88 とある魔法使いの生い立ち

 彼が物心付いた時には、全身が痣だらけだった。


 大小の擦過傷も数えれば切りがなかった。

 体は常に鈍痛とヒリヒリに苛まれていたが、しかしそれが普通だと思っていた。

 彼を痛ぶる二歳年上の兄は一つも怪我なんてしていなかったが……。


 それを疑問には思わなかった。


 何故なら兄は正妻の子で、自分は取るに足らない商売女の子。


 所詮は父親が酒の勢いで孕ませた女の子供だと、彼は自覚無自覚にかかわらず、生まれた時からずっとそう蔑まれてきたのだ。

 実母はまだ幼かった彼をあっさり父親へ売り渡した。

 きっと男を引き込めないから邪魔だとでも思っていたのだろう。


「お前は十歳まで生きていてはならない!」


 理由は知らないが、彼は引き取られてからは狭い部屋に監禁され、実父と継母、そして兄から毎日そんな趣旨の言葉を暴力と共に叩きつけられていた。

 更には父親は彼を望まない子だと明言さえした。

 多数決ではないが、屋敷の皆が同じ事を言い否定もしないから彼はそういうものだと無感動にも思って受け入れていた。


 十歳までに死ねと言われているのに悲しいとは思わなかった。


 感情がないというよりも、周囲との接触を制限され虐待されていた生い立ちのせいでどこか麻痺していたのかもしれない。普通を知らなかったので自らの家族がどこかおかしいと感じる思考すらも生まれなかった。


 家族と言えない家族達は彼を執拗に痛め付け続けていたが、小さい頃はどこか愉快そうにしていた顔も彼が成長するに従っていつしか苦々しそうなものへと変わっていた。

 自分はいくら殴られ蹴られ斬りつけられようと、我慢できない痛みを感じると無意識に自己治癒魔法を使って傷を治してしまうらしかった。

 致命傷ですら難なく治癒してしまう。


 代々この一族に生まれる男は皆魔法使いだという。


 父親も兄もそうだ。


 そしてその血を引く彼も例外にはならなかった。


 だが、父親や兄がいくら強力な殺傷魔法を使おうと、彼の魔法の足元にも及ばなかった。つまりは格が違い過ぎて殺せないのだ。

 そんな事実はしかしどうでも良かった。だから彼らは苛立ったような顔をしていたのかとただ理解しただけだ。同時に、どうして腹を立てるのだろうとは思った。殺したい程に嫌いなら屋敷から放逐すれば良いではないか。そもそも最初から引き取らなければ良かったのだ。


「どうしてお前は死なないんだ! 死ねよ! お前がいると一族に災いが降りかかるんだぞ!」


 いつも兄は彼を殴る蹴るしながらそんな風にギャンギャン叫んでキレていた。

 意味がわかりかねた。

 言っている内容が解せないばかりか、この家の人間はどうしていつも自分に干渉してくるのだろうと彼は微かな煩わしさを覚え始めていた。

 ごめんなさいと地面に這いつくばりながら浮かべた従順な微笑の仮面の裏に巧みに隠しながら。

 それでもこの時はまだ彼は特に何への興味も執着もなかったので、本心から死んでも良いと思っていた。


 そして、彼の十歳の誕生日が目前に迫ったある日、大きな転機が訪れる。


 その日、父親が高位の魔法使いとやらを連れてきた。


 その魔法使いと家族に見張られるようにして彼は一族の秘密の地下墓所に連れて行かれた。

 何故墓なのか、そんな疑問はわかり切っていて疑問にすらならない。

 点在する燭台の上で小さな炎が揺れる薄暗く不気味な地下墓所で、抵抗する気もなかった彼はあっさりとその魔法使いの魔法に捕まってやった。

 自己治癒魔法も追い付かない、徐々に命を削られ確実に死に至る死の魔法陣に囚われて地面に磔にされたまま身動きが取れない。


「父上、どう…して、私を殺す…の、ですか?」


 せめて理由を知りたいと問えば、父親は息子の苦痛の表情にも眉一つ動かさない冷酷さで告げた。


「この家門の栄華が保たれるには、後嗣は必ず一人と定められているからだ。跡継ぎでもない者が十を過ぎれば、この家門が滅びる。故にお前は生きていてはならぬのだ。お前に生を与えた我が過ちの許しは乞わぬ。過ちがあれど、先祖も代々この家のために手を下してきた」


 真実が聞けたのは良かったのか悪かったのか。


「それは……もしや、託宣…なの、ですか?」

「そうだ。いつのお告げなのかは知らぬがな」


 大真面目な父親の回答を聞き、彼は馬鹿らしさに生まれて初めて失笑を漏らした。

 何か嘲りの言葉でも放ってやろうと思った刹那、今までの痛みの比ではない激痛が全身を駆け巡りそれは脳髄まで蝕むようだった。

 死の魔法の終盤に差し掛かっているのだ。

 冗談抜きに痛過ぎて気が狂いそうになる。


「――ッ……ウッ、ウゥゥく……っ……ふ、はっ、ははは、はははは、アハハハハハハハ!」


 いや、既にもう狂っていたのかもしれない。


 ずっとずっと昔から。母親と暮らしていた時から。それこそ生まれた時から。


 ――まるでそうなるのが初めから決まっていたかのように。


 一つ言えるのは彼らがきっかけをくれたのだ。

 堪え切れなかった大哄笑の中、しかし、死への流れは止まらないと悟っていた。

 こんな瀬戸際で目が覚めたなんて愚かにも程がある。今更ながらこの理不尽を強く呪った。

 どうして、どうして、どうして、自分はこんな運命だったのか。

 本当かどうかもわからない一族の呪いなんて正直どうでもいい。殺伐としたこれまでの日々は全てが無味乾燥で無価値だった。何の価値もない人生だった。


「ああ、ははは、はは……」


 最早痛みは痛みとさえ感じず意識が混濁してきた。

 彼は、自らを手招く死を指先のすぐ向こうに確かに感じていた。

 あたかも手に取るように繊細に、親密に。


 十年にも満たない短い生が終わりゆく――…………かに思われた刹那、怒濤のように流れ込んできたものがあった。


 沢山の沢山のどこまても途切れない沢山の映像だ。


 誰かの意識と記憶が、今まさに途切れて消滅しようとしていた彼の意識を刺激し揺さぶり起こした。


 見知らぬ場所、見知らぬ知識、見知らぬ人々、見知らぬ……この世界ではない――文明世界。


 その見知らぬ異世界人の持ち得る記憶の全てを彼は体験するように味わった。彼にとっては目新しいものばかりで、喜びも悲しみも怒りもその他の感情も全知した。

 しかしそれでも彼は一切何も感じなかった。


 その間、異世界人の意識――魂と言っていいものが、料紙に墨が染み込むように彼を乗っ取ろうとしているのはわかった。

 奪われてしまえば最早彼自身ではなくなると感覚的に悟った。


 つまりはそれ即ち――死だ。


 徐々に薄くなっていく自分の感覚に、この時彼は初めて人間らしい戦慄と濃く粘つくような憤りを感じた。

 このまま取って代わられていいわけがない。

 空になりそうだった器に無理やりねじ込まれたような形ではあったが、その魂は喜々として器の主導権を奪おうとしている。

 ふざけるな、と思った。

 完全な敵意が腹の……魂の底から渦を巻いて湧き上がる。

 自分の体を開け渡してなるものかと思った。

 もう蹂躙されるだけの存在でいて堪るかと強く決意した。


 極限の怒りが大きな意思のうねりを生み、別の世界で死んだ矮小な人間の魂を呑み込んですり潰した。


 凪が訪れ、ようやく思考がクリアになる。


 わかり易く言えば、彼は相手の魂を食ったのだ。


 知識も記憶も我が物とした。


 城の尖塔などの比ではない高層ビルが林立するその異世界では、この世界から見れば魔法のようにしか見えない科学が発達し、逆に魔法の一切は創作物の中の物としてしか存在しなかった。

 そのくせ、この世界の魔法の概念にほとんど近い物がまるで実際に見てきたかのように創作上で数多に綴られているのだ。何とも不思議だった。

 それも含めて知りたい事が沢山出来た。

 魔法を極めていけば誰も未踏の魂の領域すら自在に操れるかもしれないとも思った。


「なあおい、こいつは死んだのか?」


 彼が苦痛も上げず黙ったまま動かないのを見て取って、兄はドブで死んでいる鼠でも見るような嫌悪の声で魔法使いに確認した。

 魔法陣が薄れて消えていく様子に魔法使いも「はい」と肯定する。

 ハッ、とこの場の誰からも見えない位置で彼は嘲りを浮かべた。


 確かに今ここに「一個の魂」の死が訪れ死の魔法は終了したのだ。


 だからせめて、自分の代わりに逝った魂への手向けとして原因をきっちり清算してやろうと思った。

 彼は拘束が解け自由になった体でゆっくりと立ち上がる。

 生きていた彼へ、家族も高位魔法使いも度肝を抜かれて凍り付いた。


「ど、どうして死んでいない?」


 呆然とそう呟いた魔法使いを手始めに葬った。断末魔もなく灰になった。

 次に継母と兄を一緒に葬った。同じく灰になった。


 父親は殺さなかった。


 まだ生きていてもらわなければ都合が悪かったのだ。

 どちらにせよ、兄が居なくなった時点で一族の後嗣は必然的に彼となる。

 表向き、夫人と嫡子が不慮の事故で世を去った事になった。

 それ以後は屋敷の使用人の間でも居なくなった者の話は一切口に上る事はなかった。一言でも話せば二人と同じ目に遭うからだ。


 父親は恐怖にすっかり髪を白くし精神を病んだが、もう彼を殺そうとはしなかった。


 そうして彼は跡継ぎとしての全てを享受し、今の彼へと緩やかに坂を転がるようにしてより歪み、成っていった。





「――ハハ、ハハハ、はあぁ……どうして昔の夢なんて……」


 深夜、夢見の悪さにハッと目を覚ました彼は一瞬真っ暗な周囲にまだ地下墓所の中なのかと混乱しかけたが、すぐに自身の現状を把握し思考を落ち着かせると指先の小さな動き一つで室内のランプに火を灯した。


 魔法だ。


 彼は今夜も魔法理論を追求しているうちに魔法実験用のテーブルに突っ伏したまま眠ってしまっていたのだ。

 簾のように垂れて視界を塞いでいた髪を緩やかに掻き上げればさらりと金色の長髪が肩を滑った。

 ここは王都に所有する彼の屋敷にあって、今まで誰も立ち入らせた事のない彼の実験部屋だ。

 地下にありそこそこ広くはあるが壁際の書棚には所狭しと書物が差し込まれ、入り切らなかったものなのか床から堆く積み上がった書物の塔も幾つも見受けられる。その他地図や図表、実験器具や魔法陣を落書きしたような紙の切れ端などが無造作に置かれていた。


「ふう、詰まらない夢を見るから変に目が冴えちゃったなあ。散歩でもしようか。上手くすると巷を騒がせている吸血鬼殿に遭遇出来るかもしれないしねえ」


 無聊を慰めるように自身の長い髪をくるくると指先に巻き付けて解くと、彼――アーネストは徐に腰を上げ一人静かに実験部屋を出るのだった。

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