だよ』とのメッセージは送ったが、詳細は聞いていない。自分に心配かけまいとしている可能性もある。


 だが桜の話は意外なものだった。


「帰ったらさ、お兄ちゃん部屋に籠って出てこなかったの。夕ご飯も食べないで。私のこと怒ってるのかなぁ、って心配になったんだけど、私もすぐにお兄ちゃんの顔見たくなくて放っておいたら、結局ずーっと、今日まで私と顔合わせないようにしてるんだよね…」

「大丈夫なのかよ…」

「うん、大学も行ってるし、私がいないときにご飯も食べてるらしいから」


 なるほど。

 ばつが悪くて桜に会えないのか。


(やっぱり、悪い人じゃないんだな)


 今の桜には言いづらいが、仁はひそかに、光司へシンパシーを感じていた。



 

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