89 小さな惑い人

 一人屋敷を出たアーネストの目に映る夜更けの王都は、吸血鬼騒動の影響で静かだ。

 とは言っても大通りなら街灯もあって明るく、人通りは皆無ではなかった。

 狙われるのは皆女性ということで、こんな夜更けでも男性の姿はある。極々稀に女性の姿も。

 他者からは姿が見えないような魔法を掛けて歩いているので、魔法使いだと一目瞭然の黒ローブ姿でも物珍しい目を向けられる心配もない。

 仮に通行人の足を引っ掛けたとしても、誰に見咎められることもない。


 無論、彼の顔を知っている者にも気付かれはしないだろう。


 気の向くままに大通りから細道に折れる。

 急激に街灯が減って薄暗い道には、男性の姿もほとんど見られなくなった。更にもっとひと気も街灯もない裏路地に入れば、居たとしても酒瓶を身辺に転がし壁に凭れる酔っぱらいくらいだ。

 憐れみなど皆無だが草臥れたような酔っぱらいへと気まぐれに金貨を放れば、相手からすれば誰もいない所から飛んできた硬貨に、喜ぶどころか一気に酔いが醒めたように慄くと、その場から脱兎の如く逃げて行った。ただしちゃっかり金貨を持ち去るのは忘れない。


(憐れ……)


 今度こそアーネストは蔑みと同情の微笑を浮かべた。

 大抵の庶民は銅貨か良くて銀貨しか持っていない。

 しかもこんな場所にいるお世辞にも身綺麗とは言えない人間が金貨など到底持っているはずもない。

 そんな男が金貨を持っていることで生じる災難を容易に想像できての笑みだった。

 夢見の悪さの留飲が少しだけ下がった。

 暗い路地にぽつねんと一人佇む彼は、幽霊の一つすら現れそうもない路地の奥を詰まらなそうに見つめて再び歩き出す。


(今までも散々襲っておいて痕跡を残さないなんて、吸血鬼殿は凄腕? それとも、魔法使いだったりするとか? けれどどうして女性の血を欲するんだろう? 魔法の飛躍のためにアイリスの血を欲する私とは用途が異なるのかな?)


 アーネストも未だにアイリスの行方は掴めていない。


 彼もまた、先んじて念入りに捜索された王都は除外して各地を捜し続けていた。

 正直な所、彼は彼女が一人で逃亡するとは思わなかった。

 面白い展開になったとは思うが、それもこうも行方知れずが長引けば、面白いだのと言ってもいられない。

 関知のほかで彼女の身に万一のことが起きれば、大変貴重な材料の消失だ。それは頂けない。


 加えて、彼女には色々と訊いてみたい事もある。


 あの地下牢で訊ね彼女が答えた好きな猫の種類「アメショー」など、こちらの世界にはない種類名だ。


 そもそもアメリカンという言葉がない。外見上似ている猫はいるが、名称は全く異なるのだ。

 彼女にも異世界の知識があるのだと思って間違いなかった。

 果たして彼女はどの時代のどこの国の人間だったのか、とても興味がある。

 ふと、彼の視界に雨ざらしで傷んだ掲示板上の人相書が入った。

 アイリスと、その他手配中の犯罪者たちの顔が並列に貼られている。


「全く、広場ではこの先もう処刑なんてされないよう折角お膳立てしてあげたというのにね、無駄にして一体どこにいるのやら」


 彼はそう小さく不機嫌な声を落として、通り掛かった真っ暗な横の路地の奥に目をやった。


 気配と言えばいいのか、そんなものを感じ取ったのだ。


 魔法に長けているので暗視の魔法も容易に行使できる彼のその視力で見つめた先で、今まさに女性が襲われようとしていた。


「きゃあああああっ!」


 甲高い悲鳴が上がる。


(あれは……)


 ただの暴漢だったなら彼は無視して優雅に夜の散歩を続けただろう。


 しかし、襲う何者かの手から魔法が放たれたのを目撃し、爪先をそちらへと向けた。間違いなく血を抜くための魔法が行使されたのだ。


(ふうん、あれが吸血鬼……いや、吸血犯か)


 顔から血の気の引いた女性がどさりと地面に倒れ込む。

 アーネストは姿を消す魔法を維持したまま、その何者かの傍に近付いた。


「こんばんは」

「――!?」


 当然ながら彼の接近に気付かなかった相手は、驚きに息を呑んで忙しなく辺りをきょろきょろと見回すと顔色を変えた。声がしたのに誰の姿もないからだ。

 だからだろう、咄嗟に防御のためなのか懐から出した何かの粉末を掌に広げて魔法を発動させた。

 その掌上の粉が白く光る。


「挨拶も返さずして攻撃してくるとは、無礼千万もいいとこ、ろ……?」


 今夜は夢見のせいで体を巡る魔力の感覚がおかしかった自覚のあるアーネストは、彼にしては珍しくも相手の実力など高が知れていると油断していた。事実、感じ取れる相手の力量は標準より僅かに上程度で、アーネストの敵ではなかった。

 故に、相手の持つ魔法具にも警戒を怠っていたのだ。


(――っ、雑魚にどうしてこんなに強力な魔力が……?)


 訝しみ、相手が手に持つガラスの小瓶の中身を見た瞬間、アーネストは諸々を理解した。


 茶色く乾いて粉状になってはいたが、それは紛れもなく人の血液だ。


 ここ王都で血を欲する魔法使いの目的を推測するのなら、の伯爵令嬢が巻き起こした広場での一連を忘れてはならなかったのだと、アーネストは自らを小突きたい気分だった。


 何もあの時、彼女の魔法を見ていた魔法使いは彼だけではなかったのだ。


(間違いなく、この吸血犯のターゲットは彼女――アイリス・ローゼンバーグだ)


「なっ! どうして勝手に!?」


 対処が遅れ相手の魔法に捕捉されてしまった刹那、その相手が焦りに叫んだ。


(なるほど犯人は男か)


 声からそう判断した。

 その一方では掌上だけではなく小瓶の中身までもが白く光り出し、夜の細い路地に一瞬、目を灼く魔法の閃光が広がった。

 アーネストの脳裏に唐突にも幼い頃の記憶が溢れ出す。


(これは……!)


 発動されたのは記憶操作系の魔法に違いなかった。


 しかも術者の思惑以上に魔法が暴走している。


 何しろ、小瓶の中の血までが原動力となり、必要以上に現行の魔法に影響を及ぼしているのだ。


 彼女が処刑舞台上に垂らした少量の血を、密かに回収している者が居たとは思いもしなかった。


(ははっ……これは完全に私の落ち度だね)


 間抜けにも、自らが招いた厄介事の落とし穴に落ちたも同然だった。

 どこか滑稽な気分になりながら、こんな笑えない事態は後にも先にもこれっきりにしたいと嘆息した。


(ああ、自分でもこの先どうなるのか予測が付か、な……ぃ……――)


 体から否応なしに力が抜けていく。


 アーネストの意識は抗う術もなく強制退場させられた。


 ややもして光が治まった後、この場に居た一人は逃げおおせ、一人は貧血で昏倒し、もう一人は……。


「リズ! 向こうだ!」


 路地の向こうからバタバタと足音が近付いて、まもなく今夜の事件が明らかになる。


 しかし、今夜だけはいつもとちょっとだけその様相が違っていた。





 今夜もまた吸血被害者が出たせいで、襲撃現場はものものしい空気に包まれていた。

 人が倒れているとの深夜の通報に、王都を巡回する当直組の兵士達が真っ先に駆け付けた。残りは叩き起こされて後からやってきたようだった。

 そんな王都警備兵達だが、現在は物証がないかと暗い路地をいつにない明るさで照らして現場検証中だ。

 既に犯人は逃走し姿はなく、居るのは意識を取り戻しその場で事情聴取とそしてベテラン男性軍医からの問診を受けている若い女性と小さな子供、そしてザックだ。

 酷い貧血を起こし傍らの兵士に支えられてはいるが自分の足で何とか立てている女性の証言から、彼女が間違いなく吸血の被害に遭ったのだと断定されたのだ。


 ザックは悲鳴を聞いて現場で倒れている二人を発見した事になっている。


 彼が直接最寄りの王都警備隊の詰め所に駆け込んで通報したのだ。





「ザックは大丈夫かしら。嘘がバレないといいんだけど」

「心配はいらないと思う。ザックだし」

「ああ……そうよね、ザックだし」


 私とマルスは現在、二人で処刑どころに戻ってきてお客が誰もいない店内の適当な椅子に腰かけて、ザックの帰りを待っていた。


 悲鳴を聞いて駆け付け、被害者らしき二人を見つけた私とマルスだったけど、正直あの場ではどう対処しようかって本気で悩んだのよね。

 地面に横たわる二人の身に何が起きたのかはその時点では素人にはわかりかねたから、とりあえず急いで傍に膝をつくと息をしているかだけは確認した。だってもしも呼吸がなければ人工呼吸だって考えないといけないもの。

 幸い呼吸はしていたから、それじゃ後は私かマルスが警備兵に知らせに走るしかないってわけだったけど、そこで二人で難しい顔をして唸る羽目になった。


 だってねえ、いくら変装しているとは言え王都の兵士となんて、出来ればお近づきにはなりたくない。


 元山賊のマルスだってそうよ。彼の場合パッと見山賊だなんて思えないけど、慎重になっておいて損はないでしょ。

 よく刑事ものとかじゃ、妙にその手の嗅覚に優れている人間っているじゃない。兵士の中にそんな才能持ちがいて下手に調べられて素姓がバレれば、マルスだってタダじゃすまないもの。


 でも、結局はほんの短い逡巡の末には人助け優先だわって腹を括った。


 だけど、時に物事って驚くくらい上手く運ぶのよね。


 天の助けって感じで何とザックが路地向こうにランプを手に現れたのよ。


 実はザックもザックで、すぐそこにゴミ出しに出ただけの私たちの帰りが遅いのを気にして、万が一を考慮して捜しに出てくれていたみたい。

 更には何と、私たちが何かを頼む前に、こっちの事情を知るザックが身代わり発見者になってくれるって提案してきた。

 これには正直驚いたけど、有難かった。

 本音も建前もなく「あざーっす!」ってあっさり躊躇なく全部お任せしたわよね。

 そのザックが警備隊を呼びに行っている間、意識のない無防備な二人を放っておくわけにもいかないし、私とマルスで兵士達が到着するギリギリまで留まって、彼らに見つからないよう入れ替わるようにして襲撃現場を離れたって流れよ。


「でもまさかこんな近所で事件が起きるなんて思いもしなかったわ。もしかして吸血事件かしら?」

「ザックが戻ってきたらわかる」


 マルスの言葉にそりゃそうだと頷いて、私は木のテーブルの上に顎を乗っけた。

 私達はまだ詳しい話を何も聞けていない。

 だから何もかにもザック待ちだった。

 ここに帰ってきて早々は眠気なんて感じなかったのに、安心できる場所でじっとしていたら段々と眠くなってきた。

 まあ、時間的にも肉体疲労的にも眠気を感じない方がおかしいわよね。マルスはどうだか知らないけど。


「アイリス嬢、そんな変な姿勢で寝るのはよくない」

「……寝ないわよ、ザックが帰ってくるまでは」


 ホホホ、彼が帰ってきて一秒で寝るかもしれないけどー。

 ともかく、私なんかは半分瞼を落として二人でザックを待っていると、少ししてお待ち申し上げておりましたーのザック様が帰ってきた。


「あ、お帰りなさいザック。色々とありがとう」

「お帰り。助かった」

「何だ、待っていてくれたのか」


 眠いのを我慢して話を聞こうと、ホール入口に姿を見せた彼の所に行こうと腰を上げた私だったけど、視界の中にキラキラした色が入ってきた。


「え? どうしたのザック!?」


 人相が変わるくらいにほとんど半目だった私の両目は、ビックリした猫みたいに大きく丸くなっていたと思う。


 だって、小さな体をザックの後ろに隠れるようにして、金色の頭がちょこんとこっちを覗いていた。


 袖も裾も長過ぎて余りあるブカブカの黒いローブを引き摺って。


「それが実は……この子は記憶喪失らしいってんで、一先ひとまずはうちで預かることになった」


 ザックから簡単に話を聞けば、一緒に倒れていた若い女性とは全く関係のなかったらしいその小さな男の子は、ザックに促されるようにして彼の隣におずおずと進み出た。

 肩に付くくらいの長さの金の毛先がさらさらと揺れる。

 実は現場じゃ、髪の長さから女の子かもって思いもしたけど、ローブ下に着ていたこれまたブカブカな男性服から男の子だって思ったのよね。因みに上等な服だった。


「よ、よろしくお願いします」


 照れているのか、それとも怯えているのか、男の子は下唇をちょっと噛むと困ったような上目遣いで私とマルスを交互に見つめてくる。


「かっ……!」

「か?」


 私が変に言葉を詰まらせたのを聞き取って、傍のマルスが心底怪訝な顔を振り向ける。


「ねねねえマルス、何この子っ何この子~~っ!」

「ア……リズ、一体どうしたんだ?」


 子供とは言え見知らぬ相手の前だからか、マルスは律儀にリズ呼びしてくれた。

 その感謝を胸に私はやや興奮染みた声を上げる。


「どうしたもこうしたもないわよ、この子、この子っ――か~わ~い~い~っ!」

「「「…………」」」


 この場の男衆は三者三様の反応を示した。

 マルスは呆れたように、ザックは何だか微笑ましそうに、そして男の子は怯えたようにまたザックの後ろに隠れてしまった。

 あらあら別に取って食べたりしないのにね。


 まあそんなわけでこの日、小さなシャイボーイが処刑どころの一員になった。


 本当にアーネストなんかを一瞬でも連想してごめんねって思うわ。


 だってあのワル魔法使いがこんなに可愛かったわけがないものね!

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