第十話

『彼氏いるので!』

 勢いで叫んでしまったが、直後桜は羞恥で穴を掘りたくなった。

(か、勘違い!名前の話してただけなのにーー!!)

 意識しすぎた自分が恥ずかしくて、河野に例の90度お辞儀をしてだーっと走りだした。とっとと家に帰ってしまいたい。

 兄の車目掛けてダッシュしていたら、当の兄とすれ違った。

(あれ?お兄ちゃん?)

 何故か茫然と立ちすくんで地蔵のように固まっている。

 桜は兄・光司のところまで戻って

「お兄ちゃん?どうしたの?」

 変な病気だったらどうしよう…。袖口を引っ張りながら声を掛けた。しかし反応がない。ますます心配だ。

「お兄ちゃん!!」

 今度は間近で大声で呼びかけたところ、ハッとしたように反応し、桜のほうを見た。

「良かった…。すごい固まってたよ、どうしたの?」

 心配げに仰ぎ見てくる妹を、衝撃の解けぬまま光司は凝視していた。

(彼氏…彼氏?桜に、彼氏?…男、付き合っている男…)

 まだ子供だと思っていた、いや子供だ、高校生なのだから。それが、男?

 桜と、(自分の)知らない男が、あんなコトやこんなコトを…?

 光司の脳内がおかしな妄想で充満し始めると、その異様さは桜にも伝わった。

(え…?お兄ちゃん、なんか怒ってる?機嫌悪い…)

「ダメだーー!!」

 光司は大学中に響き渡るほどの大声で絶叫した。


◇◆◇


 帰りの車の中でも、兄らしくない挙動に桜は心配の連続だった。

 右折する場所で直進する、青信号になっても動かない、挙句に車庫入れに失敗してバンパーを凹ます。衝撃音で飛び出してきた母にこっぴどく叱られていた。


「お兄ちゃん、どうしたの?昼間は普通だったよね?」

 本当に何があったのだろうと不安に思う桜の問いかけにも、十分な返事が出来なかった。おかしな妄想はまだ光司の脳内を満たしたままだ。

(誰だ、どこで知り合った、どこまでいっている?!どうしたらそいつの正体を突き止められる…)

 普通に桜に聞けばいいだけなのだが、もうそんな常識的な判断ができる状態ではなくなっている。

 心の中ではすでに推理探偵気取りだ。桜の素行を調べるか、桜の気づかないところでスマホの履歴を見るか。どちらにしても犯罪なのだが今の光司に常識は通用しない。

(今は春休みだ、おまけに桜はほぼ毎日バイトだ。どこかで休みは入るだろうが、それも松野に頼んで何かしら用事を言いつけて時間を与えなければいい。後は…新学期が始まってから考えよう)


 フフフフフ…。そんな不気味な笑い声が聞こえそうな光司の様子を危ぶみながら、桜は自室に戻る。

 光司の奇行のおかげで、河野との一件(と、自分の勘違い)を忘れかけていることには気づかない。

 一日の終わりの心地よい疲れを感じながら、仁にメッセージを送る。


『仁もバイト終わった?私も今帰ったよ('◇')ゞお疲れ様』


 丁度工場を出たばかりのところでそのメッセージを受け取った仁。ふんわり微笑んで、(桜の声が聞きたいな…)と珍しいことを考えていた。

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