第6話 未来の記憶、過去の感情

 気づいた時には、朝になっていた。

 彼は無造作に投げ捨てられたように置かれていた服を再び身につけると、司令室につながる扉を開けた。

 上官は既に書類に目を通していた。大きな窓から入り込む朝の光が、奇妙にこの麗人の姿を神々しくも見せていた。不思議なものだ、とGは思う。

 お早うございます、と声をかけると、Mは天気の話をするような口調で、彼に言葉を投げた。


「…この戦争はいずれ我々天使種が勝利するだろう」


 それは神託のようだった。そして反射的に彼は問い返していた。


「そうなんですか?」

「そうだ」


 まるでそれは、初めから決まっていたかのような口調だった。遠い昔、戦争が何処かの星域で何の理由もなく始まった時から。


「…決まって、いるんですか?」

「決まっているのだ」


 司令は繰り返す。


「決まっているって…」

「この戦争は我々天使種が全戦域を統括して帝国を築き上げる。それで終わりだ」

「…判っているのなら、何故…それじゃ僕達が今やっていることは…」

「この状況においては有効なことなのだ。この状況を上手く処理することは」


 彼の中で、昨夜感じた不愉快なものが軽く走った。


「…何故ですか」

「それはお前の考えるべきことではない」

「僕にそこまで言わせておいて黙るのですか!」


 彼は思わず声を荒げていた。だがその直後、彼は自分の口を塞いだ。自分がそんなことを言ってしまったことが、彼には信じられなかった。


「…知りたいか?」


 冷静、実に冷静にMは再び彼に近付いた。

 手袋に包まれた手が、彼の顎を掴んだ。両手が頬をくるんだ。唇が近付いてくる。彼はそれを避けなかった。目を閉じた。

 だが、次の瞬間、彼は閉じた目を大きく見開いた。司令と視線が合う。だがそんなことを構ってはいられなかった。

 情景が、伝わってきたのだ。

 第一世代には、そういった能力がある。触れた唇を通して、数え切れない程の未来の情景が、彼の中に溢れる程の勢いでなだれ込んできた。


 ―――どの位そうしていたのだろうか。冷たい唇が離された時、彼は思わずその場に崩れ落ち、頭を抱え込んでいた。


「知りたいと言ったのはお前だ。受けとめるだけの意志がないならば初めから求めるな」

「…だけどこれは!」

「それは未来の記憶だ」


 MはGの戸惑いを払拭するかのように、無表情な目のまま、続けた。


「私はそうせねばならない。それが私の役割だからだ。それがどういう結果になろうと私はそれをせねばならぬのだ」


 司令の言葉は、渡された映像同様、ひどく重く、彼の全身にのしかかってくるように思えた。

 そして。


「…司令は… あのレプリカを…」


 モニターの中の、強い瞳を。


「約束だ」


 勝利させる方法が無いのなら、全てを破壊すると。それが約束だと。

 それだけが過去の記憶として、彼の中に入り込んでいた。そしてその結末も、未来の記憶として。

 そうしなくては、ならないのだ、と。

 彼はまたひどく胸が痛むのを感じた。うずくまったまま、なかなか立ち上がることができない。どうしてしまったのだろう。だけどひどく胸が痛くて。

 だがその痛みがすっと消えた。上官の手が、彼の右の肩に触れていた。直接触れていた時には、どうしようもなく冷たい手だと思ったのに、手袋と、軍服を通して触れているそれは、ひどく暖かく感じた。 

 そして目の前の上官は、彼に問いかけた。


「来るか?」


 彼は目を見開いた。そして少しだけ耳を疑った。それがその唇から漏れている言葉だと認識するのには、やや時間が必要だった。


「私と共に来るか?」


 あの未来の記憶の中に。

 彼は弾かれたように顔を上げた。



 朝食を摂るために食堂へ出向いたら、友人が居た。あまり食欲はなかったが、彼は決められた分量を乗せたトレイを取ると、友人の横に座った。


「お早う」

「お早う。何か疲れてるようだな。ちゃんと眠ったのか?」


 目敏い友人は、顔を見るなり指摘した。Gは友人からやや視線をそらす。この友人の引き込まれそうな程の大きな目からはそうそうごまかしがきかない。


「うん、ちょっとね」

「ちょっとって言う顔じゃないぞ」


 そうだろう。ここが公共の場であることにGは感謝した。

 二人きりだったら、この友人はどこまで接近してくるか判らない。そうしたら、隠していることなど簡単に見破られてしまうだろう。自分もまた隠さないだろうことも容易に予想がつく。

 最初に会った頃からそうだった。どうしてもこの目の前の友人には、隠し事が効かないのだ。

 だが、今だけはどうしても。

 好きか嫌いか、と二者択一を迫られたら、「好き」と答えるだろう。それは間違いない。だがただ単純に相手のことを好きか、と訊ねられたら。

 彼はこの年上の友人に関して、そこではっきりした答えがずっと出せずにいた。

 初めから、そうだった。惹かれているのは判るのだ。ただそれが、好きかどうか、というと怪しい。ただ単に、自分の最も弱い部分に的確な刺激を与える存在、それだけの「特別」ではないか、と考えずにはいられないことがあるのだ。

 だがそれでも「特別」すらなかった頃に比べらればましなのだが。 

 相手は、いつでも自分を「特別」以上に扱った。最初からそうだった。そして自分がそれに甘えてしまっている。それに気付いていなかった訳ではない。

 ただ、その状態が心地よすぎて。


   *


 最初に会ってから五日目に、士官学校の上級生は彼をその腕の中に捕らえた。そして六日目には、ピアノの椅子に座ったままの彼に、それは当然のように実行された。

 大きくて熱い手が、その顔をつつみ、ゆっくりと後ろへ回ろうとする。髪を止めていたリボンを解こうとしていた。

 駄目だ、と彼は思った。

 だから彼はそこでかろうじて手を伸ばした。目の前の相手の、自分を射殺してしまいそうな程の視線に目を細めながらも、高鳴る鼓動を押さえながら、いけない、とつぶやいた。


「何で?」


 目の前の上級生はひどく不思議そうに訊ねた。当然のことを咎められた、と言いたげな表情に、彼は瞬間、自分の方が悪いことをしているのではないか、という気にすらなってしまう。


「何でって… ここは」

「なるほど、ここは娯楽室だな。そろそろ皆帰ってきてもおかしくはないね」

「だから…」

「じゃあ、ここでなければいいの?」


 彼は言葉に詰まった。目の前の相手は、ひどくおかしそうににやにやと笑っている。

 知っているのだ、この人は。彼はやや悔しく思う。次に来るだろう言葉に、この人は気付いているのだ。ここでなければいいの?ああ全くそうだ。だけどそれをそのまま口にしてしまうのはひどくしゃくにさわる。だけど自分がそれを望んでいることをも知っている…

 そんな彼の内心の葛藤を知ってか知らずか、にやにや笑いを顔に貼り付けたままの上級生は、彼の右の耳に囁いた。


「じゃあここでの練習は今日で終わりだ」


 彼の肩がびくん、と跳ねた。


「もう十分歌は覚えたからね」


 彼はそれを聞いた瞬間、閉じかけていた目を大きく開いた。そしてそうしてから、しまった、と思ったが、遅かった。相手の強烈な視線が、彼を捕らえていた。


「…三号舎の六番」


 そしてその言葉と同時に、視界は大きな手で塞がれた。え、と彼は問い返そうとした。どういう意味か、と。

 だがそれはできなかった。

 ―――視界が解放された時、既に上級生の姿は消えていた。

 言葉の意味を問うことはできなかったが、その必要はなかった。告げられたのは、寮舎の部屋の番号だった。つまりは、その気があるなら来い、ということだった。そのくらいは彼でも判る。自分の周りでもそれは多々あることだったからだ。

 無論士官学校であるから、規則というものは厳しい。だがそこに抜け道が無い訳でもない。夜で、寮舎内となればなおさらだ。現に、彼の同室の相棒はその晩も姿を見せなかった。

 ベッドに座って、するりと自分の長い黒い髪をくくっているリボンを解く。さらさらとした髪は自由になったとばかりにさっと広がった。肩に落ちてくる自分の髪をやや鬱陶しそうにかき上げるる。その拍子に、指が首筋に触れた。

 彼は軽く目を細めた。夕方の出来事が脳裏によみがえる。あの上級生の、ひどく強い視線が、目をつぶっても浮かび上がる。消そうと思っても消えない。指先を、相手の触れた首筋に当てる。記憶は鮮烈だ。

 だがそうしてから、彼は自分が何をしていたのか気付いて愕然とした。それまで自分自身に触れていた両方の手が何やらまだ足りないとばかりに閉じたり開いたりするのをじっと見つめる。


 …俺は一体何をやっているんだ?


 翌日、ピアノを弾く彼の前に、あの上級生は現れなかった。

 何となく、指先に力が入らない自分に彼は気付いていた。確かに正確に弾いてはいるが、頭の中では音符のことなど何も考えていない自分に、どうしても気付いてしまうのだ。

 音が流れる。合唱に使う曲の伴奏だから、同じ曲を繰り返し繰り返し奏でることになる。指が前奏のメロディを弾く。とても正確で美しい調べ。間違ってはいない、間違ってはいない。

 だけど。

 だけど耳は次に飛び込んでくる声を待っているのだ。

 訓練された指は、ピアノを弾く本人の意志を無視してメロディを奏でる。だがその楽器が作り出す音は、彼の頭に直接飛び込んでくる。音は記憶を引きずり出す。あの上級生の声。あの上級生の視線、あの上級生の手。あの上級生の…

 記憶は連鎖のように、次々と彼の中から昨日までの「あの上級生」の姿を引きずり出す。

 ばん、と彼は鍵盤を大きく叩いた。はあ、と大きく肩で息をついた。


「やあ、どうしたの」

 その夜、「三号舎の六番」の扉を開けた時、上級生はそう言った。彼は唇を噛んだ。その位のことは言われるだろう、と予測はしていたのだ。


「…聞き忘れたことがあって」

「聞き忘れたこと?」

「入れてくれますよね?」


 面白そうに上級生は笑った。そして扉を大きく開けると、彼を自室に迎え入れた。上級生の常として、その部屋は個室だった。


「…で、君は何を俺に聞きたいの?」


 扉を閉じた彼に、上級生は訊ねた。答えは用意してあった。


「…あなたの名前を」

「名前?」

「僕はまだ聞いていない」

「それはお互い様だろう?」


 つ、と上級生の手が彼の背後に伸びた。彼は避けなかった。その長い指が自分の髪のリボンを解くのに気付いていた。だがそれを止めることはしなかった。長い髪は重力に従った。長い指は、そのさらさらした感触を楽しむかのように、大きくそれを梳く。

 そうなるのが判っていた。それを待っていたのだ。


 どちらを向いていいのか判らない。だけどとりあえず彼は窓に映る月からは目をそらした。

 力無く投げ出された彼の左の手は、やがてゆらりと動くと、自分自身の目を隠した。そしてもう片方の手は、やはり自分の口を覆う。

 無意識だった。だがそうせずにはいられなかったのだ。

 長い髪の毛は、無造作に広がり、無表情な白い平面上に波打っている。

 口を塞いだ自分の右の手の甲に彼は歯を立てる。それを見た彼の上に居る相手は、動きを止めてその手を両方とも外させた。

 間近な顔は、月明かりだけでそう明るくない部屋でもその所在が判る。汗ばんだ額には、髪が幾筋か張り付いている。

 彼は相手から顔を背ける。そんなことしても、相手の視界から逃れられる訳はないのに、そうせずにはいられない。引き戻されるのが精々だ、と彼も思ってはいる。

 だが相手はそんなことはしなかった。視線を自分に無理矢理引き戻させることは。引き戻す代わりに、逸らされたこちら側の首筋を強く吸った。

 呪文のように、何処か判らない国の言葉が、耳に飛び込んだ。すっと全身の力が抜ける。何の呪文だろう? 曖昧に彼は考える。そうだそれは呪文なんだ。肩から力が抜ける。

 再び力無く投げ出された彼の腕の間に長い腕を差し入れると、相手は彼の背中を抱きしめ、引きつけた。

熱いな、と彼はぼんやりと思う。頭の芯が、目眩を起こした時のように、眠りに近い心地よさを感じている。

 力が抜けているから、既に何処にも痛みは無かった。

 揺さぶられ、相手との距離をどんどん無くしていくに連れ、かきまわされる自分自身が鈍い感触の中で自分自身でなくなっていくような気がする。今までそんなことは感じたことがなかった。

 このまま眠りにつけるのだったら、どれだけ幸せだろう?

…とりあえずの区切りがついたのがいつだったのか、彼には判らなかった。

 ただ、ぼんやりとした意識の中で、自分の上に居る相手がやや不安げに自分を見ながら額に乱れ落ちている髪をかき上げているのを見た時、ああそうか、と納得がいっただけだった。

 うっすらと目を開くと、彼は相手の手を除けながら、ぼんやりと笑いかけた。何だかひどく相手の体温が心地よかったことを、理性以外の部分が恋しがっていた。

 そして理性はとうの昔に死んでいた。彼は手を伸ばす。相手の首に腕を回した。じんわりと伝わってくる胸の温みが心地よい。

 そして彼は、当初の目的を口にした。


「ねえ先輩、俺はまだ最初の質問に答えてもらっていないよ」

「そうだな」


 相手はだがそれ以上には、なかなか口は開かなかった。彼もまた、急かさなかった。

 

 結局彼が、相手の名を知ったのは、翌日になってからだった。相手の方も、彼の名を知っていた訳ではないのだが。

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