第3話 関係のはじまり、そして新たな司令Mの着任
ふっと自分の周りの気温が下がるのをGは感じていた。それほど接近していたことに、彼はようやく気がついた。
はあ、と大きく息をついた。ずる、と背中が壁にへばりついたまま落ちていくのを感じながら、緊張が解けていくのを感じた。
その元凶は、あはは、と笑いながら上着のポケットに手を突っ込んでその部屋から出ていった。
Gは全身で安堵した。
額から背中から汗が一気に吹き出すのを感じていた。
何が起こったのか、頭は一気に整理しようと努力を始めていた。
―――それだけで済んでほしい、と彼は思った。
だがそれだけでは済まなかった。
翌日も上級生はやってきた。ただその時は、ただ右の横で面白そうに彼の様子を見ていただけだった。
そしてその「ただ見ているだけ」が奇妙に彼に不安を起こさせた。
視線が、絡み付くような気がした。
別にどうということもないのに、腕が背中が妙に服の布地にすら敏感に反応していた。
さらにその翌日は、真面目に歌の練習をした。
その翌日もそうだった。最初の日のように、あからさまに接近するようなことはなかった。
だが明らかにそこには作為があった。無論それにはGも気付いていた。
だからと言って、その時の彼がどうやって逆らえただろう?
必ずと言っていい程彼の右側から接近した上級生は、自分の声が彼に対して持つ力に気付きだしていた。
Gもさすがに、そんに日々が五日も続くうちには訊ねていた。ピアノと上級生の身体の間にはさまれるような形で。
人と人との至近距離に慣れていない訳ではない。母星に居た頃にはそれなりにそういうこともあった。
そういった関わりはたまらなく好きという訳でもないが、嫌いでもない。
なのに、全く違う。
動けない自分自身に戸惑った。
鼓動が激しく、うずくように、治まらない自分を持て余した。
絞り出すような声で、彼はようやく、ほんの数センチ程度の距離に居る上級生から目をそらしながらつぶやいた。
声がかすれていた。
「……あなたは…… 僕をからかって、楽しいんですか?」
すると上級生は、平然とした顔で言った。
「当然だよ。楽しい」
「どうして…」
「さあどうしてだろうね?」
それまで座っていた彼は、何となく怒りに似た感情を覚えて、立ち上がった。
だがそこでそうすべきではなかった。後の祭りだ。
ピアノの鍵盤が、彼の手のひらの下で、悲鳴のような不揃いの音を立てた。
その音に彼はふとバランスを崩した。そこを上級生の大きな手が後ろから支えた。Gは反射的に顔を上げ、自分の目の前の相手を見た。視線が不本意にも、まともに合ってしまった。
「やっとこっちを見た」
「…」
背中に回された大きな手に力が込められるの。強く引き寄せられる。熱い手のひらだった。
おかしな位に力が出ない。
大して自分と変わらないくらい、下手すると身長なんかは自分の方が大きいかもしれないのに、はね除けようという感情が何処かへ飛んでいってしまったのだろうか。
「放して下さい」
絞り出すような声は、言い訳に似ていた。
上級生は、簡潔な答えを返す。
「嫌だ」
引き寄せられ、体温が伝わってきた。
ひどく熱かった。だがそれがどうしようもなく、心地よいのに気付くのには時間はかからなかった。
七日目の夜には髪のリボンが、上級生の手で解かれていた。
*
それからずっと、こんな関係は続いている。
悪くはない。
Gはそうずっと思っている。
強烈に、胸を焼くような思いはないが、明らかにその声はどんな刺激よりも自分を酔わせるものだった。
奇妙なことに、右の耳から入った時だけにそれが反応するものだから、普段は右側に立たないでくれ、と彼は言っているのだが―――
それ自体、アンジェラスの人間が必ず持つ、何らかの特殊能力の一つなのだろう、と想像することはできる。
だが自分以外の人間に、この年上の友人がそれを使ったという話は聞いたことがない。一見軽げにも見えて、それでいてこの友人は、妙なところで頑固なのだ。無論そんなことはつき合いの浅い相手には決して見せないのだが。
つまりは自分は、この年上の友人から充分以上に好かれているのだろう。そう彼は長いつきあいの間に納得していた。
この先輩は、優秀な軍人――― 多少の軍規違反をする時はあったが――― でもあったから、後輩の自分に教えられることは全て教えてくれた。おかげで彼もまた、この友人と同じ地位にまで昇っている。
ではこれが果たして恋愛かどうか、と問われると、言葉を濁したくなる。
確かに他の人間よりはずっと好きだし関係は持っているしその関係が気持ちがいいのは事実だ。
だが熱い感情があるのか、と言われると、彼はそう断言できない自分に気付くのだ。
悪くはない。平和な時代など知らないのだから、こんな関係もこれなりに。そういうものだろう。
そう彼はぼんやりと考えてしまうのだ。人間のつき合いなんてそんなものだろう、と自己弁護まじりに。
「そう言えば、あのレプリカの首領ってさあ」
耳に飛び込む声に、彼はうつ伏せたまま、軽く友人の方へ顔を向けた。元々明るくもない部屋だが、さらに逆光で、相手の表情が見えない。
「何?」
「あれは一体、何処から送った映像なんだろうな? 転送されてきたとは言っていたけど」
「マレエフ上の何処かからかも知れない?」
「まあな。それも考えられる。そしてそれを隠すためにわざわざ転送したということも」
鷹の言葉に、彼は目を伏せた。
モニターの中のレプリカの首領。大きくくっきりとした二重の目に浮かぶ、強烈な、そして残酷さまでもはらんだような視線を思い出す。
あれをレプリカと考えることの方が彼には難しかった。
強烈な視線。強烈な声。
「何でいきなり、奴ら、あんなこと言い出したんだろうな」
Gはつぶやく。
「必要があるからじゃないのか?」
「何の? それに今更?」
「奴らの思考回路は、判らないよ。俺達には、偉大なる第一世代のようなテレパシイはないからな」
そうだね、と彼はうなづいた。
確かに彼らには、同じアンジェラス星域の人間でありながら、その土地に最初に到達し、適応した第一世代のような特別はっきりした力はなかった。
鷹が彼に対して「声」を駆使していたとしても、それはあくまでひどく個人的な事柄に過ぎない。
不老だ不死だということは共通であるのせよ、世代を追うごとにそういった特殊な能力は薄らいでいる。
だから、結局そんな推測は、事実を元に経験を生かして考えるしかないのだが… 確かに判らないのだ。
今この時点でそんなことを起こして、何のメリットが彼らにあるというのか。
そもそも「独立」と言ったところで、何をしたいのか。
「何、気になる?」
「まあね」
「珍しいな。君がそういうこと言うのは」
「え? そう?」
そうだよ、と鷹はうなづいた。
「そうかなあ?」
言われてみて、そうかもしれない、とGはぼんやりと思う。
「少なくとも俺は、君が何かに特別に興味を持つところを見たことがないけど」
「何、俺、あんたには興味持ってるじゃない」
「…ああそうだな」
どうしたの、と彼は問いかけた。相手の声がこころもち何かを含んでいるような気がしたのだ。
だがその問いかけには、答えはなかった。
逆光で表情も見えない。答えの代わりに、手が伸ばされた。
まだ足りないのか、とぼんやりと考えつつも、彼は伸ばされた手が自分に絡むのを感じていた。
悪くはないのだ。嫌いじゃない。
その声が耳から入り込み、自分の思考すら飛ばしてしまうのも、感覚を何倍にも尖らせるのも、熱い手が自分を抱きしめるのも、揺さぶられるのも、果てには自分の身体がここにあるのかすら判らなくなってしまうような感覚も、時には意識を手放してしまうような瞬間も。
その全てが、彼は嫌いではないのだ。
嫌いでは…
*
新しい司令が来たのはそれからまもなくだった。
それまでの司令は、特にそれまでの部下に告げることもなく母星へと帰って行った。Gはその知らせを聞いてはいたが、特にこれと言って感じるところのものはなかった。
「M、という名らしい」
年上の友人は食事時に、耳聡いところを彼に見せた。
「M? まるで女性の名だな」
「君はそう思うか?」
「だってそうだろう? 常識で考えれば」
「むしろ俺は、それは昔の何処かの神の名を思い出したね」
へえ、とGは友人の言葉にうなづく。そしてどんな神だったのか、と彼は訊ねた。
「そうだな… よくある一神教のそれじゃなあなくてさ」
「と言うと?」
「自然神と言うか。わりあい原始的な宗教の一種らしいよ。そばにあるもの全てに宿る神って奴かな?ちょっと俺も忘れたけど」
「原始的?」
「まあね。だからこそ、それを信じる心は純粋ってことかな」
「それにちなんでいる名だと?」
「俺はそう思っただけ。別にそうとは限らないだろ?」
それはそうだ、とGは思う。ただ、そんな名を… 持っていた、ならまだいいが、自分でつけたのだったら。
何となく彼はぼんやりとした不安を感じていた。
程なくして新しい司令は、マレエフに到着した。
前司令を見送らなかったと同じく、新司令を大勢で迎えることもなかった。ただ簡単な紹介と、赴任の理由を説明する場が設けられただけだった。
そしてそこで、彼は自分達の新しい司令をその時初めて見た。
一目見た瞬間、彼は息を呑んだ。聞いていたその名が、その姿には、ぴったりと当てはまった。
軍の共通の帽子の下からは、蒼とみまごう程のつややかな長い黒髪がざらりと流れている。
その下には、美しい仮面が。閉じることを忘れたように開かれたくっきりとした目、鮮やかな唇。
…いやもちろんそれは、仮面ではない。生身の顔だった。だがそれを信じるのが難しいくらい、その表情は、動くことを知らない様に、そこに居る誰もに思われたのだ。
Gは無礼であることも忘れて、しばらく新司令の姿に見入っていた。
それに気付いたのかどうなのか、一瞬新司令が自分の方を向いたような気がした。ちらりと、その凍り付いたような視線が、自分に向けられたような気がしたのだ。
だがそれはほんの一瞬のこと――― だったに違いない。
席につくと、新司令のMは、無言のまま手にしていた鞭を軽く上げ、副司令に説明をうながした。
副司令は慌てて用意していた説明用の画像をセットさせた。
ぶ、と軽い音がして、映像が正面のスクリーンに開いた。
新しい司令の着任の理由と、それに伴う作戦について軽く説明を始まる。
Gはやや緊張した。変化の無かったこの地に、変化が起こるのだ。彼はちら、と司令に視線を移した。―――その途端、彼は眉を軽くひそめた。
説明の主人公であるはずの司令は、その様子を表情を映し出さない目で、さほどの興味も湧かない、とでも言うように投げやりに眺めている。
副司令はそんな視線に気づいたのか気づかないのか、続ける。
「…すなわち、『独立』などというたわごとを掲げる暴徒を一掃することが、我々に課せられた中央からの… 引いては母星からの命令である」
Gはそれを聞きながら、あまり自分がいい気分がしないことに気づいていた。
だが友人の心配も判るので、あからさまには顔には出さない。ただ、その話の間中、少しばかり視線をひざに落としていただけである。
たわごとと言うには、あのモニターに映し出されたレプリカの首領の瞳は、意志に溢れすぎていた。
考えに考え抜いた者の持つ意志の力を、彼は感じたのだ。
もっとも、Gは、これまで特にレプリカに何らかの感情を持ったことはない。
アンジェラス星域の母星においては、そもそもメカニクル自体、大した数はいないのである。
自分のことは自分で、という風潮を持つ自然満載の母星の環境の中では、人間の補助的存在であるメカニクルは不要な存在だった。
だから彼にとってレプリカントは「縁が無い」というのが正直なところだった。
縁がないものに、大して感情を持ちようがない。レプリカが人間と恋愛沙汰を起こした、と聞いたところで、ああそうですかと言うしかないのである。そういうこともあるのか、それなら仕方ないな、と。
だが彼はあのモニターを見た日からずっと思っていた。
恋愛沙汰が起こせるのなら、反乱だって起こせるのかもしれない、と。
無論彼も、鷹の言ったように、「命令」のことは気にはなった。
レプリカントだけでなく、全てのメカニクルに共通した、「人間への服従」を規定した一文である。それは全てのメカニクルにとって、反抗すれば自己崩壊を招くものであることはよく知られたことだった。
だが何からの形でそれを解除することができたなら。
人間の開発したものである。完璧ということはないはずなのだ。
前の話が切れたので、Gははっとして顔を上げた。
副司令はまだそれでも前に居る。ちら、と彼は司令の方へと視線をやった。
そしてその瞬間、彼はさっと血が引く感覚を覚えた。司令の視線は自分に向けられていたのだ。
程無くして、解散の号令がかかった。官舎の、自分の部隊の集合場所へと向かおうとした時、彼は下士官に呼び止められた。
「司令がお呼びです、少佐」
彼の背中にまた、軽い悪寒が走った。
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