第5話 キミに届く


◆◇


 大きな灰色の狼の背中はやけにつるりとしているけれど、乗り心地は悪くない。しかしとにかく揺れる。狼が手足を動かすたびに、大きく揺れる。それにつるんとしているから、狼の背に乗っている感じがまったくしない。遊園地の遊具にまたがっている感覚だ。そんな巨大な狼型のアトラクションに乗る私は、フィルターに言われた通りに彼女のお腹に腕を回し、抱きつく体勢でなんとか耐えていた。ちなみに彼女の身体は非常に柔らかくて、思わず生唾を飲んだ。

 私達二人は狼の嗅覚にまかせて、クロの匂いを追っている。木々が密集する森の中だというのに、狼の身のこなしはしなやかで、大きさを感じさせない。まるで森の構造すべてをわかっているかのように、木の隙間をするすると抜けていく。


「いやあ、ハハハ。こうしろとは言ったけど、いざやってみるとくすぐったいな、これ!しかし我が獣潜む沼スワンプ・ハウンドは、実に乗り心地がいい!そうは思わないかい?」


 向かい風がすごいので、私の前にいる彼女に声が届くようにするには、叫ぶようにしないといけない。喉が痛くなりそうだ。できればもうちょっとゆっくり走ってほしいところ。


「ゆ、揺れなければ、い、いいんだけど!このままじゃし、した、舌噛む!」

「舌を噛むって?確かにそうだ!あまりに揺れすぎるからボクだってびっくりしてる!でもこれは改良の余地アリってことサ!より素晴らしくできる!動きに合わせて背中も揺れるようにすれば、衝撃を緩和できるかな?ううん、改造しがいがありそうだ!」

「かい、改造って、これ、そもそも、なんなの?!」

獣潜む沼スワンプ・ハウンドは、文字通り沼のような獣であり、獣のような沼である!ボクの指示一つで、好きに姿を変える事ができる!これはボクが丹精込めて練り上げた、とっときの魔術式でね……っと、魔術式ってのはわかるかな!わからないならわからないで、説明も難しいからできないけれどネ!ハハハ!」


 フィルターはやけに上機嫌だ。彼女はこんな風にテンションが高いのが基本なのかもしれない。何度もおどけてみせたあの態度だって、そうだろう。


「それよりキミは、彼女……クロについて、もっと学んでおいたほうがいい!」


 確かに私は、クロについて何も知らない。知っているのは彼女の姿と、追われている事くらいだ。あと、美少女であること。

 こうして言葉にしてみると、美少女だったからもう一度会いたいんだろお前、と思われかねない。いやしかし、待ってほしい。私が美少女を見つけたから関わり合いになったわけじゃない。出会うきっかけは偶然だった。

 それに、ここは私が美少女とのんびり旅をしたいと願って送ってもらった異世界だ。だったらここで私がどう美少女との関わり合いを望もうが、私の勝手。世界を俯瞰する機能メニューという能力を持っているが故に少し特殊ではあるけれど、故に、この力を使って命を狙われている美少女の運命を変えられるのならば、これ以上のことはない。問題は実行に移せるかどうか、だけになる。


「ボクとキミは今奇妙な協力関係にあって、自分でもなんでこんなふうに手を貸しているのかサッパリわからないけれど、あいにく今は機嫌がいいから、だ。それに、他人に積極的に関わろうとする好奇心をボクは評価している。いやあ、あの場で出たキミの提案は、なかなかに愉快なものだった」

「好奇心……」

「普通は人の命を狙っている本人に助力を得ようだなんて、思わないサ!思っても実行しない!それに相手はこのボクだ。丸腰のキミがボクをどうにかしようなんて、無謀極まりない」


 確かに無謀だ。言い返せない。


「だからボクは、そうまでしてまで彼女に会いたかったキミの好奇心がどんな結果を結ぶかを、見てみたかった」

「……」

「ま、そんなことはさておき、話は変わるけれど、キミは、英雄という存在を知っているかい?概念じゃないよ。この世界におけるものとして、だ」


 英雄というのは、才能に恵まれ、常人には真似できない事を成し遂げる存在だ。こういった世界ファンタジーで当てはめるなら、例えば世界を支配しようとする魔王という悪役がいて、正義の名の下にこれを成敗した勇者が英雄と呼ばれ、持て囃される。善と悪としてわかりやすいものであり、お話としては散々使い古された雛形テンプレート

 フィルターは両腕を広げ、感情たっぷりと、雄弁に語り始めた。


「この世界は昔、戦火に見舞われていたんだ。この世界の大部分を牛耳る大国と、それを良しとしない複数の小国の連合による、世界戦争だ!これがまた、長く続いた戦いでね。何年やってたかなんて数え切れないくらいやってたかな。戦場にはたくさんの矢と魔術が飛び交っていたけれど、後半には既に皆疲弊しきっていたのと飽きていたのもあって、いつしか新兵器を持ち込む実験場になっていたっけ」

「………………」


 当時を知っているような口ぶりは彼女の見た目とのギャップがすごいけれど、まあ、今は黙っておこう。


「いいよね、実験場。例えばボクが戦場に赴いて、この狼達に指示を出して解き放っても、咎める人間はいないんだ。だって、戦争が長く続いていたとはいえ大国の力は圧倒的で、終盤になると、連合にとってはもはや敵味方も曖昧だった。連合の加盟国同士で手違いの攻撃が起こって味方同士の戦いに発展して、国が一つ地図から消え去った事だってある。いやあ、絶望的だね!ハハハ!」


 随分とその、コメントに困る内容だ。戦争というのは平和な世の中に産まれた私にとって、当然経験したことがないので、ピンとこない。親の親くらいなら経験したことはありそうで、しかし文献などにこそ記録はあれど、それが現実に起こっていた事であったと実感する事はできなかった。

 だけど戦争と英雄、この話が、クロと何の関係があるのだろうか。道すがら話す内容としては、重すぎやしないかな。


「何の関係があるんだって?大丈夫。関係あるサ。ここからが大事なところだ。戦力差が覆せず、ピンチになった連合だけれど、びっくりすることに、ここで救世主が現れるんだ」

「それが、英雄……?」

「そう!よくわかったね。いや、わかるか!そうなんだ。英雄。英雄サ。がどこから来たのかはわからない。どの国出身なのかもわからない。彼女が何者か知っていた人間なんて、どこにもいなかったんじゃないかな。彼女は突然戦場に現れて、武器を持ち、戦場を駆け巡り、そうして戦争は終結した」


 え?


「いや、え?」

「文字通り突然終結したのサ。彼女一人の力で、あっという間にね。彼女が武器を振るい、戦場で命令を下す司令官だけをすべて討ち取って、指揮系統があっという間に崩壊。戦争はそれ以上続ける事ができなくなった。言葉にすると現実味のない絵空事だけど、これが驚く事に現実でね!いや、人々は随分と混乱して、これがまた兎にも角にも大変だった!要は、誰も責任を取ってくれる人間がいなくなったんだ!そうなると皆途端に度胸がなくなって、戦闘狂以外は戦意を喪失してしまう。そして英雄の目覚ましい活躍は、たちまち人々の心の拠り所になったんだ。戦争を一方的に終わらせられるだけの強大な力を持つ英雄が、存在する。彼女がいれば、国家規模の諍いが起こる事もなくなって、こんなに長く苦しんだ戦争が起こる事は、二度とないんだ!ってね。愉快な話サ」

「……うーん、愉快、かなあ」


 抑止力、みたいなものなのかもしれない。ただの人間一人が抑止力だなんて成り得ないだろうけれど、ここは恐らく剣と魔法の世界だ。例えば私のように世界を俯瞰する力を持っていて、それを上手く操ってどうにかしたのかも。

 もしかすると先にこの世界にやってきた人間という可能性もあり得る。異世界転移の先輩というわけだ。かみさまなら何か知っていないかな。質問しようにも、連絡手段がまったくないのがもどかしい。


「ま、こっからは間違いなくキミにも愉快な話サ。英雄が戦争を終結させ、世界が平和になって数年後。戦争を憎んでいた人々の目は、今度は英雄に向けられる事になるんだ」

「は、いやいやいや、なんで?」

「人間ってのはつくづく愚かで、予測不能で信じ難い事をやってのけるものサ。誰もが常人ってわけじゃない。普通でいたら考えつかない事を、複数の人間が一斉に思い立つ例外だってある。英雄はあまりに強大な力を持っていたから、今度はその英雄が、人々にとっての脅威になると考えたんだろうね。いやあ、愉快な話だね!人々は英雄を実際にどうしたと思う?」

「ど、どうしたの?」

「英雄を捕らえたんだ。国を挙げてね。異常な思考は大きなうねりとなって、連合加盟国はおろか、大国だって力を貸した。軍人たちにとっては戦争を無理やり終わらせたものだから、恨みを晴らしたかったのかな?英雄とはいえ、彼女はたった一人の人間。それに相手はかつて自分が守ろうと、救おうとした人たちだ。彼女はたくさんの民間人に追われ、最後は無抵抗でその身を拘束された」

「…………」

「彼女は魔術の耐性が異常に高い体質でね。森の奥の建物に収監された後、人々の暮らしを良くするため、という名目で、たくさんの魔術実験が行われた。なんと彼女の身体でだ!彼女はたくさんの人に虐め抜かれて、やがて何年もの時が過ぎた」


 民間人による、英雄の、拷問。

 聞いていて気持ちの良くない話だ。うっかり想像してしまい、何かもやもやしたものが胃からこみ上げてきて、吐きそうになる。フィルターは愉快だと言うけれど、私はまったくそうは思わない。彼女の愉快は大分こじれている。戦争を終わらせてくれた恩人を、今度は脅威として排除しようとするなんて、恐ろしい話であるし、私には想像もつかない。

 当時の人々には、何かよくないものに思えてしまったのかもしれない。戦争に苦しんだ結果、疲弊して、強い力というものにうんざりしてしまった。強い力がなければもう二度とあんな事に巻き込まれなくて済む、と。けれど、こんなのはあまりにも英雄が可哀想だ。

 でも、なんでこの話をするんだろう。そう考えた瞬間、恐ろしいほど思考が冴えて、勝手に答えがはじき出された。


「……もしかして」

「お、キミは察しがいいね。察しがいいのは良い事サ。何事だって、鈍感なのはよくない。素早い情報分析と状況判断は世を生き残る術、無くてはならないもの。それが伴わなきゃ、人はなんでもないことでうっかり死んでしまう」


 もし私が考えた事が正しいならば、こんなに酷い事があるかと憤りを抑えられない。そしてかみさま、貴方の言った通りこれは、首を突っ込めばのんびりとした旅なんて縁遠いお話だ。

 しかし腑に落ちない点がある。


「今、何年もの時が過ぎた、って言ったよね?……それじゃあ彼女は」

「おおっと、それは本人のところに着いてからにしよう!そのほうが愉快だ!そうは思わないかい?思わないかな。お楽しみは、もうちょっと取っておいたほうがいい」


 私達を乗せた狼が、ゆっくりと速度を落としていく。それはつまり、目的地にたどり着いたということだ。

 フィルターが私の方を振り向いて一度にやけたあと、前へ向き直って、嬉しそうに言い放った。


「会いたかったよ、6号!……いや、クロ、そう呼んだ方が、良かったかな?」


 私達の視線の先には、木々の間に立ち、私があげた剣を構えるクロの姿があった。昨晩見た姿のままだ。しかし走り続けていたからだろうか、少し衣服が乱れている。私の心臓が高なった。また会えたから、というのもある。しかしそれ以上に、彼女の姿はやはりとてもかわいかった。



 ◇◆


 開口一番、クロが声を荒げる。


「……ちょっとまって、なんでそいつがそこにいるのよ!フィルタァ!」


 フィルターは狼の背中から軽やかに降り立つと、私に見せたのと同じように身を屈めておじぎをしてみせた。狼の背中からって言っても、三メートルくらいあるんですけど。そんな簡単に降りられるもんなのだろうか。ちょっと怖い。


「なんでって、彼女がキミにもう一度会いたいって言うから、親切にも連れてきてあげたのサ!だってキミ、それはもうすごい速度でビュンビュンと行ってしまうだろう。匂いを辿る方法と移動手段がないと、とてもとても追いつけない。彼女だって、それがわかっていたからこんなボクに協力を仰いだんだ。そう、こんなボクにね。愉快だと思わないかい?」

「……あんたの愉快は歪んでるわ」

「褒め言葉だよ、それは。それ以上の何者でもない!」


 クロは剣を水平に、切っ先をもたげ前へ向ける。やはり剣の大きさは彼女の体躯に合っていないけれど、それはまったくブレる事もなく、フィルターの顔面を狙っている。好戦的な彼女の姿勢はなんならいますぐにでもそこから飛び出して、顔面を切りつけてもおかしくない空気だ。

 対するフィルターは切っ先を向けられている事など意に介さず、楽しそうに笑った。


「どこでそんなものを拾ったんだい?わざわざ木を削って作ったのかな。それにしては、随分と武器らしい見た目をしているけれど……立派な鉄の剣に見えるね、それ。キミ、たった一日ほど見ない間に、そういった技能スキルを身に着けたのかい?その短期習得法、ボクにも教えてほしいなあ。ダメ?」


 クロはフィルターを無視して、狼の背中でオロオロしている私を睨むように見上げた。


「あんたも、あの小屋で別れたはずよね。わざわざ置いていってあげたのに、何故こんなやつと協力して追ってきたわけ?」


 その言い分はごもっともだ。なぜ追ってきたのか。聞かれるのは当たり前だろう。そう、聞かれるのは当たり前。わかっていたはずなのに、聞かれた場合の返答を考えるのを忘れていた。


「そ、それは……えーっと」


 素直にクロとのんびり旅がしたい、と正直に言ったらどんな反応をされるだろう。既に私は一方的な好感を抱いているけれど、向こうからすればそうでもないかもしれないぞ。大して好感度を稼げていなければ、返ってくるのは素っ気無い答えだけだ。

 だが、そんなのは承知な上で、彼女をどうにか救おうと思ったのではなかろうか。

 フィルターがこちらをにやにやと見つめているのに気づく。違う。彼女に勝手に説明させるわけにはいかない。私はなんとか言葉を絞り出した。


「……けなかったから」

「なんて?」

「クロが、放っておけなかったから。誰かに命を狙われている子がいて、その子と関わって、知り合ってしまったから」

「バカね、そんなの、余計なおせっかいじゃない。それにあんた自身、命を狙われている他人を救う余裕なんて、ないくせに」


 クロは妙に苛立っているようで、語気がやたらと強い。突き刺さるような言葉を投げかけてくる。確かに余裕なんてないけれど、もうちょっとこう、手心を加えてほしいというか。


「放っておけばよかったのよ、あたしなんて……」

「はい、それまでー」


 フィルターが大げさな仕草で両腕を広げ、私とクロの間に割り込んでくる。その瞬間、怖気が走り、背中がぞわぞわとむず痒くてたまらない。しまった、早く、狼の背中から降りないと。


「感動の再会、おめでとう。これで、キミの目的は達成された。ボクの狼の嗅覚を利用して、ついに目的の彼女に追いつけたわけだ!」


 フィルターがぱちん、と指を鳴らす。それは彼女が獣潜む沼スワンプ・ハウンドを操る合図だ。どういう仕組みかわからないけれど、彼女はその合図一つで狼を意のままに操る事ができる。やはり変わった音には聞こえないが、その指先からはしっかりと命令が発せられているらしい。

 私が乗っている狼の背が、にわかにざわざわと蠢き始めた。

 時既に遅し。気づいた瞬間、狼の背がどろりと溶け、まさに沼のように私の身体がとぷんと沈む。沼は腰の辺りまでを深く飲み込むと、再度固まり、たちまち私は狼の背と一体化して、身動きが取れなくなってしまった。


「な、なにこれ……?!」


 下半身がまったく動かない。どれだけ力を込めようがぴくりともせず、沼は深く、そして冷たい。まるで下半身が石になってしまったかのようだ。いや、石になったことなんてないけれど。多分石化ってこんな感じだと思う。下半身が狼だなんて、これじゃあ神話に出てくるスキュラみたい。あっちは狼ってより犬だし、六頭分の頭があるとかいう化け物だけれど。

 フィルターはいやらしいニヤケ顔で、私を見上げてくる。しかしそんな位置関係とは裏腹に、まるで人を貶めた時のような表情。最初からこうするつもりだったと、言いたげなような。

 いや、彼女のニヤケ顔はこの際どうでもいい。うまく嵌められてしまったんだ。これ、どうやって抜け出せばいい?すがるようにクロの方を見やると、彼女は既にフィルターめがけて飛びかかっていた。


「おっと、気が早いよ。ボクだってキミと戦うのは面白いと思うけれど、でも、よく考えてほしい。今キミと戦うのはボクじゃなくて、この子たちなんだ」


 フィルターの背後から、複数の灰色の固まりが飛び出した。ここからはよく見えないけれど、複数の狼が合体して巨大な狼となったように、今度は巨大な狼から小さな狼が分離したんだろう。何頭かの小型狼が、一斉にクロへ襲いかかっていく。

 焦りに両腕でもがくけれど、相変わらず下半身はびくともしない。

 クロが自身目掛け飛びかかってきた狼の牙を手にした剣で順にいなしていくも、さすがに複数相手は厳しいのか、三頭目から身を翻して突進を躱し、後退していく。狼の牙が彼女の頬をかすめて、わずかに顔が歪んだ。というか今確認できたけれど、五頭もいる。

 フィルターの笑い声が聞こえてきた。


「アハハハハ!そうそう、やっぱりそうでないと。やっとボクの獣潜む沼スワンプ・ハウンドの有用性を試す事ができる。自信作は、やはりキミくらいの強者に試さないと面白みがないってことサ!武器を持っているのは意外だったけれど、この際武器があってくれてよかった!そうじゃないと、この牙をやり過ごすのは難しいぞお!」


 地面を転がり距離を置いたクロを包囲するように、狼が円を描いて彼女を取り囲む。フィルターはその様子を眺めているのみだ。指を鳴らす事もしていない。先程鳴らした音に、すでにあらゆる命令が含まれているのだろう。命令は単純に二つ。一つは私を拘束し、もう一つはクロに襲いかかれ、というものだ。

 まず抱いた感想は、便利すぎる。小さくしたり大きくしたりもそうだけれど、指を鳴らすだけであらゆる命令をこなす事ができる忠実な下僕だなんて、どう考えたって便利だ。手足が増えたようなもの。もしかすると手頃なサイズの狼に荷物を乗せて運んでもらったりなんかして、旅を楽にすることだってできるんじゃないか。

 いやいや。そもそも私には、所持枠インベントリがあるじゃない。


「なめるな…………っ!」


 クロが自身を鼓舞するように叫び、右手で剣の柄頭を、左手で鍔の付け根を握って、片足を重心に身を捩り力強く振り回す。刀身はある程度の長さがあるので、周囲を薙ぎ払うにはその一撃で十分だ。空を切り裂く音と共に突風が吹きすさび、辺りの草木がざわついた。取り囲んでいた狼が、少しばかり遠ざかる。

 彼女を囲んでいる狼達は、大まかに分けて前方に二頭、後方に三頭。彼女が後退するのを阻止するためだろうか、よく見れば後ろに位置する狼の一頭だけとりわけ離れた位置におり、牙をむき出しにしているのは残りの四頭だけだ。

 威嚇するようにうなり始めた狼達の内一頭が、頭を低くする。周囲の狼達も釣られるようにうなり始めた。これから襲いかかるぞ、という合図なのかもしれない。クロが剣を構え直すのと同時に、四頭の狼が一斉に飛びかかった。


「さて、ボクはあの狼を、何頭生み出す事ができると思う?」


 いつのまにか、フィルターがそばによってきている。小型の狼が分離したからなのだろうか、大型の狼は背が低くなっていて、先程より地面が近い。彼女はクロが狼と交戦しているのを横目で見ながら、囁くように語りかけた。


「狼には質量がある。いくら魔力で動いているとはいえ、沼の素となった素材があるからね。そうだね、粘土みたいなものサ。まとめれば塊になるし、ちぎれば小さな粒だ。生み出せる数には、当然限度がある」

「……何を……」

「キミは今、ボクの狼の背に捕らわれている。これでだいたい、小型狼七頭分くらいはあるかな。本当はもっと少量で拘束するのは容易いけれど、例えば一頭分の質量で沼に捕らえようとすると、とってもシュールだ。狼の形をした履き物を身に着けているみたいになってしまう。その点、大きな狼の背に下半身が埋まっているのは、何か芸術作品みたいでワクワクしないかい?」


 まったくわけがわからない。


「ま、それはいいんだ。ボクのセンスだ。ただ何が言いたいかというと、今の彼女、クロを追い詰めるのは、五頭分で十分、ってわけサ。それに、ボクは一つ心配している事がある」

「心配?」

「キミは、彼女に会いたいと言った。彼女を追っている相手にだよ?でもさ、それって、まったくの無策で利用しようとしたってわけじゃないだろう?キミはボクに連れて行ってもらって、彼女に追いついたのち、何らかの方法で彼女を救おうと考えていたはずだ。例えば、、とかさ」

「…………は」

「ボクは、その方法が見たい。手段が見たい。キミのやり方が、見たい」


 汗が吹き出る。ニヤケ顔で私を見つめるフィルターの目は、どこか勝ち誇っているようで余裕がある。直視できない。彼女の瞳はぐるぐると渦を巻いていて、一度目を合わせてしまえば引き込まれてしまいそうだからだ。

 正直、策がないってわけじゃない。テツノジカの角はまだもう一本ある。これを使えば、例えばクロを二刀流にする事もできる。彼女が手にする剣を折られた時、代わりのものを手渡す事だってできる。そして、場合によっては私自身が戦う事だってできるはずなんだ。

 フィルターは、その打開策を見たいと言っている。ここまで私を連れてきた時点で、何か裏があることはわかっていたはず。だから、臆する事はない。彼女をなんとかしようとするつもりは、あったじゃないか。ならそれを、実行するだけ。するだけ、なのだけれど。

 身体が動かない。目の前では、クロが狼と戦っている。少し手こずっているようにも感じる。だって、狼五頭が相手だもの。多勢に無勢というやつ。押したり引いたり善戦はしているけれど、このままじゃあ埒が明かない。私の作った剣が弱いのかな。


「クロはやはり、本調子じゃないみたいだね。でも、無理はないサ。だって彼女はつい最近まで、ボクたちの元で実験台にされていたんだから。その身体は、あちこちがひび割れてる。例え武器を手にしたところで、あんな小さな狼にさえ手こずる。見ればわかるだろう?」


 フィルターが、クロのその正体について勿体ぶっていた事を、しっとりと語っていく。


「キミに話した戦争は、もううんと昔の事だ。戦争が終結し、民衆が英雄を捕らえたのも、もう昔の話。その後ボク達は、英雄の身体をたっぷりと弄んだ。その過程にできたのが、だ」


 私達が話している声が聞こえたのだろうか、クロの怒号が聞こえてくる。


「フィルター!」


 飛びかかる狼の一頭を、クロが力強く切り伏せる。しかし狼は沼でできているからだろうか、斬撃を受け分かたれた胴体も、ごぼごぼと水っぽい音がして、次の瞬間には元通りになった。物理攻撃が効かないのかもしれない。それならどうすればいいんだろう。私が剣を作り、渡したところで、対処できない。

 血の気が引いていく。私の腕に、フィルターが優しく触れた。


「あんたが何を吹き込んでいるか、知らない、けど!」


 狼の一頭をさらに切り伏せる。元通りになるとはいえ、すぐに復活できるわけではないらしい。真っ二つにしたところで胴体は元通りになるけれど、まるで意思を失った人形のように静かになって、動き出すには時間がかかる。

 クロの周囲に残る狼は三頭。


「トーカを、離して、もらう!」


 背後から飛びかかった狼が、クロの背中を爪で引き裂く。身を捩って躱したように見えたけれど、うまく躱せなかったのか、彼女が羽織っているコートの一部が裂け、布片が散る。爪が身体に到達してしまっていたらしく、地面に血が数滴滴って、染みを作った。


「クロ!」


 フィルターはクロを心配する私の腕に触れたまま、薄い笑みを浮かべた。


「キミが……トーカって言ったっけ?この子を、ボクから離すって?アハハ、なんだ、やっぱり愉快な話じゃあないか。つい先程まで赤の他人だったはずなのに、お互いを助けようとしている!これを愉快じゃないとしてなんと言う!」


 怪我に屈さず、クロが立ち上がる。彼女は決して剣を握る手を離す事なく、眼前に迫る狼の口目掛け剣を突っ込んで、頭蓋を砕くように引き裂いた。狼はぐずぐずと液状化して、地面に撒き散らされる。次第に元に戻っていくけれど、やはり動きは止まったまま。

 残る狼は二頭。


「クロ、キミはボクの狼を順調に切り伏せられていると思っているかもしれないけれど、それは早とちりだ。ボクはトーカが何らかの策を考えていると思って、こうして七頭分の狼を彼女を芸術的に拘束するのに用いたけれど、見ての通り、彼女は既に恐怖で身体を強張らせてしまっている。具体的にどんな策があったのかは知らないよ。けれど、その策が通じないと感じてしまったんだろうサ。もう少し、彼女を拘束するのに用いる狼を減らしてもいいかもしれない」


 私の下半身を埋め込んでいる狼の身体がざわざわと波打って、前足から二頭の小型狼が分かたれて、解き放たれた。地を駆け、クロの元へと飛び込んでいく。

 しまった。私が無様に身を縮こませているせいで、彼女が不利になってしまう。


「………………チッ」


 クロは舌打ちをして、後方から様子をうかがっている一頭の狼を警戒しつつ、前から変則的に飛びかかってくる狼に剣を立てる。すると今度は狼の胴体がぐにゃりと歪んで、剣の切っ先を飲み込んだ。得物がずしりと重くなり、クロの身体が硬直する。力を込めているようだけれど、引き抜けない。別の一頭が襲いかかり、クロの肩から右耳にかけてを引き裂いた。

 驚くほど鮮明な血が吹き出し、コートが汚れていく。クロの足元が揺らぎ、体勢を崩した。すると剣を飲み込んでいた狼の身体が緩み、剣が抜け、支えを失ったクロの身体が地面に倒れ込む。


「……かっ、は」


 フィルターが実に愉しそうに片腕を広げた。彼女はどうも、嬉しい、楽しい事があると腕を広げる癖がある。満足げに鼻息を鳴らした後、まるで君のせいでクロがあんな事になってしまったよ、と念を押すように私の腕に置いた手に力を込め、離した。


「やはりここまでなんだよ、クロ。……いいや、6号。いいかい、キミは所詮、ボク達が弄んだ英雄のまがい物だ」


 まがい……なんだって?思わず疑問が口から溢れる。


「英雄のまがい物?」

「そうサ。彼女は、戦争が終結し、英雄が捕らえられてから数十年の間、何度も繰り返された実験の果てに産まれた、六番目のまがい物。英雄の贋作レプリカなんだ。驚いたかい?驚くよね?いや、驚くにしてもどこにだろう?英雄から命を生み出す実験が行われていた事?それとも、一般的な生殖行為をせずに、人間から新しい命が見事に作り出された事だろうか?」


 身体の底で、何かピリピリとした、電撃のようなエネルギーが湧き上がる。これは、怒りだろうか。それとも悲しみ。或いは、衝撃による恐怖。

 その正体はわからないけれど、何かよくないもので、やり場がなければこの身がどうにかなってしまうものだって事はわかる。


「まがい物を生み出した理由については、想像におまかせするよ。トーカ、キミじゃあ到底理解できない趣だからね」


 狼の動きを制し、肩から酷く出血するクロに近づくと、彼女の身体のどこにそんな力があるのだろう、フィルターは素足で剣を踏み砕いた。そして屈み込み、すべてを勝ち誇ったかのように静かに語りかける。


「よくここまで逃げてこれました。褒めてあげるよ。キミはえらい。キミはすごい。ただ、やはりキミではこれ以上逃げられない。だから、諦めてボクと一緒に帰ろう。キミが産まれたあの場所へ、ボクとで」


 この状況は絶望的だ。クロは傷を負い、剣も砕かれた。彼女に斬りつけられ、動きを止めていた狼も、直に動き出すだろう。私も下半身を拘束され、身動きがとれない。このままでは、私もクロも何もできずに、フィルターの思い通りになる。このままでいいのか。


「……………………いやだ」


 嗚咽のような言葉が滲む。何を諦めている。あの獣潜む沼スワンプ・ハウンドが対処できないからといって、恐怖に震えているだけか。のんびり旅をするんだろ。6号と呼ばれようが英雄の贋作レプリカだろうが、クロと一緒に。

 強張っていたはずの身体が、無意識に動く。そうして私は両腕が自由になっている事に、気がついた。





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