114 雨の降る夜に1
彼女たちと暮らして初めて安らぎを得た。
そう言えばザックはあの後平気だっただろうかと、向こうでの出来事を全ては知らない彼は目覚めてから密かにずっと案じていた。
目覚めて把握した状況は、どうやら彼女は自分と一緒に攫われてきたらしいということだった。
その彼女と地下墓所から逃げて、しかし軍医に結局は追い付かれてしまった。終いには自分は死の魔法に掛けられたが、彼女はそれにも怯まず、我が身の危険を顧みず、
――私のを半分あげるわよ。
そう強気に言って、けれど抱き締めてくれた腕は震えていた。
自分と同じ苦痛を味わっているはずなのに、彼女は気丈にも逃げ出す素振りもない。この上なく優しい。だから魔法陣から出て欲しいと抵抗したのに全然駄目だった。
逆に彼女のどこまでも屈さない強固な信念のようなものをぶつけられたようで正直戸惑った。
彼女の腕に力が籠るのを感じて、無条件に大事されている抱擁に、護ると誓うように包まれた温もりに、何かが胸を競り上がるようで、とうとう両目からぽろりと素直な気持ちが溢れ出た。
彼女の腕の中で泣きながら、呻き声一つとして彼女の苦しんでいる声を聞きたくないと心から思った。
それは一粒二粒と涙が球になって零れ落ちる度に強くなる願いで、しかし同時に自分の無力さが身に染みもした。
軍医の言うように自分が彼の家族を殺して復讐をされるような人間なら、それ相応の力があったはずだった。
それなのに、どうして何もできないのだろう。
だからだ。
そうだったから、真っ赤な血が飛んだ。
自分を護って刃物の前に割り込んだ彼女が短くも空間すら
彼女は意識を失くしたのだから当然動かない。ピクリとも。
最初は何が起きたのかわからなかった。
軍医も驚いて固まっていたし、彼は背に庇われていたから見えなかった。
それでも嫌な予感しかなく、次第にどくどくと脈拍が鼓膜の奥にいやに大きく響いてくる。
彼は自分の呼吸が酷く乱れるのを感じた。過呼吸になりそうになったが何とか堪える。
きっと知ったら心が引き裂かれると、そんな予感と言うよりは確信があった。
「アイリス、お姉さん……?」
彼は根気を振り絞るようにして震える手を伸ばし、彼女の華奢な肩を掴むと自分の方に向かせた。
一瞬、千尋の谷底に突き落とされたように背筋が凍った。
感情に色があるのなら襲われた絶望に真っ黒く染まっていたに違いなかった。
「あ……あぁ……目が……ッ、お姉さん、あああ……あぁ」
彼女を避けようとして軌道を変えたものの、軍医のメスはあろうことか彼女の両目を傷付けてしまったのだとわかった。
閉ざされた瞼は無事だったが、両目からは血が溢れているし、目と直線上の鼻筋にも横に裂傷が走っていて痛々しい。うら若い女性の顔に傷が残ってしまうかもしれない。それ所かこの怪我のせいで死んでしまうかもしれない。そう思ったら体が冷えて行くのを止められない。
血を止めないと、とパニックに陥った彼は彼女の頭の怪我を押さえ、もう片方の手で瞼を押さえようとして、しかし怪我をした目を圧迫するのは躊躇って、両手を結局は頭の傷を押さえるのに使った。
べっとりと両手を染めるのは、望まぬ赤。
こんな結末を望んだわけじゃない。
望んだのはもっと単純で、ありふれたものだ。
加えて彼は、こんな状況に陥った自分自身が本当にアーニーという少年なのかがわからなくなっていた。
話の中のもう一人のアーネスト・ソーンダイク。
今はただひたすら、自分が本当にそうだったら良かったのにと彼は思っていた。
それがどんなに最低な人間だったとしても……。
「ここで当たりだったようだな。至る所に魔法の仕掛けが施してある。おそらくは俺たちの来訪も気付かれただろう。急いだ方がいい」
一定範囲を網羅する侵入者察知の魔法と、他にも魔法が掛けられているのをウィリアムは感じ取っていた。
「そうなのか? よくはわからないけど、屋敷内のあちこちに不思議なオーラみたいなのがちょくちょく見えるのは確かだ」
「本当に目が宜しいことで」
「は?」
マルスの訝りには答えず、ウィリアムは今いる場所から一歩を踏み出した。
二人は転送魔法でソーンダイク家の旧本邸の住所に飛び、建物近くの荒れた前庭から真っ暗な屋敷を眺め上げていたのだ。
現在は時間経過もあってすっかり日が落ちている。
王都の方は晴れていたが、ここは気候柄か偶然か曇天だった。
雨は降っていないがいつ降ってきてもおかしくないような湿った風が二人の鼻先を撫で髪を揺らしていく。
敵に気付かれる心配もあって、魔法で周囲を明るく照らすような愚は犯さない。ウィリアムは一人先に暗い庭を言葉通りの急ぎ足で玄関へと向かっていく。
足元の障害物も見えない暗闇にもかかわらず迷いのない足取りなのは、彼が暗視の魔法を使っているからだ。
一方、ウィリアムに大きく置いて行かれないようマルスも後に続いた。
彼はさすがにもうタウンハウスでの時のように不法侵入がどうのと騒ぎはしなかった。こちらは魔法がなくとも山賊稼業で培われた夜目が利くので危なげなく足を運んでいる。
二人が屋内へと消えた庭先はまた元の静けさを取り戻したが、少しして草葉の表面がパラパラと乾いた音を立て微かに揺れ始めた。
その夜、本降りになった雨は数日止まなかったという。
「わたしのせいです。アイリスお姉さん、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。わたしのせいで、ごめんなさい……!」
本当は自分だけで済むはずだったのに、どうして自分は何度も彼女に護られてしまったのか。どうして、彼女から血がこんなに出ているのか。怪我をしているのか。
「わたしにもっと力があったら、もっと大人だったら……お姉さんを護れたのに……!」
自分に治す力があったら、目の前の敵を打ち倒す力があったなら、と彼は痛烈に思った。
彼女はぐったりとして動かない。
このままでは目覚めてまた痛みに苦しむのは必至だ。
無力な自分が嫌だった。
どうして自分は、――魔法ですぐに治してやれないのか。
「魔……法……」
彼は小さく口の中で呟き、自分がそれをどうしてかよく知っていると思った。
「わたしに……わたしに……ッ」
――魔法が使えれば。
「使えれば……? ……ち、がう……違う……――使える、はずなんです」
何故か、自分がそれを容易に使えるという確信があった。
ただし、使うことで何か大事な物を失くすだろう。
しかし、別の大事な何かを護れるなら……手に入れられるならその方がいい。
「ああ何てことだ。大事な血が勿体ない」
しばし唖然となっていた軍医も我に返り、彼女に近付いて来ようとした。
「来るな!」
彼はハッとして直前までの思考を霧散させ体を張って盾になる。威嚇する犬のように睨み上げ低く唸った。
「彼女を傷付けるつもりはない。何しろ大事な大事な金の卵も然りだ。お前は彼女を手当てした後ですぐに殺してやる」
「うあっ!」
大人の腕で振り払われて、小さな子供の体など易々と吹っ飛ぶ。
したたかに全身を打ち付け床を転がりながら、彼は彼女の血の付いた掌を心からの悔しさと共に握り込んだ。
確かに治癒魔法の使える軍医に任せれば、血は止まって彼女の命は助かるかもしれない。
しかし、傷口自体の治癒は出来ても完全に後遺症一つなく治せる腕を本当に持っているのか、彼は些か懐疑的だった。
どうしてかはわからない。
同様の怪我をしたのが彼女ではなかったならば、こんな漠然とした不安は覚えなかっただろうとも思う。
彼女の怪我は間違いなく重傷で、軍医であれ誰であれ血を止められる者が居るのなら一秒でも早く手当てが必要だとは理解している。それなのに任せられない気がしていた。
しかもその後は確実に囚われの身だ。
彼は再度自分に力が欲しいと思った。
「わたしは本当は誰なんですか、どうして何も出来ないんですか、こんなことはもう沢山です……ッ」
打つ伏せのまま、きつく握り締めた拳を床に叩き下ろした。
今一番腹が立つ相手は、軍医でもなく無茶をした彼女でもなく、自分自身だった。
「ふざけるな。ふざけるなふざけるなっ! ふざけるなアーネスト・ソーンダイク!」
子供らしからぬ鋭い目付きで眉間を震わせ歯を食い縛り、滲む涙はそのままに、無意識が、力を寄越せ、いや全てを戻せと命じた。
刹那、ぼんやりと彼の掌に付いていた彼女の血が魔法的な指向を伴って光り出す。
「――!? これは、何……」
ビックリして自らの手を見つめる彼の視界が白く塗り潰されていく。
しかし意識だけは、まるで光量と反比例するように恐ろしくも明瞭になっていく。
呼吸も忘れたまま、彼はその光に見入るように両目を大きく見開いていた。
「なっ魔法だと!? まさか潜在魔力に反応して……いや、思い出したのか!?」
直後、突如生じた濃厚な魔法の気配に、驚愕に目を見開いた軍医の視界までが白く
墓場のような
その靴音の主の一人であるマルスが前方へと目を凝らした。
「変な色のオーラが見えるし、きっとあっちだ」
小さくそう呟いて廊下の途中にある横道へと進路を逸れる。
きっと微細な魔力の流れをマルスは視ているのだろうとウィリアムは思った。
マルスはそれを不審に思うでもなく極々自然のことと受け入れているようだが、魔法使いとして覚醒している者の間でも中々出来ることではない。
魔法を全く使えないくせに、無自覚にも凄い特技を持っているなとウィリアムは感心すらしていた。
彼も魔法の気配を敏感に感じることは出来るが、マルス程魔力その物の流れが見えるわけではない。それでも自分の感覚に引っ掛かったものとマルスの判断が一致しているので、今度こそは時間稼ぎの策などにはめられることもなく、自分たちは間違った方向には進んでいないと確証が持てている。
一刻も早くアイリスを見つけて連れ帰りたかった。
一緒に誘拐されたアーニーがどうなっているにしろ、アイリスだけは救い出すとウィリアムは決意している。
思えば、二人で相談したいことが沢山あった。
どうか無事でと、そんな焦燥を胸に、ウィリアムはマルスと共にあちこちに蜘蛛の巣の張った廊下を駆け抜ける。
そしてその先で、扉の隙間から可視光と共に強烈な魔力の奔流が溢れ出たのを二人は目撃した。
「絶対にあそこだ」
マルスの言葉にウィリアムは無言で小さく首肯する。
突然の爆発的な魔法の気配に思わず足を止めてしまっていた二人だったが、すぐさま走行を開始した。
そして扉を蹴り開けたその先に終に、彼らの捜し人はいたのだった。
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