113 振り下ろされた刃

「大丈夫ですかお姉さんっ、アイリスお姉さんッ……!」

「ああえっと頭は思ったより血が出るから、そんなに心配しなくても大丈夫よ」

「よくもーッ!!」

「あっ、えっ?」


 深遠な真理に耽るって言うか、単純に軍医完全やべえわ~私の危うい令嬢人生どうする~って涙ぐみそうになっていた私の気のないフォローなんて意味がなかったみたいで、血の赤に闘牛みたいに興奮したわけじゃないだろうけど、怒り心頭のアーニーが軍医の手に噛み付いた。

 がぶりと、それはもう見ているだけでも痛そうに。


「ぐうぅっ……っ、こっ……の!」


 でも痛みに逆上した軍医から壁に叩き付けられて、床に落ちるように倒れ込んだアーニーは苦しげに呻いて咳と一緒に血を吐いた。口の端から垂れたその赤が筋を引く。


「アーニー!」


 この時軍医はこの屋敷に魔法を仕掛けた当人として何かを感じ取ったのかハッと表情を変えたけど、私はそれ所じゃなかった。


 すぐに駆け寄ろうとしたけど、傷が痛んで立ち上がりかけた所で膝をつく。


「全く、誰も彼も私の復讐を邪魔しようとするらしい。こうなっては実験など悠長にしている暇もない」

「どういう意味ですか?」

「侵入者だ」

「えっ!?」


 侵入者ってもしかしてウィリアムたちかもなんて、先が明るくなったように思えたのも束の間、軍医は何かの魔法をアーニーへと行使した。

 アーニーを中心に捕らえるようにして魔法陣が出現し、彼の悲鳴にも似た苦痛の声が室内に響く。


「あっ、ぐ、うううっ……あああああ……ッ!」

「アーニー!? 何をしたの!」

「死の魔法だ。この時のために苦労して私独自の魔法陣まで組んだのだ。仇討ちだけでもさせてもらおうか」

「何ですって!?」

「恨むのなら、彼の命を縮めた侵入者を恨め」


 最早人違いかもしれないなんて諭している場合じゃなかった。


「アーニーは殺させないわっ!」


 私は渾身の地団駄でも踏むように足裏に全霊を込めて今度こそ立ち上がった。

 もう最初みたいな悲鳴を抑え、歯を食い縛って苦痛の表情で床に這いつくばるアーニー。そんな彼を囲む魔法陣は、見るからに悲惨な結末を連想させる不吉な赤黒い色をしている。

 それから伸びて彼に絡み付く触手のようにも細い蔦のようにも見える何かが、彼から生命力を吸い取っているように見えた。


「……ってよくよく見たら先端部は人の手の形をしてるんですけどーッ!?」


 ひーっ何あれ気持ち悪ーッ!


「私の積年の恨みつらみがそのような形になったようだな」


 執念の具現化ってこと? だからあんな粘着質そうな手に……。


「しかし正直、気色は悪いな」


 ああそうなのね、軍医も自分で微妙に思ってたのね、それはそれはご愁傷さま~。


「だったら早く解除して!」

「断る」


 にべもないわ。

 じゃあやっぱり正面突破的に行くしかないか。


「うん、よし、ミミズを踏むよりはマシよ、ええきっと! きっとそう! そうに決まってるじゃないっ! 今行くからねアーニー!!」

「何をする気だ、魔法陣に近付くな!」


 地を蹴った私へと軍医は手を伸ばしたけど、火中に飛び込む如く決死の表情を浮かべていた私の形相を見てちょっとぎょっとして動きが鈍った。

 僅差で頭を下げ重心を低くした私を捕まえられずその手は空を掻く。ああだけど令嬢の尊厳を捨てたのかお前って言いたげね。

 フッ、こんな時だもの何ぼでも捨てるわよ!


 決して長くはない距離を駆けながら、私はローゼンバーグ家の離れの噴水を思い出していた。


 死の魔法陣だって魔法なんだし、庭の噴水の爆弾女神像の時みたいに魔法を解除すればいいんじゃないの?

 百パー成功するかって問われればそんな確証はなかったけど、やらないよりはマシよね。

 そう意気込んでアーニーのいる魔法陣に踏み込んだ瞬間、全身が針のむしろになったみたいな痛みと脱力感に襲われた。


「くぅ……ッ」


 立っていられなくて床に両手を突いたけど、傷がある方の手を強く床面に擦りつけてやった。


 剥き出しの石床は表面がゴツゴツと硬くザラザラと荒く、簡単に人の皮膚なんて擦り切れる。

 これで血のセットは完了よ。

 気持ち悪い赤黒くて細い手たちが私にも絡み付いてくるけど、生理的なって言うよりは生存本能からくる嫌悪感を何とか呑み込んだ。怯んでなんていられないもの。


「アーニー、待ってて」

「すぐに離れろ! ただでは済まないぞ!」


 軍医がやや鼻白んだように叫んだけど、ハイそうですかって引き下がると思ったら大間違いよ。魔法陣が展開されている床に傷口を無理無理押し当てたまま、魔法を解除してって強く願った。


 床面に擦り付けた私の血が白く輝いて魔法陣に吸い込まれるようにして見えなくなった。


 やったもしかして成功した?


 俄かな喜色を浮かべた私だったけど、どうしたのか魔法陣はそのままだ。


 受ける苦しさは変わらず、威力が弱まった様子はない。


「何も起きない? どうして……ッ」


 解除が無理ならアーニーと二人で魔法陣から離れればいいと思ったけど、生憎と電流に痺れるように体が動かない。ああもう全くの誤算もいい所だわ。


「無駄だ。その魔法は私にしか解除できない。そして解除しない限りはこの魔法は一度発動すれば標的の魂を食らうまで働き続ける」


 何ですって、履行するまで消せないですって?

 死の魔法を浴びて一瞬で絶命……なんて、生き延びる余地のない魔法じゃなくて良かったって内心で思ってはいたけど、止まらない暴走トラックみたいに死亡エンド一直線なんて冗談キツイわよおおお!


「アイリス、お姉さ……ッ、わたしのことは、構わ……ないで、逃げ……て下さッ、ぃ……!」


 アーニーの小さな手が私を必死に陣の外に押し出そうとしてくれた。


 アーニーあなた良い子過ぎよおおお……ッ!

 自分だって一杯一杯なのに、この子ってば私を巻き込まないようにしてくれている。普通の五歳児だったら助けてって泣き叫ぶ所じゃないの? ねえ? 感動で私の方が泣き叫びそうよ。


 ……アーニーはやっぱりちょっと普通じゃないのかもーっ。


「余計な気は回さない! 逃げる気だったらとっくに地下墓所に置き去りにして私一人トンズラこいてるわよ!」

「お姉さ……」


 感涙を呑み込んで、痛みをねじ込めて声を張る。


 軍医め。そっちがその気なら、受けて立つわ。


「ちょっと魔法陣、手があるなら当然耳もあるわよね! よ~く耳の穴をかっぽじって聞きなさい! 丸々一個魂が必要なら、私のを半分あげるわよ! アーニーからだけ持ってったら許さないんだから!」

「お、お姉さん、何を……!?」

「負担を半分こにすれば、どっちも死なずに済むって計算よ。二人で合わせて一つ分にしようってことよ。アーニーにもこれくらいはわかるでしょ?」


 猿の浅知恵って言われればまあその通りだけどね。

 それ以前に果たして魂って半分になるのかは知らないし、仮になったとして魂半分の人がどんな風になるのかは知らないけども。

 うーん、半透明になったりして?

 それとも、元の半分の時間しか意識を保てないとか?

 食糧が半分で済むなら食費が浮いて万々歳よね。


 啖呵を切った私は、アーニーを抱き締めて死の魔法とやらの攻撃に耐える。


 抵抗するようにアーニーからはぐいぐい体を押されたけど、私は無言でぎゅうっと彼を抱き締めたまま放さなかった。


 勿論、ふはは小童の力なんぞに動じる私ではないわ……って言うんじゃなくて、言葉を尽くすよりも手っ取り早く「護る」って気持ちを行動で示しただけ。


 聡いこの子には伝わったんだと思う。


 ゆっくりと動きを止め、もう抵抗はなかった。


「小賢しい! しかし、ここでアイリス嬢を欠くわけには……ッ」


 一方軍医は、暫し葛藤した後に「忌々しいっ」と毒づいて解除の呪文なのか小さく何か言葉を唱えて魔法陣を消失させた。

 ふっと全ての負荷が掻き消える。

 よっしゃ耐えた~!

 作戦勝ちって言うより無茶しての粘り勝ちね。


 一旦腕を解いたけど、やっぱり痛かったのかアーニーの目には涙が溜まっていて、私はもう一度彼を抱きしめた。


 一応はこれで大きな危機は脱したわよね。少し安堵して、さてじゃあどうやってトンズラをここうかしらって真剣に思案を始めた私だったけど、油断は禁物、安堵は早計だった。


「――仕方がない。直接手を下してやる」

「……ッ」


 軍医は私の服の首根っこを掴んで引き倒すようにしてアーニーから乱暴に離した。


 もう片方の手にはメスを握っている。


 彼はアーニーの前に立ち、その手を振り上げた。


 何をする気かなんて訊かなくとも明白だった。


 今度こそのアーニーの絶体絶命。


 疲労困憊かつ無防備な幼子の濡れた瞳が大きく見開かれる。


「――やめてッ!!」


 気付けば、振り下ろされる刃物の前に私はろくな防御もせず飛び込んでいた。


 私は私を大馬鹿者だって思う。もっと後先を考えて動けってウィリアムがこの場にいたら叱られてたわ。

 アーニーの顔は見えなかったけど、軍医の驚いたような顔が私の瞳に映る。


 最後に。


 刹那、両目に灼熱の鉄でも押し当てられたような想像を絶する痛みが走った。


 激痛が知覚を麻痺させたみたいに、自分が悲鳴を上げていたのかさえもわからなかった。

 突然遮断された視界……ううん視覚に意識が追い付かなくて、とうとう私はドラマでお馴染みの失神というものを来したらしい。

 でもきっと意識があったままだったら、そう遅くなく痛さでショック死とか発狂していたかもしれなかったから、良かったと言えばそうだったのかもしれない。


 ああ、せめて十分前からもう一度やり直せるなら、今度はきっと上手く逃げるのに……なんて詮無いことを頭のどこかで考えながら、私の中の全ての感覚がシャットダウンした。

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