第6話 キミを救う
◆◇
私がかみさまに与えられた
自分が持ち上げられるものなら、触れる事で
だから、例えば両足が動かせないとしても。
私の腕さえ無事なら、能力は使えるんだ。
「…………いやだ」
戦争と言われたって、一体どこの誰が始めて、一体誰と戦ったのか、一体どこが戦場になったのか。そして、どれだけの被害が出たのか。突如現れたという英雄が誰なのかまで、私は何も知らない。そもそもこの世界に来たばかりで、何一つ知らないんだ。詳しいほうがおかしい。
だから、例えクロが英雄から産み出された命だったとしても。フィルター達と共に帰るべき場所が、彼女の居場所だったとしても。
今目の前で傷つけられている彼女を救わないというのは、間違っている。
「……いやだ」
何故だかわからないけれど、今の私はやけに落ち着いていて、先程まで絶望で上塗りされていた濁った思考が、清水で洗い流されたように隅々まで冴え渡る。
自分の両腕は自由だ。
(君の気持ちを大事にね。君の覚悟と決意を乗せれば、どんな逆境でも、それが君の力になる)
かみさまの言葉を思い出した。つい最近の事だ。この世界に送ってもらう際、最後に言ってもらった言葉。
今思えば、かみさまのこの言葉はヒントに他ならない。初めは
私の気持ちを大事に、私の覚悟と決意を乗せれば、どんな逆境でも、それが私の力になる。ちょうど今こそ逆境に違いない。文面そのままに理解するなら、覚悟と決意とやらを、一体何に乗せる?
「………………」
私は自分の手のひらを見た。狼の背に触れたからか、少し汚れている。もしも、もしもこの手のひらに、覚悟と決意を乗せられたとしたら。
クロが歯を食いしばり、吐き捨てるように言葉を投げる。
「……一緒に帰る?誰が?……あたしが、あんたと?………………ハッ。帰るなんて生易しい言葉、その薄っぺらい身体に踊らせてないで、もっと具体的に言いなさいよ。あたしを使い潰すために、実験場に持ち帰る、が正しいでしょ?」
「正しい事を正しく言ったって、愉快じゃないサ。もっと、ユーモアを含めて話さないと。あと……身体的特徴をあげつらうのは、人に嫌われるからよくないと思うよ」
クロの背後から灰色の狼が一頭襲いかかり、片腕に噛み付く。
「…………がっ」
「ボクだって本当はこんなことしたくないんだ。でも道具は物を言わない道具のまま持ち帰るべきで、持ち主に反抗しようとするなら、それは道具じゃない。だから、従順にさせなくちゃいけない」
「…………あんたはいっつも、回りくどいわね……」
ㅤクロが道具。違う。現に今、彼女は言葉を発し、狼に噛み付かれ苦しんでいる。痛がっている。そして、怒っている。
ㅤその光景を見てモヤモヤとした気持ちがこみ上げた私の頭の中で、またもピントが合うような音が響いた。
ㅤ必要:【鉄類】【木材】【蔦類】
ㅤ剣の作り方だ。それはもうわかっている。
ㅤ鉄類はテツノジカの角。
ㅤ木材は小屋で拾ったガデン樹の木。
ㅤ蔦類は森でいくらでも拾えるガデン樹の蔦。
ㅤそして。
「………………そうか」
ここに、私の覚悟と決意を乗せる————
「クロを……フィルター、あなたには連れ帰らせない!」
ㅤ絶望に震えっぱなしで、口を利く事など出来ないものだと思っていたんだろう。私が急に大声を発したので、フィルターがわずかに驚いた顔をしてこちらに振り向いた。
「なんだい?キミが、嫌だって?アハハ。そうだね、確かにキミにとっては嫌かもしれない。なにせ、ボクに協力を仰いでまで会いたかった彼女が傷つけられて、無理やり連れて行かれるんだからね。でもサ、キミはボクたちの事情は知らないわけだ。これっぽっちも」
「それは、もちろん」
「うん。だったらサ、申し訳ないけれど、キミ一人にはどうにもできないし、どうにもならないのはわかるだろう?キミは彼女に会えただけいいじゃないか。あとはそこで、ボクが彼女をあやして、仲良くお家へ帰るのを、優しく見守ってくれていればいいんだ」
ㅤフィルターは明るく話しかけてくるけれど、何か先ほどまでとは違う、威圧感がある。お前は今は黙ってろ、と言いたげのような。口は笑っているけれど、目は笑っていない。だけど。ここではいそうですかすみませんでした、と、黙ってはいけない。
「確かにあなたは……回りくどい言い方をするね」
フィルターはどこか恥ずかしそうに頭を掻いた。
「癖なんだ。ボクはぺらぺらと言葉を並べるのが好きで、人と話すときは無駄に饒舌になってしまう。でも最後には本題に行き着くから、問題ないサ。これが余計な話題ばかり口にして、重要な話し合いを先へと引き伸ばしてしまうようなら、良くない」
ㅤ腕を広げ嬉々として話すフィルターの背後に、倒れ伏すクロの姿が見える。彼女は苦々しい表情をして、こちらを見ていた。眼帯の紐が切れかけているのか、彼女の荒い呼吸に合わせてゆらゆら揺れている。彼女の瞳と同じ赤色が肩口をぐっしょりと濡らしている様は、ひどく痛々しい。出来るだけ早く、その傷を癒してあげたい。何かそういう、すぐに怪我を治療できる魔法が、私にも使えたらいいのに。
「私はあなたの事も、クロの事も……その人となりをよく知らない。もしかしたら今の状況から把握できないだけで、あなたが彼女を連れ戻すのが正しい、なんてこともあるのかもしれない」
「うんうん」
フィルターの飄々とした態度に、無性にイライラして、語気が強まる。
「でも、私はそうは思わない」
「うん?」
ㅤフィルターの目が細まる。
「いついかなる場合だって、人を傷つけ無理やり連れ戻すなんて事が、正しいはずがない。私はそう思う。だから、あなたに全力で抵抗する」
「ふんふん。それで……どうやって?」
ㅤ狙えるのは一度だけだ。私は運動音痴だし、コントロールなんてものはない。だから、勘でなんとかするしかない。
ㅤ私は左手を前へ、右手を後ろへ。大きく振りかぶる。
ㅤ私が何かしようとしているのに反応して、フィルターが腕を振りあげようとする。指を鳴らさせるな。狼に腕を封じられたら、いよいよ私に出来ることは何もない。だからそうなる前に、右手を全力で振り抜いて、投げる。
「……なんだい?目くらまし?それなら、上等なものを投げないとボクには効かないぞ」
ㅤ私が右手から放ったのは、
ㅤ願いが届いたのか、私が放ったツギハギのナイフは、フィルターの脚目掛け飛んでいく。彼女はふう、とため息をつき、造作もないといった様子で片足でそれを蹴り落とした。
ㅤ私のナイフはパキンと音を立てて砕ける。やはり脆いなあ。でも、今はそれでもいい。私はめげずに腕を振り回し、
「申し訳ないけれど、ボクにはおもちゃで遊んでいる時間はないんだ。見た目は子供のようだけどね!アハハ。それは認める。だけど心は違う!だからそろそろ、おしまいにしよう」
ㅤ最後のナイフ、一本。私の手から放たれたソレは、見事に妙な曲線を描いてフィルターの足元に落ちた。伸ばした私の右の手のひらが、無様に宙で揺れる。
「そうだね。おしまいにしないと」
「色々投げて、スッキリしたかい?」
ㅤ確かに色々なものを投げて、私も、私の
ㅤだから、私は感覚を掴むことができた。いくら運動音痴のノーコンでも、どれくらいの強さで投げればどの辺りに落ちるか、当たりをつければ狙うくらいは出来る。
ㅤ元々の狙いはフィルターじゃない。彼女の背後にいる、クロだ。私は後ろに回していた腕を振り抜いて、フィルターのやや後方に散らばっているナイフの破片を狙った。どうも私は力みすぎている。だからそこならきっと、彼女に届く。
ㅤ私は
ㅤ私の腕の中で、火花が散るような感覚。血が滾って、燃えるように熱い。まるで炎に腕を焚べたよう。しかし痛くはない。これはお前が生み出す特別なものだと、私の身体が、与えられた能力が、告げている——
ㅤ【祈りの剣】耐久度:EX
ㅤクロ専用。元はガデン樹の鉄剣。しかし刀身にはクロがどんな相手にも勝てるよう鼓舞する想いが強く込められており、彼女の傷を癒し、立ち上がらせる。元と比べて遥かに高い強度と切れ味を誇る強力な武器。
ㅤ一瞬、目眩がした。それは
ㅤ祈りは届き、クロの眼前にそれは舞い降りた。
「なに……?」
ㅤフィルターは身動きが取れなかった。私の身体が発光でもしただろうか。眩しそうに目を細めて、身を守っている。だから、クロがそれを受け取る隙は十分にあった。彼女は腕に噛み付いた狼を振りほどき、祈りの剣の柄をがっしりと掴んで、地面に突き刺さったそれを引き抜く。
ㅤすべては、彼女が勝つために。今、この場で勝利を収めるために。剣は使用者の傷を癒やし、立ち上がらせた。
「残念だけど、フィルター。あたしはあんたとは帰らない」
ㅤ剣が、それに込められた私の覚悟と決意が、彼女の身体を癒していく。魔法とはこういうものか。ちょっと楽しい。そして、嬉しい。彼女の肩口から溢れていた血は止まり、身体中に付けられていた数々の傷が塞がっていく。今の彼女は、戦う前の状態。いやそれどころか元気いっぱい、全快と言っても過言じゃない。
正直、驚いた。私が込めた想いは、ここまでの力をもたらすものなのか。なんて便利なんだろう、
ㅤフィルターが無言のまま指を鳴らす。既に動けるようになっていたらしい、命令を聞いた数頭の狼が地を駆け、クロに飛びかかっていった。剣を折られた彼女なら、対処できなかったろう。しかし今は、彼女には武器がある。
「ただの泥に命があるみたいに見せかけるなんて、趣味が悪い!」
一閃。クロが祈りの剣を振り抜き狼を両断すると、たった一度の斬撃がまるで百は斬りつけたかのように狼の身体を削り取り、擦り切れていく。原理はわからない。しかしさすがにそこまで削り取られれば復活などできないのだろう、狼の身体は飛散して地面にこびりついた後、それきり蘇る事はなかった。
フィルターは驚いて、悔しがる。想定外の強さだったのか、クロもちょっと驚いていた。
「なんてことをするんだい!ボクの大事な
「驚いた……この剣、思ったより強いのね。でもこれならフィルターになんて、余裕で勝てる」
自信たっぷりに鼻を鳴らしにかっと笑うクロに対して、フィルターは不満たらたらに地団駄を踏む。彼女からすれば、つい先程まで瀕死だった相手が完全復活したのだから、溜まったものじゃないだろう。でも、余裕がないというわけでもない。しっかり次の指示を出していたらしく、残る狼も無闇矢鱈に飛びかからず、攻撃の予備動作だろうか、木々の間を飛び移るようにして引いていく。
「フィルター、あんたの狼は、どう斬りつけても甦るってわけじゃない。沼みたいに、泥みたいにどろどろで、一見物理攻撃は効かないみたいに見えるけれど……その身体は、隅々まで張り巡らされた魔力で構成されている。だから、ただ斬るだけじゃ倒せない。その魔力自体を、断つ必要がある」
確かにフィルターは、狼は魔力で動いているって言っていた。魔力自体を断つ。その言葉の示すところはよくわからないけれど、きっと物自体を斬るのではなく、例えばそれを動かすエネルギーとか、そういう目に見えないもの自体を斬るって事じゃないかな。先程まで狼に手こずっていたクロは、それが出来なかった。しかし、今なら出来る。私が彼女に渡した祈りの剣に、知らない内にそんな能力が付与されていたのか。
クロは引いていく狼の中から一頭に目星をつけると、片手を地面に置き、そこに付きそうなほどにぐっと頭を下げ、姿勢を低くして空を仰いだ。その身体の柔らかさは、まるで人間ではなく軟体生物のようにしなやかで、美しい。そして狼を捉える眼光は、獲物を狙う獣のよう。
彼女の白い髪がふわりと揺れて、ついに紐の切れた眼帯がはらりと落ちる。そこに現れた彼女の左目は右目のような赤色ではなく、まったくの無色。だけど、動いている。狼が飛び去るのを追っている。覗き込むと目を離せなくなるほど無数に輪を描く何十色もの光彩が、水面に石を投じたかのように波紋となり揺れ広がって、木々のただ一点を見つめた。
誇張じゃない。本当に、少し離れた位置からでも彼女の左目は信じられないほどに無数の色を帯びていて。私なんかの表現力では、到底文字に起こす事なんかできない。思わず息を飲む。そんな瞳がこの世に存在するのか。
クロは剣を強く握り、地面を蹴って飛び出した。それから矢のように空中を突き進むと、一頭の狼が一本の木の表面に着地すると同時に、その頭に切っ先を突き立てた。狼が着地する位置を予測し、狼が移動するより早く。まるでさっと風が吹き抜けたかのような身のこなしだった。
脳天をかち割られた狼がばしゃりと飛散すると、次の瞬間にはもうクロの姿はそこにはなかった。また別の木へ飛び移り、別の狼を仕留め、また別の木へ飛び移り、別の狼を仕留め。
「すごい…………!」
一体何が起こっているのかわからない。私が感激しきっている間に、次から次へ。クロは瞬く間に自身を取り囲んでいた狼をすべて排除すると、次はお前だと言わんばかりにすかさずフィルターへと斬りかかる。
どこに隠し持っていたんだろう。フィルターは鍔から刃にかけて星のような装飾の施された
「これは驚いた。キミが剣をどこで拾ったのか気になっていたけれど、成程。先程ボクが踏み砕いた剣も、その剣も!彼女から貰ったものだったんだね!」
「欲しくなっちゃった?あんた、人のものを欲しがる子供みたいなところがあるものね。でも残念、これは、あたしの、だから!」
打ち合う刀身をずらし、クロが身を捩って別角度から斬りかかる。獲物に食らいつく獣がごとく、がつがつと。右から左へ、左から右へ、斬りつけ、受け止め、上から下へ、下から上へ。
フィルターもクロに負けずとも劣らず剣の心得があるように見えないロリロリとした風貌をしているけれど、どうやらかなりの腕前であるらしい。クロの激しいスピードとパワーにも、余裕を持って付いていっている。人間離れした戦いぶりに付いていけない私はすっかり置いてけぼりだ。
初めは拮抗していたらしい攻撃の応酬も、どうやらクロが優勢に立ち始めてきたらしい。フィルターが次第に後ろに下がり始めている。しかし彼女のことだから、もしかすると押されているように見せる演技かもしれない。そしてクロもそれは気づいているはずだ。
「ボクにはボクの武器があるから、キミの剣を欲しがったりしないサ。それにその剣は、彼女がキミに送った大事なものだ。だったらそれを欲しがるのはよくない!そういうのは、無粋って言うんじゃないのかな」
フィルターが姿勢を低くして足払いを繰り出したのを、クロが体を上手く折り曲げ躱す。すかさず反撃を繰り出すも、しっかりと受け止められてしまった。フィルターが
フィルターは笑みを浮かべて、なにやらうなずいた。気のせいだろうか、何やらこちらを見ている気がする。いや、顔はクロの方を見ているし、こちらから見えるのは背中だけ。もしかすると背中に目でも付いているのかも。明らかに、意識が私に向かっている。
「それに」
「それに?」
「この場合、ボクが欲しがるのはキミの剣ではなく、彼女のほうサ」
フィルターがこちらを見た。彼女が発した言葉には、チクチクとした棘がある。そしてその言葉の意味するところは、すぐに理解する事となる。
「………………え?」
私を捕らえていた狼の背中から小型の狼が顔を出し、私の肩に噛み付いていた。
◇◆
肩に牙を立てられた事なんて、一度だってない。普通はそう。そもそもの話、鋭い牙を持つ野生の狼に遭遇する事自体、現代の日本においては不可能である。熊ならまだしも。だから体験しようがない。そう考えると、なかなか貴重な体験をしたかもしれない、なんて、命があってこそ笑って言える話だ。
「フィルターッ!」
クロの激昂が少し遠くに聞こえる。どうして遠いんだろうか?私と彼女の位置は、さっきと変わらないはずなのに。そうか。肩に噛みつかれたせいで、血の気が引いているんだ。そういえばクラクラする。
「ボク自身をどうこうするよりも先に、身の回りをよく見たほうがいい。ボクにとっての敵は、何もキミだけってことではないし、キミにとっての味方も、当然キミだけってことじゃない。ということであれば、この状況で弱い方から狙うのは、最善策だと思わないかい」
「この……ッ!」
クロが激しい連続攻撃で攻め立てる。情け容赦など一切なく、ひたすらにフィルターの腕を狙っていく。どうして腕を狙っているのかはわからない。だから私の推測になるけれど、この世界における魔法というものは腕が肝で、そこに刻まれた回路か紋章か何かで動かしているのではないか。だから、腕を狙う。腕をどうにかできれば、魔法が止まるかもしれないからだ。
先程フィルターが後ろに引いていたのが私に近づくためだとしたら、押されているように見えたのは気の所為だったのだろうか。彼女は両腕を広げ、実に楽しそうに、そして踊るように笑った。
「いいかい、クロ、彼女が怪我をしてしまったのは、キミのせいじゃない。キミと、彼女と、ボクと。その位置、その状況が招いた結果だ。状況というのはいつだってコロコロと、まるで天気のように変わる。ご機嫌を伺う事だってできない。だけど、それは常人における話だ」
フィルターはこちらを見ながら、クロと話している。
「キミは実験の副産物。英雄のレプリカだ。キミは、英雄というものを理解しているかい。英雄とは物語における主人公であり、救世主である。人を救うんだ。その世界において、成すべき事を成すために。だからそうだな、例えばこんな状況でも、味方が危機に晒されていても、それを助け、救い出す力がある」
フィルターが指を鳴らし、私を拘束していた狼の背が崩れ、小型の狼が四頭、解き放たれる。私の肩に噛み付いていたままだった一頭の狼が離れ、後を付いていった。私は力なくその場に崩折れる。上手く足に力が入らない。というか、全身が腑抜けになってしまったようにへにゃへにゃで、しっかり立つ事ができなかった。あの狼の牙に、毒でも塗られていただろうか。
そこで自分の肩を恐る恐る見て、気がついた。確かに噛みつかれた感触があったはずなのに、傷口が焼けるように熱いとか、そういった事は一切なく、そもそも血が出ていない。
「出し惜しみせずにさっさとその力を使わないと、いよいよ取り返しがつかなくなると思うよ?」
フィルターが何を言っているのかわからない。クロに話しかけているのは間違いない。例えその視線が、私に向いていようとも、だ。現に彼女はクロを相手取っているままだし、今しがたクロが地面を強く踏み込んで繰り出した横薙ぎを、胸元へ引き寄せる形で構えた剣で受け止めている。
そこからだった。
「そんなにあたしを煽るなら、あんたを殺すのに容赦しないわ。覚悟はできているんでしょうね?」
クロの体の色彩がおかしい。褐色の肌に雪のように白い髪をしていたはず、なのに。今や彼女の全身に色はない。いや、実際は灰色のように見えるけれど、何故か色がないように感じられるのだった。
なぜそんな風に見えるのか。それはおそらく、彼女がいつのまにか纏っている無数の光の帯のせいだろう。そこに生じている光は揺らめくオーロラのようにクロの輪郭をくっきりと映し出し、輝きがあまりにも強すぎるため、クロ自身に色がないように感じられてしまう、のだと思う。それくらいに、光の帯は美しかった。
そういえば、この光をつい先程どこかで見た気がする。そうだ。彼女の眼帯の下に隠されていた、無色の瞳。まさしくそこから覗いていた無限の色彩が、クロの体表に浮かんでいるんだ。
「………………」
輝く光の帯を纏い始めてもなお、クロは無言のまま、自身に襲いかかる狼の群れを睨みつけた。その刹那、光の帯が揺らめいて、陽炎のようにクロの姿が消え失せた後、風切り音と共に空間が揺らめいた。
そこを、彼女が通ったのだろう。キラキラとした砂のような光の粒が空気中を流れていって、そこに彼女の軌道が浮かび上がる。しかしそれを目視したのなら、それはもう手遅れだ。
「おっとぉ」
フィルターの右上腕が、強い衝撃で撃ち抜かれたかのように跳ね上がる。金属音はしなかった。気分が悪くなりそうな、肉を裂く音。クロの放った一撃が、フィルターの腕を真一文字に切り裂いている。あまりの衝撃に、絵の具のように鮮やかな鮮血が辺り一面に雨のように飛散した。
腕を切り裂かれたはずのフィルターは、特に痛がる様子もなく、驚くほど冷静だ。あれ、狼はどうなったろう。ふらつく頭でなんとか冷静さを保ち、辺りを見渡すと、狼がそこにいたらしい痕跡が、うっすらと地面を汚す灰色の染みで確認できた。
「ああ、そうだ、そうサ。こうでないと!いいかいクロ!」
フィルターがまだ動く左腕で刺突剣を持ち直し、斜めに構えるも、背後からの一太刀が彼女の背中を裂き、軍服をずたずたにする。それでもなお彼女は笑っている。
「キミは英雄のレプリカだ!とあれば、英雄ができたことを、やらないといけない!しないといけない!出来るようにならないといけない!」
腕の腱が切れたのだろうか、フィルターは上がらない様子の右腕はそのままで、左腕を広げ、嬉しそうに、高らかに言い放った。
本当に容赦なく、クロが放っているらしい斬撃が一つ、二つ、三つ。息をつく暇など与えずフィルターの身体に襲いかかる。先程まで拮抗していたはずの実力も、どこへやら。既に彼女はクロのスピードに付いて行けていない。
恐らくクロは何らかの力で、視界に捉える事ができないほどの光速で移動し、フィルターが予測しようが対応できない死角を突いている。胸元に刺突剣を構えて防御の姿勢を取れば背後から、怪我をした右腕をかばうように右を注視すれば左から、そして、正面からの一撃を防ごうものなら、頭上から。
いつの間に頭上へ飛んでいたクロの姿が、そこに見えた。私の渡した祈りの剣が、まるで華美な美術品のように、美しく虹色に煌めいている。それをフィルターの頭蓋目掛け突き出したクロの身体が、まっすぐに降下した。
既のところで頭を傾けたフィルターの顔面を、光の軌道を描き、祈りの剣が切り裂いた。衝撃に塵が舞い上がり、目に入って痛い。
「…………なるほどぉ」
「なるほど……じゃあないわ。よくもまあそれだけズタボロになって。腕だって上がらないし、片目だって見えないでしょう」
「でも、キミももう終わりだろう」
クロの身体を覆っていた光の帯が、次第に薄くなって消えていく。それが一切見えなくなってようやく、クロの身体が色を取り戻したように思える。祈りの剣は、彼女の手には握られていなかった。激しい攻撃に耐えられなかったのか、はたまたそういう能力であったのか、微かに見えた柄は光となって擦り切れて、風に吹かれて見えなくなった。
確かにフィルターの姿は、見るも無残なほどにズタボロだ。その痛々しさは、気を失っていてもおかしくないほどに酷く、右腕は力なくだらりと垂れ下がり、左手に握られている刺突剣も半分ほどで折られている。軍服は原型を留めておらず、数本の糸でかろうじてつながっている切れ端が揺れていた。最後の一撃を受けた顔面は真っ赤で、血に塗れて開けないのか、片目は閉じたままだ。
それだけの姿になってもまだ、彼女は微笑んでいる。楽しそうに、どこか嬉しそうに。口角が上がるのに合わせて、唇から溢れた血が一筋、流れていった。
「いやァ、おっど、しヅれい。喉に血がヅまってしまってね。ゴホン」
フィルターは咳払いをして、地面に向けて血の塊を吐く。
「見る限り、およそ八秒、といったところかな。クロ、それが今のキミが使える
「……どうだかね。あんたが惨めったらしく生き残ろうともがくからよ」
「アハハ。そういうことに、しておこうか」
現にクロは外傷こそ見られないものの、片膝を付いてしまっていて、動けない様子だった。あれほどの高スピードで動き続けていたのだから、それはもう、身体の負担とか、魔力の消耗とか。そういったものがすごいはずだ。ああいう力を持つ能力者が払う対価の定番であると、何度も創作物で目にした事がある。
情けない事に、今この場にいる人間で動ける者は誰もいない。フィルターは膝が震えて立てない私の方を見た。一瞬だけ、私に何かを訴えるように見えた、気がする。
そしてかろうじて動く左手の指を鳴らすと、どこに隠れていたのだろう。残された
クロはその背を睨みつけて、叫んだ。
「……っ、フィルター…………!」
狼の背に揺られて遠ざかるフィルターが、こちらへ向けて手をひらひらとさせる。
「そんなにボクの名前を呼ばなくても、生きていればまた会えるよ。大丈夫サ。あ、ボクはだいぶ大怪我しちゃって動けないから、しばらくは会えないかもしれないけれどね。だからトーカ!あとはよろしくー」
それきり彼女の姿は見えなくなった。
よろしくされてしまった。一体どういうことだろう。彼女はクロの命を狙っていたのではなかったか。狼がまだ残っていたならば、私達二人にトドメを刺すことだってできた、はずなのに。
「…………クロ、大丈」
ぐうう。
きっと、緊張の糸がほぐれたんだろう。自分の命を狙う追手から逃れ、今の所これ以上の危機はない。となれば、その、お腹だって空くかもしれない。
お腹がなったのは、クロの方だ。つい先程までの緊張感はどこへやら。彼女はほっと胸をなでおろし、どこか照れくさそうに、私に向かって微笑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます