61 告白2

 居心地の悪い沈黙は、私が何か他に言うべきかそれともウィリアムが何か言うのを待つべきかの判断を迷わせた。風が揺らした木々がまるで急かしてくるみたいにざわざわとしてノイズのように耳にうるさい。

 とりあえず何か言おうと息を吸い込んだ所で、ウィリアムから言葉が向けられた。


「俺は今の君に出会うためにここで生きてきたんだって悟ったよ」

「ええと……話聞いてた?」


 結局先の問いにも答えないウィリアムが、最早隣り合うって言うより向かい合う形になった私へとまっすぐな双眸を向けてくる。


「もしも……」


 静かな声音でそう言った彼の奥深さの垣間見える青灰の瞳は思わずハッと息を呑むくらいに心が吸い込まれそうで、私は目を離せずに続く言葉を待った。


「もしもその男ともう一度会えたら、……例えば別れ話の雨の夜に戻れるとしたら、どうする?」

「戻れたら? ……そうね戻れたら、今度はきちんと言うわ。嫌だって、別れないってしつこく頑なに言ってやるわ。これでもかって足掻いて食い下がってやるんだから!」


 まだまだ傷口が塞がってない失恋を思い出したら薄ら涙が滲んだ。さりげなく手の甲で拭うとウィリアムがどこか残念そうにする。


「何よ?」

「涙なら俺が嘗め取ったのに」

「嘗めッ!? いいいっ要らないわよそういうニコルちゃんみたいな破廉恥な慰めは!」


 ああもう油断するとすぐにこうなんだから!

 動揺してる時点で効果の程なんて知れてるけど、キッと睨み付ればウィリアムは含み笑いになって「アイリス」と優しく名前を呼んだ。実はまだ慣れたとは言えない私の新しい名を。

 だけどこの人に呼ばれると、その度にアイリスとしてのこっちでの自分の存在が一枚ずつ重なって濃くなって定着していく気がしていた。


「君がその愚かな男と会えたら、必ず忘れずにそう言ってくれよ?」

「ええと……?」


 この人には全然関係ないはずなのに、どうして彼自身が強くそう望んでいるような気がするんだろう。


「もしも君が心変わりしていたら……と、知るのが怖かったんだよ、その葵って奴は。だから臆病風に吹かれて先に背を向けた」

「……そうかしら」

「男同士通じるものがあるんだ」


 冗談か本気か、彼は感慨深いような声で言うと腕を伸ばして私の頬を両手で包み込んだ。

 そのまま顔を近付けてくる。


「はっ!? ななな何するの!?」


 大いに焦って狼狽すれば、さっきよりは距離があるけどそれでも全然至近距離で動きを止めた。


「前に、全部終わったら訊きたいことがあるって言ったのを覚えているか?」

「へ? ……そう言えばそんなことも言ってたわね。覚えてるわよ。あ、今から? いいわよどうぞ」


 頷いたウィリアムは一旦やや俯くと、動きに合わせたように半分まぶたも伏せて会話の空白を作った。

 何だか心の準備みたい。

 そんなに口にしにくい質問なの?

 不思議に思って、逆にそっと問い掛けるような目で見つめていれば、とうとう彼は上げた眼差しの奥に何か言いようのない熱を宿し、その端正な唇から眼差しと同種の熱を含有した言葉を紡いだ。


「アイリス、君は――南川美琴だ」

「――――……」


 私は完全に虚を突かれて……突かれ過ぎて、一切の反応が出て来なかった。問いって言うかもうこれって確認以外の何物でもない。

 ウィリアムはまるで私の反応全てを刻むかのように瞳の色を濃くして見つめたまま、それきり何も言わない。

 私は私で何かの猶予のようなそんな黙視の前で暫しの放心の後、あたかも初めて聞く知らない単語を口にするようにたどたどしくも自分の名前を舌でなぞった。


「みなみ……かわ、みこと……」


 この一時だけは、呟いたものが果たして本当に自分自身の名前だったろうかって疑っちゃったわ。

 それくらいに彼の口から出るには衝撃的で予想外の固有名詞だったんだもの。

 でもどうして? 誰にも教えていないのに……。


「もしかして日記から私のことを聞いたの?」

「日記……?」


 南川美琴の名を知っている理由なんてそれくらいしか思いつかなかったけど、ウィリアムは明らかに訝しんだ。


「まさか、アイリス日記は君の前世のことから知っているのか?」


 前世。

 これまでは主に夢って表現を使っていたのに今ははっきりと前世って断定だった。

 しかも私ってば余計な事を言っちゃったみたい。ウィリアムは日記の真の秘密にまでは気付いてなかったのに。な、何とか誤魔化してみるべきよね。


「え、ええ全部承知よ。ほら、人ってストレス溜まりに溜まると延々鉢植えに話しかけたりするでしょ? 私それで日記に色々打ち明けてたから……」

「延々……なるほど」


 くっ、なるほどで納得されちゃう私のイメージって……っ。まあでもこの際尊厳なんて二の次たわ。それよりもウィリアムの発言よ。


 彼は「別れ話の雨の夜」っても言った。


 確かに雨だったけど、雨だった点も話してない。


 もしも意図せずも誰かに話した可能性があるとすれば、思い当たる節としては飴玉の魔法で熱を出した時くらいだわ。

 本当に何か話したかどうかはわからないけど、もしそうでも普通そんな話信じる?

 同じく転生者とか私の知り合いとか、或いは……当事者でもない限り無理でしょ。

 なのに、不思議にも彼は私の前世を確信している。


「……あなた、何者?」


 湧き上がってきた予感に堪らず瞳が揺れた。

 まさか……。でも……。有り得ないわよそんなの、ねえ? だけど……だけど……私って例があるじゃない。


 転生者がこの世界に私一人だなんて誰が言った?


 どうしようもなく期待したくて、でもそんな都合の良い話があるかーって昭和なちゃぶ台をひっくり返したくて、理屈とか感情とかを常のウィリアムみたいに理路整然とできない我が身の暗愚を歯痒く思う。


「ねえ、あなたは誰なの……?」


 ウィリアムの問いへも答えないうちに、私は急かし、そして縋るように訊ねていた。


「俺は……」


 私の額に自分の額をくっ付けて、睫が触れ合いそうな距離でゆっくり一度瞬いて、ウィリアムはちょっと申し訳なさそうな優しい笑みを浮かべた。


「ずっとずっと君に会いたかった。会って、別れようなんて言った己の愚かさを謝罪してやり直したかった。だけどもう二度と会えないととっくに諦めていたんだ。なのに、数奇な運命だよ全く……――美琴、君がもう一度『僕』の前に現れた。アイリスって全く別の姿をしてさ」


 最初は私だって確証がなかったけど、そのまま謎を追究しようって直感に従って正解だったと語った彼は、自己の選択を満足したように吐息を間に置いた。


「――俺は、神様の悪戯か、君よりだいぶ早くこの世界に転生してしまった、日本出身のしがない男だよ」


 もう言葉もなかった。

 疑いようもなく悟った彼の本当の姿と本心の言葉達が、失恋にひび割れていた心の傷を癒していく。

 彼は別れを悔やんでいた。

 ここで何年も生きてきたのに私を忘れていなくて、しかもまだ好きだなんて言う。

 きっとどんな魔法よりも絶対的な魔法を掛けられた。

 こんなのもう抗えるはずもない。


「葵、なのね――……」


 頷き代わりの微笑に、瞬きと共に新たな涙が滑り落ちた。





 前世の恋人が異世界の空の下、私のすぐ目の前にいる。

 信じられない奇跡だって思う。

 まあそうは言っても、私はついつい慎重になって何度も何度もな~んども葵と私の二人の思い出をウィリアムに確かめちゃったわ。私自身が前例だからってそう簡単に他にも転生者が居てそれがまさかの元彼でしたーなんてご都合主義的な話、明確かつ複数から裏付けられるような根拠もなく信じ切るにはロマンチックさが足りない人間だもの。

 問いのどれもにことごとく正解を出されて、結局は彼が真実前世の恋人なんだって再度納得しただけだったけど。

 ただ、嬉しかったと同時に、葵の前世の結末を知って悲しくもなった。

 だって彼も私と同じ日に……。

 彼自身も私同様自分が死んだって感覚はよくわからないみたいだけど、気付いたらウィリアム・マクガフィンって赤ちゃんとしてこの世界に生まれていたって言うから日本では死んだんだろうって結論だった。私もそう聞かされれば異論は浮かばなかった。


「償うにはどうすれば……とか今考えてただろう」

「へ!? う、や、ええとー……ちょっとは」


 依然、庭奥の木の傍に並んで座りながら、彼から肩を抱かれて素直に寄り掛かる私は、安堵さえ感じる中で図星を指されて気まずげに頬を掻いた。

 実は葵だって知ってダバダバ涙が出ちゃったから、一旦気の済むまで涙を絞り出させてもらったのよね。彼からハンカチを半ば強奪してチーンと鼻さえかんで、うっかり甘い雰囲気にならないようにしたんだけど、だいぶ落ち着いた所をホールドされちゃったってわけ。

 だって一度甘えちゃったら、私駄目になるわ。こんな右も左もまだよく知らない世界だし気持ち的な面でベッタリ依存しそうで怖い。

 けどまあ、肩抱きくらいならいっか。


「だって普通はそう思うわよ。葵は私を助けようとして…」

「そこまで。もう前世は前世だ」

「だけど……」

「じゃあ俺をものすごく待たせてくれた君には、思い切り償ってもらうとしよう、その体で」

「えっ!? そそそそんな条件卑怯よ! そんなこと言うなんて、今更だけどあなたホントに葵なの!? 本当の本当は神様の悪い冗談じゃないの? ドッキリなんじゃないの!?」

「神様の冗談じゃなく俺は葵だし、葵は俺だ。美琴、いやアイリス、早い所一緒にならないか?」

「そ、その話もまた別――!?」


 不意打ちで唇を塞がれた。

 両目を大きく見開いて一瞬硬直した私は、見る間に真っ赤になっていたと思う。

 焦って押し返そうとしたけど、先を読んでいたウィリアムからその両手を止められちゃって、抵抗虚しく二度三度ってキスに見舞われた。


「あ、葵じゃなかったら、グーでぶん殴ってるところだったわ!」


 嫌なら唇を噛んでやるとかできたけど、それもしないで結局はキスを受け入れちゃった自分が悔しくて恥ずかしくて、顔を離すや八つ当たりっぽく文句を言ってやる。けどまあ、うん、ウィリアムに堪えた様子なんてあるわきゃなかった。わかってたけど……。

 し、しかもこの男ってば、湿った自らの唇をぺろりと嘗めてフッと艶麗に微笑んで「ごちそうさま」だって。

 そんな言葉と仕種の組み合わせ、転生前の葵だったら絶対なかった。


「なっなっなっ……何なのよおおおーーーーッッ!」


 身も心もこの上ない羞恥に染まった私の嘆きの怒声が庭に上がった。

 勢いよく立ち上がって「部屋に帰る!」って早足で場を後にしたら、当然彼も付いてきた。


 このままウィリアムのお色気ペースに呑まれて堪るかってんですわ!


 だから自室に着くや否や着替えるからって廊下に叩き出してやった。

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