俯瞰視点ㅤ血だらけの狼


◆◇


ㅤこれは夢であり現実である。しかし私はあくまで俯瞰しているだけで、それに干渉する事もなく、また記憶しておく事もできない。

ㅤ恐らくかみさまが教えてくれなかった能力の一つなんだろう。これだけは、実際にこうして俯瞰した瞬間にどういったものであるかの詳細が頭に入ってきたのだった。

ㅤ私は深い森の中、灰色の狼に担がれ移動する血だらけの女性の姿を文字通りして見ていた。


「まったく、想定外だったよ。本来ならばもっとこう、ボクが思い描いた通りに、物事が運ぶはずだったのにサ」


ㅤ少女、フィルターは、傷から溢れ出る血が地面に線を引く様を見て、微笑んだ。自分の背が赤く染まっていこうとも、狼は意に介する事もない。淡々と脚を動かし、木々の隙間を縫うようにして駆けていくのみ。

ㅤ時刻はまだ昼頃なのだけれど、鬱蒼と生茂る葉が幾重にも重なって陽の光を通さず、森の中は時刻を感じさせないほどに暗い。

ㅤまるで人を寄せ付けない暗闇がそこに広がっているかのような光景であった。


「しかし目的は達したからいいか。これがもっとやるべき事から外れたものだったなら、ボクだってだって、憤慨モノだったろうサ。世界は理不尽に満ちてると理解しているとはいえ、いざ自分がその被害にあったとなったら、いやあ、気持ちのいいものではないな!」


ㅤフィルターは誰に向かって言うでもなく、次第に血液が失われていく事によって顔を青白くさせながら、ぼやき続ける。

ㅤやがて木々が開けた場所で狼が立ち止まると、その背からおもむろに立ち上がり、ふらふらとした足取りで広場の中央に立ち、血で濡れて開かない片目を閉じたまま、うわ言のようになにやら呟く。


「我等は歴史に根差す同胞、英雄の名の下に、世界の扉を叩くもの」


ㅤ彼女の独り言に対して、どこからかくぐもった返事が聞こえる。


「その名を述べよ」

「フランヴェル」


ㅤ彼女の言葉に呼応するように、地面を光が走り、彼女の周囲を円を描くように取り囲んだ。


「通れ」


ㅤ次の瞬間、彼女の姿はどこかへと消え失せる。取り残された狼も泥に戻り、地面に散らばって動かなくなった。



◇◆


ㅤ視点が変わり、今度はどことも知れぬ深青のプレートが立ち並んだような長い通路の中。床に等間隔で埋め込まれた青白い間接照明が照らすそこに姿を現したフィルターは、重い手足を引きずるようにして歩いていた。まだ血は止まらない。常人であれば、とっくに失血死してもおかしくない量の血液が彼女の身体から失われている。顔色も良くない。まるで白磁のように白い顔をして、ずるずると手足を引きずる様は動く死体ゾンビのよう。しかし彼女は足を止めることなく、ただただ前へと進んでいく。

ㅤやがて壁に扉が備え付けられている区画にたどり着いたとき、彼女の正面に白いローブを着て、フードを被った何者かが現れた。


「随分派手にやられたじゃないか」


ㅤフードの人物からは、常に人を嘲っているかのような、これでもかというくらいにたっぷりの悪意が込められているかのような、まるで自分以外のすべてを見下しているかのような意地の悪い青年の声がした。

ㅤフィルターは顔を上げることなく、独り言のようにつぶやく。


「ボクの状態など些細な事サ。上手くはいったんだからね」

「でも体を修復する必要があるんじゃあ、スマートとは言えないな。そんなに手こずる相手だったっけ?」

「その発言は、お母さんマザーの研究を貶しているように取られると思うけれども?」


ㅤ青年は大袈裟な仕草で両手を広げて見せる。フードの下に覗く白い髪が、わずかに揺れた。


「それもそうか。失言だったな。しかしそうか、それほどまでに傷つけられたということは、出来は良かったってことか。処分したんだろう?当然」


ㅤ青年の態度に、フィルターは眉一つ動かす事もない。一度は止めた足も、再度歩み始める。


「当たり前だろう?なんのためのボク達だと思っているんだい」


ㅤそれからフィルターは青年を相手にすることはしなかった。次第に遠ざかっていく彼女の姿を青年は黙って見つめたのち、楽しそうに肩を揺らし、それから愉快そうにスキップして通路の奥へ消えていった。

ㅤ間接照明があるとはいえ、まだ薄暗い通路の中に、血だらけでボロボロの姿をしたフィルターが一人。彼女は息を整えるため壁に背を預け、深呼吸する。傷が痛むのか、時折苦痛に顔を歪め、しかし笑顔を浮かべて体を震わせた。


「やあ、それにしても……通路がやけに長く感じるね。いつもはもっと足取り軽く報告に向かっていたからサ……お気に入りの服もズタズタにされちゃったし、また仕立てないといけないな」


ㅤフィルターの笑顔は、どこか安堵しているようで、重い肩の荷が降りたかのように見える。

ㅤ彼女は荒い息を吐き、何かを言おうとして、止めた。その直後、また通路の先から誰かがやってきた。

ㅤカツン、カツンという、ヒールのカカトが床に打ち付けられる音。俯いていたフィルターがそれに気付いて顔を上げると、通路の暗がりからぼんやりと浮かび上がるように、花束のような華々しいドレスを着た、無機質な通路には決して似合わない格好の長身の女性が現れた。背もそうだけれど、胸も大きい。

ㅤ髪は黄金のような長い金髪で、揺れる毛先は七色に輝いて見える。目は深海のように深く奥行きのある青色で、眼帯をしていた。彼女はゆったりとした笑みを浮かべ、肩で息をするフィルターの頬に優しく手を添える。


「どうしたの、フランヴェル。こんなに傷ついて……まるで刃物で切り裂かれたかのよう。貴女、剣の腕前は確かなものだけれど、近接戦闘は肌に合わないから辞めるのではなかったかしら?」

「そりゃあ、時と場合によっては近接戦闘だってするサ」

「そうね、些細な事だったわ」


ㅤそうして女性は血だらけのフィルターを優しく抱きしめる。女性に比べてフィルターは随分と小柄であるので、彼女の顔は女性の豊満な胸に埋まってしまった。女性はフィルターの血で服が汚れることも厭わない。


「あっ……」

「大丈夫よ、貴女があの子に傷つけられたことだって、あの子が母を裏切るような自我を持ってしまった事だって、すべて些細な事。そうでしょう?なにせこの世界の事象そのものが、私達にとっては些細な事なのだから」


ㅤ女性はあらゆるものすべてを慈しむかのような眼差しで一点を見つめ、フィルターの頭を撫で続ける。何度も何度も、繰り返し、繰り返し。彼女の胸に埋もれているからか、ただただ脱力しきっているからかは分からないけれど、フィルターは何も言わず、ただされるがまま、目を瞑っている。

ㅤやがて頭に女性が口づけすると、見るも無惨だったフィルターの傷は、たちまち綺麗に塞がっていく。

ㅤそれが魔術なのかは分からない。ただ一つ分かることは、女性が頭を撫でて口づけするという方法ひとつで、大怪我が一瞬で癒えるだけの何かの効力が働いただけ。

ㅤ女性はそれだけのことをやってのけたというのに、至極当たり前のような顔をして、眠りに落ちたフィルターの頭を撫で続ける。

ㅤまるで、我が子を愛おしむ母のように。

ㅤここがどこなのかはわからない。しかし、俯瞰している私は、言いようのないものを感じていた。

ㅤ恐怖とは違う、しかし恐ろしい。

ㅤ好意とは違う、しかし好いものだと思う。

ㅤ疑問とは違う、しかし疑わしい。

ㅤ私がここまで俯瞰で見た光景の中で、何か違和感を感じる事はなかったか。何かこれからの旅で活用できる情報はなかったか。どれだけ考え、記憶しようが、それが夢から覚めた私に引き継がれる事はない。頭では分かっている。けれど。

ㅤフィルターではない。この女性から目が離せない。

ㅤ彼女がただの女性ではないと、危機感めいた何かが、私の頭の中でひたすらに警鐘を鳴らし続ける——


「私も貴女を、見てるわよ?」


ㅤ女性がこちらを見ている。

ㅤ誰を見ている?


「何も俯瞰できるのは、貴女だけではないわ。でも大丈夫。見えているからといって、私が貴女に何かすることはない。貴女が私を見て、私が貴女を見る事は、些細な事。そして私にとっては、人が生きるために呼吸をするのと同じくらい当たり前のことでもある」


ㅤ女性は、私を見ている。


「今の貴女は無自覚でここを見ているだけだろうから、そうね……少し時間軸もずれているかしら?覚えていられないでしょうけれど、ほんのわずかでもいいの、私が貴女を見ている感覚を、忘れないで。そして……」


ㅤ女性はもうこちらを見ていない。彼女の胸の中で寝息を立てるフィルターの頭を再度撫で始める。


を、よろしくね」


ㅤ彼女にそう告げられた瞬間、そこで私の俯瞰視点は、テレビの電源が切られたかのように唐突に終わりを告げたのだった。




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