80 沈黙の日記

「ここは仲間内でも余り使っていない場所だ。体力が戻るまではくれぐれも不用意に外に出て見つかったりしないように。荒くれ者が多いからな」


 私と向かい合うように丸太の椅子に腰かけて、手際よくだけどちょっと大袈裟かなって思うくらい念入りに手当てをしてくれながら少年はよくよく注意をくれた。


「あなたの仲間って?」

「山賊」

「あ、へえ……」


 それってうっかり見つかったら私の貞操は保証できないって意味よね。こんな山奥じゃ女に飢えてそうだし。……ま、まさかこの子も山賊なんだろうし、そうなの?

 こんな暗がりに連れ込んで介抱してくれたのは、そういう目的で……?

 私の眼差しから何かを感じ取ったのか彼はちょっと気分を損ねたようだった。


「……僕をそういう目で疑っているのなら、無駄な心配だ。そういうのは流儀に反する」

「え、でも私を着替えさせてくれたのってあなたでしょ?」

「仲間の女性だ。僕じゃない。口止めも頼んだから心配もない」

「えっ女の人もいるの!? 大丈夫なの!?」


 だってだって今さっき貞操がどうとか臭わすような事言ってたわよね?

 酷い想像が頭を過ぎって青くなっていると少年が表情を変えないまま嘆息した。


「仲間の女性達は強いし、そもそも仲間の番に手を出すような者はいない。掟破りで死刑だ」

「へ、へえ、山賊にも厳しい掟があるのね」


 何だか大航海時代の海賊みたい。歴史を生きた海の荒くれ者にも彼らの秩序を保つための厳しい掟があったって言うし。


「でもあんたは違うから、危ない」

「あー、なるほど」

「すごく綺麗だから、所有物にしたがる奴に群がられる」

「そ、そう」


 しし心臓に悪いわね。

 何気にしれっと綺麗とか口にするんだもの。まあ他意はなさそうだけど無自覚でたらし込む罪作りなタイプなんじゃないかしら。なまじ顔の造りはいいからウィリアムで鍛えられてなかったらちょっとときめいちゃったかもね。

 手当てが終わると彼は長居は禁物とでも思ったのか手当て道具を手に腰を上げた。


「まだ休んでいた方がいい」


 視線でベッドを示すとくるりと踵を返す。


「あ、ねえ、重ね重ねホントにありがとう! あなたの名前は? 私はアイリスよ」


 彼ってば立ち止まったかと思えばジッとして答えないから名乗る気がないのかと思ったわ。まあ別にそこまで知りたいってわけでもないからいいけどね。


「…………マルス」


 そうかと思えば渋々と言った感じが半端なかったけど教えてくれた。

 へえ、ギリシャ神話の軍神の名前と一緒だわ。まあこっちの世界にギリシャ神話はないだろうけど。


「マルス、マルスね、覚えたわ。カッコイイ名前ね」

「……どうも」

「マルス君で良い?」

「……マルスいい、アイリス嬢」


 少年――マルスは振り返らずに歩いて行く。

 その背中にぐううう~っと私のお腹から放たれた予想外にも大きな音が届いた。


「「…………」」


 ま、まあお腹だってきちんと働いて何ぼよね。


「う、ええと、アハハ……」

「少し待っていてくれ。何か食べ物を持ってくる」


 羞恥心に閉口しているとマルスがそれだけ言い置いて今度こそ去っていく。

 こんな状況じゃ彼の厚意に縋るしかないんだけどそうは言っても助けてくれて世話してくれて、更には食べ物まで分けてもらえるのは素直に心から有難い。

 ここで体力を戻したら私の処罰がどうなっているのかを調べて皆に連絡を取ろうと思う。


「だけどもしも……」


 マルスに私が逃亡犯だって知られたら突き出されるかもしれない。或いは既に知っている可能性も考慮に入れないと駄目よね。


「ギロチンからの逃避だっただけに、賞金首とかになってたらどうしようかしら……。ハハ、その時はその時よねー」


 今は小さな卓の上でただの日記になっている相棒に詰まらない冗談を向けられるくらいは、私はまだ呑気だった。

 耳を欹て、マルスの気配がすっかり遠ざかってから日記へと目を向ける。


「もう起きてもいいわよ」


 暫し待ってみたけど日記から反応はない。


「寝てるの? 日記ってば?」


 洞窟内に私の声だけが虚しくこだまする。


「日記……?」


 ここにはもう誰もいないのに声を掛けても日記はうんともすんとも言わない。

 持ち上げて振ってみても結果は同じ。


「ねえまたふざけてるの?」


 あたかも、ひたひたと足元へと忍び寄るような不安を胸に控えめに問い掛ける。

 だけど依然として反応はない。


 日記の表紙には深々とした刺突の傷痕が生々しくも残っている。


 もしかしてこのせいで傷物になった~とか悲嘆して起きないのかも。

 起きたら感謝を言おうと思っていた私は表紙を撫で何気なく中を開いた。


「――っ、これ…………」


 それ以上の言葉が出て来ない。

 攻撃痕は分厚い表紙を抉って中の筆記部分にまで及んでいた。

 追手の兵士の本気度が窺い知れるってものだった。世間で私はそこまで危険視されて憎まれてるの? 悪女に逃亡犯の称号も加わりました~なんて全く嫌になっちゃうわ。

 未だ日記は無反応で、小さな蝋燭の燃焼音が聞こえるくらいに洞窟の中は静かだ。

 悪い考えだけが否応なく増していく。


「ねえ日記、本当に冗談はやめてよ」


 そういえば一度目も不死鳥に燃やされそうになって演技を止めたんだったと思い出せば、何か見えない手にでも急かされるように蝋燭の炎の上に日記を近付けた。


「起きないとホントに燃すわよ?」


 やや離れた高さから徐々に炎へと下げていく。


「早くしないとホントに焦げるわよ? いいの?」


 じりじりと近付けていくうちに焦げ臭さが鼻を突いた。

 どうしよ距離の加減を誤った!

 ドクリと心臓が嫌な音を立てて慌てて日記を引っ込めた。


「ご、ごめん日記!」


 裏返して見れば炎の先端を近付けた装丁の一部が焦げている。だけど日記が正常なら「あちちち~!」って大騒ぎするに違いないのにこれでも無反応だった。

 つまりは……つまり、は…………。


「うそ……よね? 嘘でしょ? あなたってば本当に物言わぬ日記になっちゃったの……?」


 よくよく考えればわかりそうなものだったのに私は気付くのが遅かった。

 血は出なかったけど日記は刺された、人間だったら内臓に達するような深さで。

 放置しておけば大怪我どころじゃ済まない怪我を負った。

 平気なはずがなかったのよ。それなのに私はとりあえず手元に戻ってきたって安堵していた。楽観的にも程がある。


「そんな……日記…………ごめんね……?」


 ポタリと表紙に涙が落ち染み込む前に慌ててそこを擦った。

 薄情な私に泣く資格なんてない。

 壁際に蹲ると今は何も言わない日記を抱きしめて更に小さくなった。


「ごめん……」


 マルスが食料を手に戻って来て驚かれるまで、私は泣くのを堪えて目元を赤くしたまま、ほとんど呆然自失だった。





「おい、あんたどうした?」


 食事の皿を卓の上に置いた彼は少しの間に酷く虚ろになった私の豹変に、さすがに微かに目を瞠って案じるような声を出した。傍にしゃがみ込んできて顔を覗き込んでくる。


「具合が悪いのか?」


 私はゆるゆると横に首を振った。


「ちょっとショックなことがあっただけ」


 自嘲染みて薄く笑ったままそう言ったら何故か彼は急に顔色を変えた。

 え、何?


「まさか仲間が来たのか? どんな奴だ? ……容赦しない」

「え? は? どうして急に怒るの?」

「仲間に襲われたんだろ、あんた」

「へ……?」


 襲われ……?


「あっああそういう意味! ちちち違うわよ個人的なことよ個人的な! 自己嫌悪に陥ってただけ! あなた以外誰も来てないから早まらないで!」


 義侠心に溢れているのか今にも洞窟を飛び出して行きそうでちょっと焦った。実際立ち上がろうとした所を両手ではっしと服を掴んで引き止めたわ。

 あ、ごめん日記、ちょっと放り出しちゃった……。

 彼から手を放して日記を拾って土汚れをパンパンと叩いて落とした。


「本当に誰かに何かされたわけじゃないのか?」

「ええ。だから落ち着いて」


 勘違いして騒げば私の存在が逆にバレちゃうわよ。彼は私が大事そうに抱える日記をどこか不思議そうに一瞥してホッとしたような息をついた。


「ならいい。食べ物を持ってきた」


 卓の上を示されそっちを見たものの、私は食欲がなくなっていたから手を伸ばさなかった。


「置いておく」

「ああ、うん、ありがとう」


 まあ確かに有難い、有難いんだけどここにきてふと思う。


 ……変な薬とか入ってないわよね?


 食べて気が遠くなって気付いたら誰かと同衾してましたーなんて展開は御免だわ。あとどこかに売られた後でしたーとかも。

 彼は食事を凝視する私の怪しみを察したのか雑穀入りの黒パンと木の実を少し手に取って自らで食べてみせた。


「あんたをどうこうするつもりならもうとっくにそうしてる」

「あ、あー……そうよね」

「それにここでは料理に一服盛ったりはしない。食べ物は貴重だから。変に勘繰らずに腹を満たすことをお勧めする」

「そうなんだ、疑ってごめんなさい」

「いや」


 この質素極まるというか原始的な部屋一つ取っても確かに食べ物が豊富そうには見えない。季節の山の恵みはあるだろうけど、ここが雪が降るような土地なら冬場なんて特に厳しそうだわ。

 ややバツの悪い思いでいれば、彼は言うなれば私が食事にケチを付けたにもかかわらず、不愉快そうにするでもなく実に淡々としている。こういう気質なのねきっと。その落ち着きようが精神年齢的には二十歳を超している私よりも余程大人びていて感心した。


「罪悪感を抱く必要はない。ここで警戒心を捨てるよりは断然いい。そもそも山賊相手じゃ当然だろうし」

「だけどあなたの気持ちを傷付けたでしょ」


 意外な言葉でも言われたように、マルスは目をしばたたいた。


「……僕はそんなにヤワじゃない」


 ややあって、どこかぶっきら棒に聞こえる声音でボソリとそう言った。

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