第7話 逢えない予感と愛しい思い、そして相手側の記憶

 いずれにせよ、この年長の友人と居る時間は、常に心地よさを伴っていた。

 だがその心地よさの正体に、対称的とも言えるあの新司令の存在によって、彼自身気付きつつあった。

 この友人によってもたらされる心地よさは、自分が自分であることを忘れることのできる心地よさだった。それは時には、現実からの逃避ともなりうる。

 だがあの司令は。

 あの司令の冷たさは、彼を否応なしに覚めさせる。ぼんやりと自分自身を捨てさせる快楽ではなく、自分が自分でしかないことを容赦なく突きつけるものだった。

 正直言って、それは、彼自身見たくないものだった。

 彼は決して自分自身を全面的に好きとは言えない自分を知っていた。だがそれは仕方のないことだと思っていた。そしてその上で、それでも生きていかなくてはならないものだから、とその場をすり抜けていくための快楽を必要としていたのだ。

 だがあの司令は。

 あの未来の記憶を持って、それを知りつつ、そのために長い、とても長いアンジェラスの第一世代として生きていくあのひとは。


「ちゃんと食べろよ」


 真正面から声をかけられて、彼ははっとして顔を上げた。いけない、と彼は自分自身につぶやく。あの全てを見透かすような大きな目が、じっと自分を見据えている。


「食べてるよ」

「全然減ってないじゃないか」


 フォークを振り回しながら友人は指摘する。確かにそうだ、と彼も思う。飾り気のないアルミのトレイに乗せられた食事は、盛りつけのまま形を崩すことなく、そこにあった。

 仕方なしに彼はスープに手を出した。朝にしては濃厚なクラムチャウダーの香りはやや鼻につく。

 とはいえ口にして見れば、それなりに自分がエネルギーを必要としていたことを身体が思い出すものではある。夜の夜中にまで酷使された身体に、栄養のあるスープは染みわたっていく。

 だがそれは身体が必要としているだけのことであって、気分とは関係はない。彼はスープを飲み干すと、黙々とパンをちぎり、口に運ぶ。

 既に空になっている食器を前に、茶を口にしていた友人は彼に問いかける。食事に集中しているふりをして、彼は友人の視線から逃げていた。


「体調でも悪いのか?」

「体調… うん、あまり」


 気だるい気分。慣れない相手との情事。だがそれは体調だけのせいじゃない。


「で、例の件は、司令はどう言った?」

「駄目駄目」


 ああその話が出たな、と彼は思った。

 この友人は、彼が司令の所へ陳情しに行ったことを知っている。彼はわざとらしいな、と思いながらも手をひらひらと振って見せる。


「一度受けた命令を撤回するなんて言語同断、だって」

「まあ、仕方ないだろうな」


 そうだね、と彼は答えた。口元が軽く上がる。自分の顔に笑みが浮かんでいるのが彼には判る。作った笑いだ。顔の皮一枚だけで取り繕った笑顔。そんな表情が自分の上に浮かんでいるのが、彼にはありありと感じられた。

 だが奇妙なくらいに、その笑いの意味を、この友人には気取られないだろうな、という感覚はあった。何故だろう、と考えるが、その答えは出ない。


「あんたは今日は忙しいの?」


 いいや、と鷹は首を横に振った。だろうね、とGは予想していた答えにうなづいた。


「君はそうじゃないのか?」

「まあね。召集かけなくちゃならないし… 例の件、結局うちの隊の単独行動になるだろうから…」


 何気なく言ったつもりだった。

 言いながらも、彼の手はむしったパンのかけらを掴んでいたし、時々面倒くさそうにそれを口の中に放り込んでいた。だから言った言葉にしても、あまりはっきりとした発音ではなくて。

 できるだけ何気なく。

 だがその方法は通じなかったらしい。


「単独行動?」


 大きな声ではなかった。だがそれはまっすぐ彼の耳には届いた。彼はうなづいた。うなづくしかなかった。


「…何だって君の隊だけが…」


 目の前の友人が、憤っているように、彼には見えた。見えたからこそ、つとめて、平静に、彼は次に言うべき言葉を探した。


「仕方ないだろう? 司令の命令だし」

「仕方ない? だがこれは無謀じゃないか?」

「…」

「俺は君の隊『も』、かと思ってた。他の隊もあった上で、君の隊も出るんだと思っていた。だけど君の隊だけで、占拠中の工場を奪回しろっていうのは…」

「無謀だよね」

「判っていて」

「だってここは軍で、俺は軍人で、今は戦争だろ?」

「おい」


 それが自分らしくはない論法ということは彼にも判っていた。

 だがそれ以外どんな言い方があるというのだろう? 自分は出なくてはならないのだ。その任務に対して。その任務がどういう結果をもたらすのか、判っていたとしても。

 それは既にあの未来の記憶の中にあったのだから。

 「あったから」それに唯々諾々と従うのではない。あの司令の待ち望む世界のためには、その一つ一つのファクターが必要なのだ。

 友人は、ひどく困っているように、彼には見えた。珍しいことだ、と彼は思った。自分が困っているのを楽しそうに見ているこの友人の表情なら、いくらでも知っている。そしてその表情に含まれる感情も。


「あんたらしくないよ、そんな顔は」


 彼はやや苦笑する。ここが食堂でなくて、彼の自室だったら。テーブルをはさんで手が届かない距離でなかったなら。

 抱きしめてあげたかった。この目の前の相手を。

 そんなことを考える自分がひどく不思議でもあったし、またそんな風に考えてしまう自分がひどく哀しかった。だけどそう考えていることは本当だった。目の前の相手が、奇妙な程に愛しかった。

 何故だろう、と彼は思う。何故今になって、俺はこんなことを考えてしまうのだろう?

 離れることを決めた時になって初めて。


「だけどなあ」

「何も無茶で無謀だからって、俺が必ず死ぬって決まった訳じゃないし、だいたい俺達は、『優秀な兵士』だよ?そう簡単には死なないだろう?」

「それはそうだけど…」


 友人の視線が、何気なく一点を見据えている。Gはそれが自分の手であったことは判ったが、何故友人がそんなところをじっと見ているのか、その理由は判らなかった。

 とりあえず、一言を付け加える。


「大丈夫、俺は死なないから」


 確かに。それは嘘ではない。

 彼は、死ぬ気だけはさらさらなかった。



 何かが変わってきている、と鷹は思っていた。確実に。

 自分ではない、とは思う。変わったとしたら、相手だった。あの年下の友人が、変わってきたのだ。

 無論彼は彼で、人の心の永遠を信じる程純粋ではない自分を知っている。その時はその時だ、と割り切っていたつもりなのだ。

 だがそう簡単に割り切れる程に単純ではない。それを自分自身というもので思い知らされるものだとは、さすがに彼も予想していなかった。

 Gの隊が出撃してから、数日が経っていた。

 レプリカントの工場のあるヴィクトール市は、数少ないこのマレエフの都市の中では、彼らの基地のある場所からは遠い所にある。

 だがこの時代である。一つの惑星上で「遠い」と言ったところで、それは大した距離ではない。

 ただ問題なのは、彼らが出撃して以後、電波障害がひどくなったことだった。もともとこの惑星は電波状況は良いとは言えない。それが開発に熱心でない理由の一つでもある。

 だが鷹は過去の惑星開発の理由などどうでもいい、と思う。問題は現在だった。出撃した部隊との交信が全くできなくなっているのだ。

 そしてそれを確かめるべく出動した隊もまた、何処で迷子になっているのか、予定の時間になっても戻らない。彼はその知らせを聞いた時、思わず爪を噛んだ。

 二の舞になることが判っているから、基地の居残り組は、手も足も出ない状態だった。そしていつの間にか機械に依存している自分たちに対して悪態をついた。

 母星に居る頃はそうではなかったのだ。

 確かに母星の環境が、電波障害とは無縁だった、ということもあったろうが、それ以上に、アンジェラス星域の母星では、そんなものに頼らずとも、一人一人が、アンテナであり通信機であった。上の世代は、それこそテレパシイを持っていたし、直接的にそういう交信手段として能力を持たない下の世代にしても、能力を持つ者のアンテナにはなり得た。

 だがどうだろう。困ったものだ、と顔をつき合わせた士官達の間で、鷹は皮肉気な笑いを浮かべる。「優秀な兵士」アンジェラスの天使種も、そんなものなんだよ、と彼は内心つぶやく。そうせずにはいられない。

 一つの不安は、他の不安の存在をも思い起こさせる。彼にとっては、あの出動の直前の友人の姿もその一つだった。

 あの朝の食堂で、Gは嘘をついていた。少なくとも彼にはそう感じられた。

 何を自分に隠しているのかは判らなかった。言っていることも事実は事実だろう。出撃のことも、仕方ないだろうという言葉自体にも、それは本当だろう、と感じられた。なのに、それ自体ではなく、そのあたりに、何か嘘が感じられた。


 何だろう。


 年下の友人の手は、無意識に閉じたり開いたりしていた。それは友人の癖だった。指摘したことはない。指摘することで余計に気にするかもしれない、と思ったし、それはそれで、一つの目印になるのだから、言わずにおいていた方が面白い、とも思った。

 あの時の友人の手は、本当に無意識に動いていた。


   *

 

 惹かれたのは、格別な意味があった訳じゃなかった。少なくとも最初は、冗談のつもりだった。

 士官学校に入ったのは決して本意ではなかった。彼が望んで足を向けた道ではない。

 ただそれがその時期の母星のその年代の青年の義務のようなものであったから、彼は大人しく出向いていたにすぎない。

 そして出向いたら出向いたなりに、彼はわりあい要領よく立ち回ることができる質ではあった。同じだけの才能を持った生徒がいたとしたら、彼はそれを如何にそれ以上のものに見せるかをよく知っていた、とも言える。

 そういうものだ、と思っていたのだ。生きていくというのは、要領よく全てのことをすりぬけることだ、と。それで十分だ、と考えていたのだ。

 あの時までは。


 まあ何とかなるだろう、と考えていた。

 士官学校のお祭り騒ぎは、毎年恒例のものだった。その年には「上級生」の看板を背負っていた彼にとっては既にお馴染みのものである。

 何事につけてもそつなくこなし、それなりに華もある彼は、こういったお祭り騒ぎの時には、何かとかり出される。その年もそうだった。

 そして何かとかり出されるために、その忙しい予定はしばしば交差する。仕方ないな、と思いながら、優先順位をつけて、下位の相手にはにこやかに断りを入れて。

 「合唱」など、その下位のいい例だったのだ。毎年同じ曲を演る。真面目にやっているのは、その年の新入生くらいなものである。

 だからその年の伴奏者が誰になったかも知らなかった。


 一応ノックはしたつもりだった。だいたいノックというものは、どれだけ小さかったとしても、何となし耳に響く音ではあるから、気付くはずだろう、と彼も思っていた。

 だがどうやら例外も居たらしい。ノックをしたにも関わらず、足音もちゃんとさせて歩いていったにも関わらず、その黒い長い髪を後ろでくくった下級生は、彼が近づくのにまるで気付かないらしい。

 何だかなあ、と彼は思いつつも、ピアノを一心不乱に弾いている下級生に近づいていった。手慣れた指づかいは、ここにくる前の経歴を何となしうかがわせる。

 面白く、なっていた。

 彼はそのまま声をかけることもなく、ピアノを弾く下級生の右横に立った。さすがにそこまで近づけば、気がつくだろう、と考えたのだ。だがそれでも気付くまでには数秒かかった。

 気配に気付いた様子はなかった。ちらり、と高音の鍵盤に目をやった時に視界の端に映ったのだろう、彼の大きな手に視線を走らせた時、初めてその下級生は気がついたようだった。

 弾かれたように下級生は顔を上げた。だがその目線はまだやや焦点があっていないように感じられた。

 集中しすぎで心が飛んでいるな、と彼は気付いた。芸術分野に足を踏み入れている者には、時々そういう者がいるのだ。集中力が凄まじいが、そこから現実の世界に立ち返るのにやや時間が必要な者が。

 しばらくして、ようやくその下級生はぶっきらぼうに彼に訊ねた。まだ表情は堅いままだった。

 端正な顔だ、と彼はまじまじと観察しながら思った。そして好みの顔だ、と自分自身に付け加えた。


「何か用ですか?」


 彼はちら、とアプライトのピアノの上にあった譜面に目をやる。ああそうか、こいつが合唱の伴奏をやるんだな。

 無論彼は、合唱の曲は知っていた。ちょうどこの時下級生が弾いていたのは、この士官学校で毎年必ず「合唱」をやる際には歌われるものだったのだ。だが、下級生がその事情を全て知っているとは限らなかった。彼はややかまをかけてみた。


「実は先日、俺は用事かあって…」


 ふうん、と不思議そうな顔で下級生は次第に表情を緩ませた。微かに傾げた首筋に、長い髪がぱらりとかかる。何だろう、と彼は思った。妙に、目が離せない。


「一応読めるけど、ちゃんと覚えたいから…」


 すると下級生は、ああそうか、という表情になった。彼はこの下級生は事情を知らないな、とその時知った。無論彼は、既にその曲は暗譜している。簡単に歌えるのだ。

 そして下級生はそんな彼の思惑など知らずに、素直に指を動かし始めた。なめらかに指が鍵盤の上を走る。

 ところが数小節ばかり行ったところで、突然下級生はその指を止めた。

 歌を急に止められるのは、さすがに彼も好きではない。

 怒ってやってもよかったのだが、そう思って下級生を見たら、何やら様子がおかしい。

 彼は軽く姿勢を落とし、下級生の顔をのぞきこむようにして訊ねた。

 するといきなり、下級生は飛び跳ねるようにして、椅子から立ち上がった。勢いに、彼は相手の腕をあごにぶつけてしまった。

 その痛みも手伝って、さすがに彼もやや不機嫌な顔になった。


「何か俺が悪いことをしたのか?」


 すると下級生は、慌てて首を横に振った。そんなことはない、と必死で抗弁しているようにも見えた。その必死さが演技である訳はない。だがその必死さゆえに、それは彼のカンにやや障った。

 そんな風に、拒絶されたことは今までなかったのだ。

 下級生はゆっくりと近づいてくる彼から逃げるように後ずさりしていく。馬鹿だなあ、と思いながら、彼は下級生を壁際まで追いつめた。逃げる所なんかないのに。


「一体俺が何をしたっていうの?」


 下級生は首を横に振る。


「じゃ何で君は逃げるんだ?」


 再び下級生は首を横に振る。他の動作を忘れてしまったかのように。

 いくつかの問いを彼は発した。複雑なことは聞いてはいない。同じ問いのヴァリエーションを変えただけだ、と彼自身、気付いていた。だが相手があまりにも何も答えようとしないから、つい彼も意地になってしまう。

 何度も何度も横に振った首には、うっすらと汗が浮いて、長い髪を絡み付かせて、それが奇妙になまめかしい。頬は上気しているし、目も潤んでいる。

 そんなになるまで、俺が一体何をしたっていうの。

 何となく彼は自分が理不尽に扱われているような気がしていた。

 だが何度目かの詰問の末、下級生は、とうとう口を開いた。そして消えいりそうな声で、彼に向かってこう言った。


「…あなたの声が悪いんだ」


 俺の声が? 彼は思いも寄らない答えに目を丸くする。冗談じゃないか、と手を伸ばし、下級生の顔を持ち上げる。視線が合う。そしてその瞬間、ぞくりとした。


「…俺の声が?」    


 彼はたずねる。下級生は大人しくうなづいた。うなづこうとしていた。


「…あなたの声が耳に入ると、僕は何やら訳が判らなくなるんだ…」


 声が?

 何のことだか訳が判らなかった。もしかしたら、この下級生が、自分をまくために何やら浮かんだことを言っているだけかもしれない、とも思った。

 だから、もう一度同じ問いを発した。


「俺の声が?」


 すると掴んだ所から、微かな震えが伝わってきた。なるほど、確かに声に反応しているんだな、と彼は思った。感じやすい奴だ。

 何となく面白くなっていた。

 彼は相手を掴んだ指の力を少し抜くと、そのままつ、と耳の方へと移動させた。下級生の喉から細い声が漏れる。思った通り、感じやすい。

 彼は口元を軽く上げる。面白い。

 そのまま彼は下級生の首筋に指をすべらせ、鎖骨のあたりまで走らせた。さてその先に行くべきかどうか。一瞬迷ったが、何も急ぐことはないだろう、と思った。


「じゃあ仕方ないね」


 そして自分と相手の間を留めていた手を、壁から離した。

 下級生は心底安堵したような表情で、大きく息をついている。ずるずると壁に背をついたまま、その場に座り込んでいる。

 何だかひどくその様子が可愛らしく見えて、彼は思わずあはは、と声を立てて笑っていた。

 また翌日も来てやろう、と内心思ったのである。

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