第8話 相手から記憶のつづき

 そしてその翌日、他の用事を手際よく済ませると、彼は娯楽室へと出向いた。下級生は彼の姿を認めると、明らかに緊張した面もちになった。露骨すぎるその様子に、笑みが漏れてしまう自分に気付く。

 ご期待に応えて何かしてもいいかな、とも考えたが、あえてそれは止した。無論それは親切心からではない。明らかに何かするんじゃないか、とどぎまぎしている相手をからかうのが楽しかったからである。

 実際、ちらと時々伺い見る下級生の肩は、時々奇妙にぴくん、と上がったりして平静を保っていないことが丸わかりである。そしてそれが自分の歌っている声によることも。

 そんなことが五日も続いて、さすがにそろそろ何か進展があってもいいんじゃないかな、と彼は思った。

 ピアノと自分の間に挟まれた下級生は、椅子に座ったまま、彼を見上げる形で、それでも視線は外して、絞り出すような、かすれた低音で、必死で問いかけてきた。


「あなたは僕をからかって楽しいんですか?」


 おやおや気付いていたか、と予想された言葉に彼は平然とした顔のまま、答える。


「当然だよ、楽しい」

「どうして…」

「さあどうしてだろうね」


 すると、さすがにその答えには怒ったのだろうか、下級生はその形の良い眉をひそめて、急に立ち上がった。そして急すぎて、下級生はバランスを崩した。

 ぐらり、と傾いた身体は、慌てて無意識に近くの頼れるものに手をつく。ぱぁん、とピアノが悲鳴のような不揃いの音を立てた。

 少なくとも、彼にはそういう順番に見えた。

 いずれにせよ、次にするべき行動は決まっていた。倒れようとする意中の相手なら、支えなくてはいけない。彼はその大きな手を下級生の背に回した。

 下級生は反射的に顔を上げた。目線が合う。

 だが、予想外のことはどんな時にも起こりうるものだ。彼は自分の心臓が、一瞬飛び跳ねるのを感じた。だが言葉は平静だった。


「やっとこっちを見た」


 彼はその時、どうしてもこの下級生にそうさせたかった自分に気付いた。ああそうか。

 掴まえるつもりが、掴まえられた。

 何となく、自分自身を笑ってやりたい気分にかられた。だが彼は別に自分自身を責める趣味は何処にもなかったので、そうと気付いたからには、次の行動は決まっていた。

 回した手に、力を込める。相手の瞳は抵抗の色が見えるのに、身体は全く力が入っていない。矛盾しているな、と彼は思う。そしてそのなけなしの抵抗が、下級生にこんな言葉を言わせたらしい。


「放して下さい」


 絞り出すような声。まるで言い訳のように。無論それに従う理由は彼にはさらさらなかった。

 力の抜けた相手を抱きしめると、ひどくその感触が心地よいことに気付いた。

 だから、それを全部手に入れたい、とその時本気で思った。

 その翌日には、さすがに抱きしめる彼の手に下級生が躊躇することはなかった。ところが、その長い髪を止めているリボンを解こうとした時、下級生は抵抗の色を示した。ここまで来て今更、と彼は下級生を見据えた。下級生は彼の視線から、かろうじて目を細めることで、そこから少しでも逃げようとしていた。

 合わせている胸から、露骨な程に動悸が伝わってくる。なのに、この下級生はいけない、などとつぶやいているのだ。


「何で?」


 彼は訊ねた。


「何でって… ここは…」


 下級生は語尾を濁す。彼はその言葉の裏にあるものに気付いた。


「なるほど、ここは娯楽室だな。そろそろ皆帰ってきてもおかしくはないね」

「だから…」

「じゃあ、ここでなければいいの?」


 下級生ははっとして彼を見た。だが次に何を言っていいのか判らないようで、困った顔のまま、黙り込んでいる。

 そう、と言ってしまえば、ここ以外のところならいい、というのを露骨に答えてしまうことにになるし、違う、と言ったなら、今度は自分がそれに対して更にその理由を問いかけるであろうことを、この下級生も気付いているのだ。

 しかも、だからと言って、完全に自分を拒絶することもできない。彼は知っていた。この下級生は、内心、ここでなければいい、と思っているのだ。だがおそらくは、そのプライドのせいで、それを口にはできない。


 本当に、可愛い。


 そう思ってしまうと、それは露骨に彼の表情に出た。おそらく顔が実に意地悪く笑っているのであろうことは容易に想像がつく。


 ではどうしようか。


 彼は下級生の右の耳元で囁く。


「じゃあここでの練習は今日で終わりだ」


 下級生の肩が、ぴくん、と跳ねた。


「もう十分歌は覚えたからね」


 瞳が驚いたように大きく開いた。彼はその瞬間を逃さなかった。視線が絡む。相手の瞳には、驚きと、嫌われたんじゃないか、という脅えのようなものが混ざっていた。

 思った通りだ。彼は相手が自分の手の中に落ちたことを確信していた。それではご期待に応えて。


「…三号舎の六番」


 それは彼の宿舎の部屋の番号だった。無論下級生にもその意味は判るはずだった。問い返そうとする気配はあった。躊躇する瞳。微かに退こうとする背中。彼は片方の手を背から外して、相手の目を覆った。

 そして訊ねる前に。



「やあ、どうしたの」


 さすがにそう自分が言うだろう、程度のことは相手も予想していたのだろう。その翌日の夜、自分の部屋の扉を叩いた下級生は、ひどく真剣な顔をしていた。


「…聞き忘れたことがあって」

「聞き忘れたこと?」


 そんなことあっただろうか、と彼は思う。そもそもそんなこと考える程の余裕を自分は相手に与えただろうか、と。


「入れてくれますよね」


 彼は扉を大きく開けた。まだ、他の上級生の個室には入ったことがないのか、下級生はきょろきょろと辺りを見渡している。よくまあ他の連中の目をすりぬけたものだ、と彼はやや感心する。

 だがとりあえずそんなことを詮索している場合ではない。


「…で、君は何を俺に聞きたいの?」


 実際、それは彼にも想像がつかなかったのだ。確かに聞きたいことはあるだろう、とは思ったが、限定するのは難しかった。


「…あなたの名前を」

「名前?」

「僕はまだ聞いていない」


 ああそうか、と思った。そう言えば、自分もまた、この下級生の名前一つ知らなかったのだ。不思議なことに、それが全く気にならなかった。

 郷里に居た頃には、引っかけた相手、男女問わず、必ず最初に会った時の帰りには名前と住処を聞いていた自分だというのに。そうするのが礼儀のように思っていたし、そのくらいのことはしておかないと、相手のことは掴まえておけない、という気がしていた。

 なのにこの下級生には。

 奇妙なくらい、この相手は、自分の手の中に落ちる、と感じていた。確信だった。何がそう思わせたのかはさっぱり判らない。

 いや違う。そこまで考えて彼は思う。どうやら自分は本当に、手に入れたいと思ったらしい。だからこそ、それは確信にまで変わった。確信が起こす行動ほど自信に満ちたものはない。

 彼は相手の背に手を伸ばした。予想通り相手は避けなかった。当然だった。相手はそのために来たのだから。手探りで相手の髪のリボンを解く。外気に当たってきたせいで、やや冷たい、長い髪が彼の大きな手に広がった。彼は指を絡めると、大きくそれを梳いた。相手は彼の指がそのまま首筋にまで流れてきた時、全身から力を抜いた。



 まださほど焼けていない肌が、月あかりに白く浮かんでいる。

 そんな自然の光から逃げるように、下級生は窓の方を決して向かなかった。だが夜目にも判る。半ば閉じた瞳。半ば開いた薄い唇。それが時々何か言いたげに微かに震える。

 何だろう、と彼は思う。相手の身体に幾つもの跡を残しながら、それに夢中になっている自分と同時に、奇妙に冷静な自分が頭をもたげていた。

 腕を伸ばし、長い相手の髪を手にからげ、おそらくはてきめんに弱いらしい相手の右の耳元で囁く。相手の全身の力は抜けていく。条件反射のように、それは確実に。

 だが冷静な部分は、その時の彼を止めることができる程のものではなかった。相手の見せる一つ一つの挙動が、彼の背筋に刺激となって響いた。

 その時も、大きな抵抗はなかった。力は抜けていた。ゆるやかに滑り込んだ場所は、彼自身より、熱かった。拒んでおきながら、だけど止められない、相手の態度がそのまま現れていた。

 相手は軽く息を荒げながら、それまでだらりと広げていた腕を上げると、自分に表情を見られないとするかのように目と口を覆っていた。

 だが痛みなり快感なり、何らかを感じていることは判る。口を覆っている手の甲を相手は噛んでいた。彼は手を伸ばし、それを両方外させた。

 相手は反射的に彼から顔を背けた。だが接近した状況で、それは全く意味をなさない。うるんでいるどころか、開いた瞳からは、涙がにじんでいる。手の甲を噛んだ時に何か間違えたのだろうか、唇に血がにじんでいる。

 無理矢理顔を掴んでこちらを向けさせるのは簡単だった。だが彼はそうはしなかった。どうやらこの相手は、ひどく矛盾を抱え込んでいるのだ、と彼は気付きかけていた。

 それが自分より若いからなのか、それともそういう資質なのか、そのあたりは彼にもさすがに想像ができなかった。

 ただ判っていることは、一つあった。身体は正直だ。

 だから彼は、相手の理性を飛ばしてやろう、と考えた。彼は気付いていた。この自分の下に居る相手は、そうされたがっているのだ、と。

 自分の矛盾する感情を、相手に無理矢理扱われることで、正当化しようとしている。身体は正直だ。いくら顔を背けても、彼自身を飲み込んでいる場所は、決して彼を拒んではいない。

 だから彼は相手の右の耳に、昔むかし、子供の頃に聞いた何処かの地の言葉を囁いた。それは何ていうことのない言葉だった。意味を言ってしまえば、挨拶程度のものだった。だが異国の言葉というものは、知らない者にとっては呪文に等しかった。

 そして彼は肩から力の抜けた相手の背に腕を差し入れると、強く引きつけ、抱きしめた。

 抱きしめて、大きく揺さぶった。相手の理性とともに、距離は無くなっていった。彼は相手の中を大きくかき回した。

 瞳を閉じた相手の表情が、次第にひどく安らいだものになっていった様に見えたのは目の錯覚だろうか?


 はあ、と一息ついて首をがくんと後ろに倒した相手の姿を見ながら、彼自身も一息ついていた。力無く粗い布の上に無造作に崩れ落ちた相手の髪が、しどけなく乱れて汗ばんだ額の上に掛かっている。彼はそれに手を伸ばした。

 良い夢を見て眠っているのではないかと思われる程、そこには安らかな表情があった。それを見て彼はひどく胸が痛んだ。何故かは判らない。だがそんな穏やかな表情を見れば見る程、彼は哀しくなってしまった。

 やがて意識の焦点が合ってきたのだろう、相手はうっすらと目を開くと、ぼんやりと彼を見上げた。そして彼の手を軽く除けるように払うと、笑いかけてきた。相手は手を伸ばしてきた。何を考えているんだろう。彼は考える。伸ばした腕は彼の首に回る。力を込めて巻き付く。そのまま彼もまた倒れ込む。肩口に当たる、相手の鎖骨の堅さが奇妙に気にかかった。

 耳元で、相手の低い声が問いかけた。


「ねえ先輩、俺はまだ最初の質問に答えてもらっていないよ」


 最初の質問? 何だったかな、と彼はふと記憶をたどる。ああそう言えばこいつは名を聞きに来たんだよな。

 すっかりと彼はそんなことを忘れていた。


「そうだな」


 そうあいづちは打ったが、彼はそれ以上をなかなか口にはしなかった。相手もまた、急かさなかった。

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