115 雨の降る夜に2

 強烈な光が治まり、眩しさに閉ざしていた瞼をのろのろと押し上げた軍医は、再度、そして先程以上に驚愕の眼差しで直前まで見ていた場所を凝視した。


 そこには一人の青年が佇んで、名残のように一筋の涙が彼の顎先から滴った。


 自らの手を見下ろしている表情はどこか不思議そうで、呆けていると言っても過言ではない。


 服装も高身長に合わせた魔法使いのローブを纏っている。

 青年が無意識に魔法で布地に修正をかけたに違いないと軍医は思った。自分には到底真似できないが、彼程の魔法の実力を有していればそんなことはいとも容易いのだと、軍医は知っている。

 我知らず、軍医は拍子抜けにも似た笑みを浮かべた。


「はは……、やはりソーンダイク卿だったようだな。奇しくも、アイリス嬢の血で死せずして元に戻ったというわけか」


 本当なら、地下墓所で魔法が使えないように拘束して拷問でも折檻でもするつもりだった。更には魔法で精神を刺激して記憶を取り戻せばそれでよし、取り戻さなくても最終的には命を奪えば正体は自ずとわかるのでそれでもよかった。復讐と言う面ではそれで終わりだ。

 その後は蘇生実験の献体の一つとすることも念頭にはあった。

 しかし、そのどれ一つとして実行が適わないまま今に至り、軍医は内心で大いにほぞを噛んでいた。


「アイリス……」


 彼の胸中を知ってか知らずか、青年――アーネスト・ソーンダイクはやや俯きがちにそう小さく呟いた。


 その通るような美声が空気に溶けた刹那、直前までの表情のまま彼は軍医に近い方の腕を何かを薙ぎ払いでもするように横一線に振った。


「ぐあああっ!」


 見えない魔法の拳に殴られたかのように軍医の体は吹っ飛んで、棺の一つに激突する。

 その勢いで長机の上を棺もろとも滑り、白布の中身ごと大きな音を立てて床に落下した。先にアイリスが引っ繰り返したのとは別の棺の中からは、またもや人形が転がり出た。しかも衝撃の大きさを示すように乱れた白布や石床の上にその体の破片を散らかしている。


 人形の顔は先に露見した人形の顔と全く同じと言って良かった。


 双方とも目を開けたまま唇に微かに笑みを乗せていて、どこか優しげにさえ見える。


 人形は軍医の記憶にある妹の容貌に良く似ていたが、アーネストは人形の顔を見てもこれと言った反応を見せなかった。何故なら、彼にはそれが軍医の妹、つまりは自分の義理の母親を模したものには見えなかったのだ。

 彼の中ではもっと醜悪で、聖母にも似た微笑を浮かべるような女ではなかった。


「ぐ……う、ああ、私の人形が……!」


 軍医は嘆いて呻きながらも片腕で這いずっていき壊れてしまった人形へと手を伸ばす。

 両足がそれぞれ変な角度に曲がっているし、使っていない方の片腕は脱臼しているようだった。目に見える部分以外も体のあちこちの骨が折れているのは明白で、こうなると最早致命傷ともなり得る首の骨折がなかったのが奇跡だろう。

 彼は自分自身に治癒魔法を施すということにも頭が回らないようで、破片や本体を無事だった腕に掻き抱いて安堵の息を吐いた。


 そんなどこか憐れな様子へはもう一瞥もせず、アーネストは元の長いの金髪をさらりと揺らして身を屈めると、彼もまた腕を伸ばした。


 両腕に軽々と一人の意識のない少女――アイリスを抱えて立ち上がる。


「アーネスト・ソーンダイク! 貴様を許すものかっ!」


 地面から怨嗟の声が聞こえた。


 口から血を流す軍医のその目は、憎々しげに公爵であり魔法使いでもある青年を見据えている。


「……許すものか、だって?」


 ゆらりと影が動いた。


「それは私の台詞だよ」


 アーネストは靴裏で軍医の脱臼している方の肩を踏み付けると、金の睫毛を伏せわざとらしく憂うようにした。


「私としたことが魔法に振り回されるなんてね。おかげで今まで自分が自分であることもわからなかった。彼女がいなければ今頃どうなっていただろうね」


 或いはこの先も一生凡愚な人間のまま生きたかもしれない、と彼は冗談事ではなく考えた。


 彼女と店の皆と並んで。


「……まあそれも面白い人生だったかもしれないけれどね」


 ふっと浮かべたどこか柔らかな笑みはすぐに掻き消える。


「しかしまあ、私は私でしかないようだよ。それ以外の生き方なんてできないのかもしれないなあ」


 一度足を上げ、同じ場所に靴底を振り下ろす。

 軍医は呻き、悔しげにした。


「くっ……! 私を、殺す……のか?」


 血の混じった唾を吐きながらの眇めた眼差しには、敗者の自棄と諦観が滲んでもいる。

 アーネストは感情のない金瞳で眉さえ動かさずに見下ろして、すぐに興味が失せたように視線を外した。


「正直、アーニーになる前だったらそうしていたかな。ああ、これはアイリスの分だよ。彼女は何倍も痛かっただろうけれどね」


 そう言って彼は未だ痛々しい姿の少女の顔をじっと見つめた。


 その目には直前までにはない温度がある。


 欲しかったものをとうとう手に入れたかのように、この上ない多幸感に溢れているようにも見えた。


 一瞬、軍医は本気でこの目の前の若者が、自分の妹たちを無情にも葬った男なのかわからなくなりそうになった。


「義母上たちには実際命を狙われたとは言え、結局私は死ななかったし、それにあの女は自分の息子を大切に思っていただけだった。まあ、その愛を護るために常軌を逸していたとは思うよ。けれどそれは不運にもこのソーンダイク家に嫁いだが故だろうね。もっと別の家だったなら多少はあのヒステリックな部分もマシだったはずだ。性悪のくそババアとでも思われただけだったろうねえ?」


 ヒステリック、性悪のくそババアという揶揄に軍医はムッとしたが、敢えて何か反論を向けはしなかった。


「これでも、当時感情の爆発に任せてしまったことを、今はちょっとやり過ぎたと思ってはいるんだよ…………この娘と過ごしたせいでね」


 最後の台詞は独白にも似た密やかさだったので、軍医には聞こえなかった。

 だから、と美貌の青年はどこか愉快そうに微笑を浮かべる。


「憐れで愚かな義母上に免じて、マクスウェル卿、あなたには手を下さない。逃げるなら自由に逃げると良いよ。私に復讐したいのならどうぞご自由に。まあ出来るのなら、だけれどねえ?」


 今度は目の前の無様な相手を馬鹿にし揶揄からかうようにくつくつと小さく笑い声を立てていたアーネストは、ふと廊下へと続く扉口に視線だけを送って意味あり気に上下の瞼を狭めると、軍医から足を退かして数歩離れて立つ。


「――ああ、世間を騒がせた吸血犯として、法に裁かれるのもいいかもしれないね」

「法……だと?」


 お前がそれを言うのかという言外の非難を察した彼が口元の笑みを深めた所で、廊下に通じる扉が大きく乱暴に開かれた。


「アイリス!」

「アイリス嬢!」


 部屋に飛び込むように入ってくるなり、アーネストと意識のないアイリスを見た二人の若者――ウィリアムとマルスは、彼女の上に残る少なくない血を見て逆上するように目を吊り上げる。


「案の定、ソーンダイク卿だったな」


 顔は知っていたために一目で相手の素姓を悟ったウィリアムは、決して状況を見極めず感情に任せて攻撃を仕掛けるような愚行に走ることはなかったが、明らかに怒りを眼底に滾らせて低く声を抑え一歩を踏み出した。

 そもそも自分の恋人が他の男の腕にいること自体、彼には容認出来かねていたりする。


「アイリス嬢に何をした!?」


 反対にマルスの方は目を大きく見開いて気色ばみ、父親からの餞別の長剣を引き抜いて即時臨戦態勢に入った。


「私は何もしていないよ。何をされたか知りたいなら、そこの派手に転がっている紳士を問い詰めてみると良い」


 敢えて紳士呼ばわりする皮肉を放ち故意に軍医を貶めたアーネストは、唇に優しげな微笑すら浮かべていたが、その目は実に冷え冷えとしていた。


 一方、軍医へと新たな二人の視線が突き刺さる。


「マクスウェル卿……」

「軍医先生……」


 満身創痍も然りで自力で起き上がれない憐れな男へと、ウィリアムもマルスも同情は湧かない。誰にやられたのかなど聞くまでもないだろう。


「それじゃあそろそろ彼女の手当てもしたいし、お暇しようかな。いいよねえ? ウィリアム君。――と、マルスお兄さん」


 ウィリアムはアーネストの辞去を告げる言葉に警戒を強くし、マルスは「は?」と気の抜けた変な顔をする。

 しかしウィリアムの推測を思い出した少年は、すぐさま現状を理解した。


「まさか、あんたはアーニーなのか……?」


 アーネストは正解の御褒美のように、にっこりと邪気なく笑った。

 そんな笑みを見れば、マルスはまさにアーニーの面影を彼に見る。


「その節は随分とお世話になったね。相部屋も楽しかったよ。どうもありがとう……とお礼くらいは言っておきたかったから、ここで会えてちょうど良かった」

「……魔法って、やっぱりすごいな。アーニーは怪我はないのか?」


 一瞬虚を突かれたようにマルスの顔を見つめたアーネストは、ややあって「ないよ」と静かに答えた。大人に戻った際に無意識のうちに治していたようなのだ。

 一方、聞いた通りの正体だったとしても、いざ目の当たりにすれば魔法とほとんど縁のなかったマルスの目には驚きでしかない。ただ、やや絶句気味だったものの彼はこれが現実なのだと頭では何とか整理を付けて納得はしていた。


「マクスウェル卿が誘拐犯であり、ソーンダイク卿がアーニーだったのならもうこの件は片が付いたも同然だ。貴殿がどうして幼児化したのかを追究するつもりはない。そこは伏せると約束しよう。マクスウェル卿に関しても後はこちらで然るべき処理をさせておくから立ち去ってくれていい。だがアイリスは置いて行ってくれ。彼女には俺が治癒を施す」


 ウィリアムはアイリスを受け取ろうとアーネストへと近付いた。


「それは無理な相談だなあ」

「何?」


 眉をひそめたウィリアムがそれはどう言う意味かと問おうとした矢先、ボッと音を立てて勢いよく室内全ての棺が燃え上がった。

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