104 とある軍医の半生

 男はとある貴族の家に生まれた。


 年の離れた妹が一人いて、彼は妹を溺愛していると言っても過言ではなかったが、妹の方はいつからか兄であるその男を汚物でも見るように毛嫌いするようになった。


 兄の尋常ならざる執着が本能的に嫌だったのだ。


 男の肩を持つならば、彼のその眼差しには劣情など一切なく、心の底から妹を掌中の何か清らかな珠のように慈しみ何者からも傷付けられる事を許さず、大事に大事に羽毛に包んで生涯を護っていこうとするような純然たる善意の執着だった。

 しかし時に純然たるものも度を過ぎれば異質と映る。


 兄を心底嫌悪する妹が破格とも言える良き縁談を機に、さっさと家を出たのが顕著なその証拠だろう。


 嫁いで以降、彼女は兄と鉢合わせるかもしれない実家――マクスウェル家には一切合財寄り付かず、ある日男児を一人設けたとだけ、両親へと便りを送って寄越した。彼は兄として知っておくべきと両親からその事実を告げられた。


 彼の妹が嫁いだ先は名門中の名門――ソーンダイク公爵家。


 家の外では体面を気にして決して見せなかったが、生来から欲深く尚且つヒステリックな妹を男は心配していた。上手く嫁ぎ先で女主人としてやっていけるか、大きな問題を起こしやしないか、と。


 しかし、そんな心配も妹の不慮の死によってする必要もなくなった。


 ソーンダイク家からの手紙には、妹の息子つまりは男にとっての甥も、彼女の死の直前に亡くなっていたのだと書かれていた。

 妹は息子の死を酷く悲しんでの急死だったという。


 そして以後はマクスウェル家とソーンダイク家は無関係だとする旨も、両家のやり取りの最後となったその無情な一通には記されていた。


 両親はそれを読んで大いに嘆いた。

 妹の手により誰がどんな目に遭っていようと、両親にとっては可愛い娘だったのだ。

 男はその当時、ようやく中堅の軍医として基盤を固め活躍を始めていた。

 死に目にも会えず失われてしまった命。一夜だけわざと酒に呑まれて大いに落涙したものだった。


 彼は本当に妹を兄たる自分が護るべき存在として愛していたのだ。


 ただ皮肉にも起きた悲劇に悲しんでいる暇はなく、才能を見込まれ地位が上がり仕事量が増えたために、必然的に今まで以上に仕事に没頭する羽目になった。そもそも彼は妹に言及しなければ誠実で根が真面目な人間なのだ。

 家の諸事も彼がこなした。

 妹の死と公爵家からの薄情な手紙がきっかけで両親は体調を崩していたので、各家との付き合い上仕方がなく父親に代わって様々な集まりに出る必要があったのだ。軍医の職務もあるために、マクスウェル家の小さな領地が王都に隣接していて行き来が比較的容易だったのは彼にとって幸いだったと言えよう。

 その当主代理のおかげと言えばそうかもしれない。


 男はある不審を覚えるようになる。


 当のソーンダイク公爵家では既に甥に代わって庶子の少年が嫡子として立てられて、存外優秀なその少年がいれば公爵家は安泰だと、専ら夜会やサロンなどでも評判だった。

 そこまでは別によくある事だ。

 しかし、妻子を失くしたというのに、集まりで見掛ける度に公爵はまるで彼らの存在など初めからなかったかのように振る舞い、一度だって話題にもしなかった。ただ、何かしら心労はあったのか公爵の髪だけは白くなっていた。

 それでもそれと態度は別物で、男はどこか納得できないものを感じ何度か直接文句を言いにも行ったが、その都度「もうそちらとは無関係だ」の一点張りで、野犬でも追い払うような扱いで公爵本人から無下にあしらわれ悔しさと失意に沈んだ。


(何かがおかしい……)


 疑念を抱いて密かに調査を開始したのはこの頃だ。


 だが、ソーンダイク家を知る者の口は一様に固く、まるで何かに怯えているかのようにその話題を嫌がった。

 何年と、全くと言って良い程に妹の死の真相は掴めなかった。

 二人を埋葬したとしていた美しい湖畔の墓地を密かに掘り返せたのもたった数年前で、実に死から十年以上が経過していた。


 結論から言えば、二人の棺の中は空だった。


 ミイラでも骨でも何でも覚悟はしていたがとんだ拍子抜け。

 遺体は一体どこに行ったのか。

 そもそも死んでいないのではと淡い期待を抱きもしたし、真実死んでいたにしても妹の死には何か裏があると確信した。

 その頃にはソーンダイクの屋敷は捨て置かれたように荒れ果てて、公爵家の住人はとっくに別の場所へといなくなっていたので、人のいない屋敷に侵入し中を調べるのは容易だった。

 庶民が一生掛かっても手に入れられない大きな屋敷を丸ごとこうも簡単に放棄出来てしまう財力には、羨望と呆れを抱きもした。


 探索して屋敷の地下空間を発見し、そこが何と隠された地下墓所だと知った時は、背筋を何か冷たい物が滑り落ちた。


 程なく、彼は二つの棺を見つけることになる。


 外気から遮断されていたせいで、地下墓所の空気は放置された地上の屋敷内程埃っぽくはなかったが、少しは埃が舞うのか蓋は薄らと白くなっていた。

 経過年数がおよそ十年程度と言えばその通りに思えた。


「まさか……」


 急いたように蓋の埃を払って現れたのは、妹の名前だった。


 声同様に震える手で棺の蓋を開け、ついに彼は妹と再会する。


 正確には、妹だっただろうものと。


 最初はまたもや空っぽかと思ったが、棺の底一面にはざらりとした灰が広がっていた。


 この国ではわざわざ遺体を火葬して灰にするのは珍しい。


「ああ……ははは……吸血鬼でもあるまいし」


 死ぬと灰になると言われる吸血鬼だが、この棺の中には銀の弾丸も心臓に突き刺す杭も見当たらない。

 当然だ。彼の妹は異形の魔物などではないし、彼と違って魔法使いでさえない普通の人間なのだから。

 顔からあらゆる感情と共に浮かべていた力ない笑みまでもが剥がれ落ちた。

 もしかしたらと抱いていた生存の可能性はここで潰えた。

 何の関係もないただの灰の可能性もあった。それなのに、何故かどうしようもなく、この灰が妹だと確信してしまった。


 そして、きっと妹は殺されたのだ……とも。


 灰にしたのは、死因が特定できないように証拠隠滅を図ったのだろうと結論付けた。


 実のところ殺し手にそのような意図はなかったが、結果的にそう思われたのはなるべくしての因果だったのかもしれない。


 隣の棺の中も灰だった。蓋には甥の名が記されていた。

 もう一つ、地面に広がっていた灰の山があったが、それについては頓着しなかった。どうせ誰とも知れない者の残骸だろうと判断したからだ。

 一体どうして彼女達のこのような末路を想像できただろう。


「誰が、こんな、酷いことを……っ」


 ぎりりと、ヒビさえ入る強さで合わせた歯を軋ませる。


 この日、善良だった彼の心の針が歪に折れ曲がった。


 或いは、折れた鋭い針先が心に刺さって小さな穴を開け、そこから何か毒のようなものがひたひたと入り込んで蝕んでいったのかもしれない。


 決して傍目にはわからず、静かに燃えゆく熾き火のように彼の精神は狂気と復讐へと傾いていった。





 以前からソーンダイク公爵家には謎が多く、近年の代替わりの際にも盛大なお披露目などもなく、新当主が国王へと挨拶がてら謁見しただけだったという。


 かと言って当代の若き公爵は人嫌いというわけではなく、暇があれば社交界の集まりにも出席していた。

 どこかとっつきにくく横柄だった先代とは異なり、一度言葉を交わせば彼を悪く取る者はなく、社交的で人当たりが良く外見的にも人を惹き付ける麗しい青年だと評判だった。

 他の二つの公爵家同様、彼が王位継承権を持つ王子である点も、彼の元に人が集まる理由の一つだろう。


 本来ならば自分の甥が就くはずだった当主の座に収まった青年へと、男が目を向けるのは自然な流れだった。


 当時は幼かった若き当主が妹の死に関与していたとは到底思えなかったが、それでも何か証拠への手掛かりにならないかと細心の注意を払って探っていた。

 予想通り何も出なかったので、だから男は目の付け所を変えてみた。


 亡くなったとも囁かれていたが、実際の所はまるで存在を隠されるようにして遠い地で病気療養中だという先代公爵に会いに行ったのだ。


 これも男が軍医としての権限を最大限使って情報を入手できたおかげで知れた事実だ。


 そもそも、最も疑わしいのはその先代なのだ。


 この時には彼もそこそこの精神魔法を習得していたので、先代に自白魔法でも行使してやろうと考えていた。

 久しぶりに会った先代公爵は、男が自分はマクスウェル家の人間だと告げても無反応。覚えてはいないようだった。

 彼にとっては最早人間は皆等しく知らない誰かなのだ。

 しかし早々に諦めるわけにもいかず、二人きりになり妹の名と地下墓所、そして殺人の可能性を切り出した途端、先代は恐慌を来したように頭を抱え延々と赦しを乞い始めた。

 ずっとずっと彼の心には罪悪感と言う名の澱が溜まっていて、それが平均よりもずっと若い年齢での健忘を齎す程に精神を苛んでいたのだ。

 男の両親よりもずっと若いはずのかつての義理の弟は、恐怖と罪に押し潰された憐れな老人にしか見えなかった。


 彼のその口から、繰り返し繰り返し漏れ聞こえる当時の出来事の断片を拾い集め、大体を把握した。


 無情かと思っていたが、二人の棺を用意したのは先代自身だったらしい。


 ただ初めは信じられなかった。やはり妹達は殺されていて、しかもそれをやったのがあの若当主だったなど。


 されど錯乱した前公爵がこの期に及んで嘘をついているとも思えない。


 事実だとして、その若当主が当時まだ十歳にも満たなかったと考えると、男は憤りの他に背筋に怖気のようなものを感じた。

 ソーンダイク家が血筋的に魔法使いなのは知っていたが、幼くして大人をも凌駕する実力者という話は終ぞ聞いた記憶がなかった。その事実の隠蔽だけでも相手がただ者ではないのは理解した。


 妹もまた、当時は無辜むこだったその少年を殺そうとしていたとも知ってしまい、胃の奥から苦いものが込み上げたのは否めない。


 しかし、彼はそれでも妹を心底愛していた。


 善も悪も、倫理観さえも捩れてしまう程に。


 故に前公爵からの告白の後、二つの棺の前に舞い戻り跪き、必ずやの者に裁きをと誓った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る