60 告白1

 随分と濃い日々を送ったせいか、アイリスになって過ごした時間はまだ実質十日にも満たないのに、もう何週間も過ごしたように感じるわ。

 ウィリアムは本来なら数日中にも領地へと発つ予定だったけど、それは見合わせたって言っていた。連れ帰る予定だった婚約者の席が曖昧なままなんだし仕方がないと言えばそうなのかも。

 現状私にも関わるだけに頭の痛い問題よね。彼ともその件で改めてきちんと話し合いしないといけないけど、でも今は、庭の奥でキラキラした木漏れ日に降られながら、私達は何となく会話も交わさずただ過ごした。

 彼は私が腕の間に顔を伏せていたから声を掛けて来なかったんだと思う。

 無駄に心臓に悪い台詞を何か喋られるよりは黙っていてもらった方が良いけど、どうしてるか気になってちらりと彼の方を見やれば、いつからこっちを見ていたのかばっちり目が合った。


「……ええと、何?」

「眠いのかと思って」

「少しね、少し」


 心臓に悪い! そもそも何でこっち見てるの? ああもしかして婚約の話したいとか?

 ニコルちゃんは……もうこの人の婚約者になる気はなさそうだったし、そうしたらなし崩し的に私だけど、私だって応じるわけにはいかないわ…………って、あれ?


 もうニコルちゃんが関係ないなら、人の道に背くとか何とか言って拒む必要もないわけよね。


 面倒な社交界なんて引き籠っちゃえばいいわけだし、もしかして、彼が私を必要としてくれているなら思い切って将来安泰の道を選ぶべき?


 当分恋愛事は懲り懲りだから、単に託宣でこの家の花嫁が必要ってだけならこっちも都合いいし、嫁いじゃって描いてた悠々自適な生活を送るのも夢じゃないかもしれないわよね。何より眼福レベルのイケメンを毎日見放題。これは乙女として美味しいわ。


「何か言いたそうだな?」

「べべっ別に何も……」


 な~んて、何バカな事考えてるのかしら私ってば。

 私は再び顔を伏せた。こうしちゃえば向こうも無理に構ってはこないでしょ。

 だけど、甘かった。

 ウィリアムからぐいっと体を引っ張られた。


「ちょっ……!」

「寝るなら肩くらい貸す。この方が楽だろう? このまま邪魔しないから、眠っていていいぞ」


 気付けば彼の肩に寄り掛からされている。確かに楽だった。でも何だか悔しいわ。こんな優しさにドキドキしてる。


「あなたこそ逆に寝てどうぞ。特別に肩をお貸ししますわ」


 一度姿勢を戻すと、ウィリアムの耳を引っ張って私の方に寄り掛からせた。


「いたた……全く、俺にこんな乱暴な真似してくる女性なんて君くらいのものだぞ」

「あらそ、でもあなたにはこれくらいでちょうどいいのよ」


 文句でも返ってくるかと思いきや、予想に反してウィリアムは咽の奥で低く笑った。


「君との気の置けないやり取りも懐かしいな」

「懐かしい? 何おかしなこと言ってるんだか。やっぱりお疲れなのね。よく見れば目の下に薄くクマが出来てるじゃない。折角の美形が台無しよ。ほらほらさっさと寝不足小僧は寝てなさい」

「寝不足小僧って……」


 小さな苦笑と共に側頭上部にこつんとウィリアムの頭が寄り添った。

 大人しく言う事を聞く様子には、どこかくすぐったいようなこそばゆいような気持ちがじわりと湧いてくる。あああ自分から一体何をやってるのよーって窘める私も脳内にはいたけど、今は独房に閉じ込めた。


「君はこうやって気遣ってくれるくせに、俺から距離を取ろうとするよな。手前味噌だが、俺は女性からすれば優良物件だろう。何が不満なんだ?」


 何が不満なんだってその心底不思議そうな言い方が小憎たらしいわね。

 だけど不満って程の不満は……助けてもらったし、彼の言う通り優良物件だし、思い付かない。ぶっちゃけ後はもう私の気持ち一つなのよね。


「……まだ、時間が必要なのか?」

「えッ!」


 彼の勘の鋭さに息を呑む。


「アイリス、ついさっきも言ったがこの際もう一度はっきり言うと、俺は君が好きだ。前のアイリスじゃない――今の君が」


 いつになくきっぱりした声だった。

 真剣な告白だった。

 頭同士を寄せたまま、すり、と彼は甘えるように角度を変えて私の顔を覗き込む。

 うっ……高性能の美形爆弾んんんーっ、何だかキスより余程恥ずかしいような超至近距離じゃないこれ? 頬が茹でダコみたいに真っ赤になるのをギリギリ何とか気力でねじ伏せる。でもいつまでつやらよ……。


「あ、ありがとう! ホホホ素晴らしい友情が築けそうよね!」

「……わかっているくせに」

「……っ」


 妙に艶のある目で睨まれて、私はとうとう赤くなって閉口した。


「俺は君の心が欲しい。だから待つし引き下がるつもりもない。婚約という形だけでも、無理か?」


 思ってもみなかった随分と控えめな提案には目を瞠った。

 てっきり強引に事を運んじゃうかもってどこかで思っていたからびっくりした。

 待つだなんて、自信家ウィリアム・マクガフィンから出てくる言葉とは思えなかった。俺を好きになれって迫ってくるタイプだと思っていたし現に今までそうだったもの。

 私の気持ちを尊重してもくれるんだってわかって、まつげの触れそうな距離から彼の真剣な眼差しを見ていたら、こんなの恋の駆け引きじゃなく私を本当の本気で大事で好きなんだって信じる以外になかった。


「強引に結婚して君の体だけを得ても本意じゃないからな」

「かかか体だけ!? 言い方あっ!!」


 くっ、臆面もなくエロ発言するとか、口を警戒すべきはニコルちゃんだけじゃなかったってわけね。それともこの世界の貴族って皆こうなわけ?


 だけど、彼はいつ恋に落ちたんだろう。


 ――私も。


 告白を受けて自身の感情を顧みたらもう認めるしかなかった。


 まだ辛うじて残る冷静さが淵に手を掛けて恋の沼に落ち切ってはいないけど、それも時間の問題な気がするわ。彼の傍にいたらその手もいつか必ず滑り落ちて、二度と逃れられない深い沼に身も心も囚われる。


「アイリス、この世界で俺と生きてほしい」


 ハッとして聞こえた声は知っているウィリアムじゃないみたいな、切実な響きを宿していた。

 このまま流されて安泰人生に乗っちゃえばって囁く腹黒悪魔の私と、それは駄目だって窘める誠実天使の私が交互に耳元に現れる。この世界でだなんて大袈裟で何だかちょっと変な言い回しだとは思いつつも、目まぐるしい程に動いていた思考は一つの答えを導いた。

 そこには仄かな希望と温かさと、どこか泣きたいような気持ちが渾然一体となってあって、彼に対する私の中の想いを寄せ集める。


 ――あなたとなら、悪くないかもね。


 そんな言葉が零れそうになった。

 だけど……。


「――ごめんなさい。忘れられない人がいるの」


 顔を背け、無意識にってわけじゃないけど迷いの末に出てきたのは、そんなありきたりな断りの文句だった。


「他の誰かで穴埋めなんて無理なの。それにあなたの好意を卑怯な形で利用したくない」


 すぐ傍にあった気配が離れ、彼が元の位置に体を引いたんだってわかった。

 そりゃそうよ。フラレた相手にいつまでもくっ付いてないでしょ。

 きっと女の子に袖にされた経験なんてないだろう王子様は気を悪くしたはずだから、このまま立ち去るかもしれない。

 自分の選択なのに胸が痛い。

 そろりと視線を向ければ、決して明るい表情はしてないだろうって思っていたウィリアムは、だけど予想に反し照れてどうしようもなくニヤけそうになる口元を堪えているみたいな、そんな変顔をしていた。


 えっ、何で!?


 更にはこっちの視線に気付いてハッとして誤魔化すみたいに口元を手で隠す。

 こんな嬉しそうな表情もするのねこの人……っていうか、ええとこの状況って何?

 フラレたのにその顔なの?


「ま、まさかあなたマゾ…」

「違う」


 えーホントに?とまだ疑惑の目を向ければ、向こうはようやく平常運転の顔付きに戻ったけど、腑に落ちない。


「君の例の夢だか何だかの恋人とは、どうしても別れないといけなかったのか?」

「いきなりね。振られちゃったからそうでしょうね。私が浮気してるって思ったんだって」

「……浮気、してたのか?」

「――してないっ!」


 きりきりと両眉を吊り上げて噛み付くように睨めば、ウィリアムは気圧された様子で「悪い」と呟いた。


「別に謝らなくていいわよ」

「だったらどうして違うと言わなかったんだ?」 

「だってあんなの嘘っぱちなのに、合成に決まってるのに、葵は私を信じてくれなかった」


 きっと合成とか何の話なのかウィリアムにはわからないだろうけど、いちいち説明している親切心も忍耐もなかった。愚痴り出したら止まらない。


「何でってずっと思ってたし、よそよそしくてトゲトゲもした関係が続いて心が疲れてたから、蒸し返して説明するのもそれで更に喧嘩する気力もなかったのよ。そもそもお互いにその話題を避けてたし」


 思い出したらやるせなくて改めて腹が立ってきた。

 信じてくれなかった葵に。何も言えなかった自分に。


「だけど今度からの恋愛事じゃ、もう遠慮しないできっちり意思表明していこうって思ってる。だからあなたにもハッキリ今の気持ちを告げてるの。わかってほしい」

「それでもいいから婚約してくれと言ったら?」

「ああ、託宣とか体面の問題もあるのよね」

「そうじゃない。今度は間違いたくないんだ。後悔しかなかったから」

「……どういう意味?」


 不可解に眉をひそめる私へとウィリアムは顔の造りなんて全然違うのに、どことなく葵を彷彿とさせる困った表情で仄かに笑んだ。


「……ずっと君を傷付けてて、ごめん」

「え? ずっと……?」


 紛れもなく私を見て言ってるのに、これはアイリス・ローゼンバーグたる私に向けた言葉じゃないような気がした。

 前アイリスに向けた言葉でもない。

 じゃあ誰にって感じだけど、私にもよくわからない。


「あなたは確かに良い男だけど、私は葵を忘れられそうにないの。とても大好きだった……ううん今も大好き。あなただって他の男が考え方の中心だなんてそんな女は本音じゃ嫌でしょ?」


 さっきから葵、葵って、葵ばっかりの自分に呆れる。しかも葵に似た部分にいちいち反応して、その相手に少しずつでも確実に惹かれた私は、どうしようもなく厄介な女かもしれない。


「ウィリアム、引き返すならきっと今よ」


 ただ、そんな風に説得しながらも、ここまで言葉を交わしているうちに私は自分でも彼にどう言って欲しいのかはっきりとはわからなくなっていた。

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