第四章③

 ペチカの炎は俺をどこまでも熱くする。そしてオレンジ色に染める。


「超現実主義者は月を掬い上げて日曜日に破壊するのよ」


 アルビナが言うそれは、予言のようなものに聞こえた。事実、それに沿うような流れで俺は彼女の前に登場したし、彼女は俺の前に登場した。そして俺はまず月を掬い上げるための訓練を始めた。鉄製の銀色の桶に水を満たし、俺はその中に両手を沈める。銀色の桶はペチカの傍の円卓の上に乗っていて、俺は正面からオレンジ色の炎を強く受ける形になる。そして何度も何度も水を掬い上げることを繰り返す。月を掬い上げるために。


「スーパーマーケットに行くわよ、ケンジ」


 訓練に没頭している俺に、アルビナは時折、そんな風に買い物に俺を誘うことがあった。時間帯はだいたいが午後三時を過ぎた頃で、この日も午後三時を少し回ったくらいだった。アルビナは優雅にチーズケーキを食べ、匂いの強い紅茶を飲んでいた。朝から開始される訓練の間中ずっと水の中に入れられている両手の感覚は、午後三時にもなると水に溶け出してしまったかのようにすっかりなくなっている。俺はアルビナの方に視線を移して頷き、そしてゆっくりと水の中から両手を抜き出し、タオルで水滴を拭ってから、ペチカの炎に両手をかざし十分に温めてから外出する準備を始める。アルビナは俺が両手を温めている間に支度を整えクッション性の高いソファに体を沈め、俺がコートを着てマフラを首に巻き手袋をして厚手のニット帽を被るのを見つめながら悠然と待っている。俺はコートのボタンを全てしっかり留めたことをきちんと確認してから支度を漏れなく終えたとアルビナに目で合図する。するとアルビナは俺に問う。


「ケンジ、今日は何曜日なの?」


「木曜日」俺は答える。


 アルビナは軽く微笑む。アルビナが軽く微笑み、立ち上がり、コートのポケットに両手を突っ込むと、俺は彼女の問いにきちんと正解を与えられたのだと知って小さく安堵の息を吐くことになった。調子が悪いと俺は暦の律動のようなものを全く感じられなくて曜日をきちんと答えることが出来ない。それはアルビナにとっては致命的なことのようで、俺が間違うと彼女はヒステリックになり髪をペチカの炎よりも濃くて尚且つ明るいオレンジ色に染めて水が満たされた鉄製の桶をペチカに放り投げたり、円卓を燃やしたり、狼のように俺に噛み付いたりした。アルビナの質問に慣れない内は、俺は不正解ばかりを答えていた。そのせいでアルビナの家の庭には熱に歪んだ桶と焦げた円卓が隅からずらりと並ぶことになったし、俺の体にはアルビナの歯形が至る所に残っていた。ヒステリックなアルビナのことをどうしたって恐れなくてはならない俺は、暦の律動のようなものを感じなくてはならなくなった。どのようにして感じるのか、最初の内は訳が分からなかったが、感じようと思えば、不思議と俺は暦の律動のようなものを感じ取ることが出来るようになった。そのことを上手く説明することは出来ないが、要するに太陽と月と地球のそれぞれの居場所と引き合いを上手く全身で感じるということなのだ。おそらくそれが分からなければ、月を掬い上げることなど出来ないのだろう。その精度を百パーセントに限りなく近づけなければ、いくら掬い上げる訓練をしたって意味がないのだ。


「スーパーマーケットに行くわよ、ケンジ」


 俺は玄関の扉を開けてアルビナを先に通す。彼女はコートのポケットに両手を突っ込んだまま外へ出る。俺は玄関を施錠する。俺とアルビナは並んで晩秋のテトリナ・リルの街を歩き出す。まだ本格的な寒さは訪れていない。見上げれば雲は多いけれど太陽もしっかり顔を出しているし、雲の隙間は澄み切ったブルーだった。手袋をする必要はなかったかもしれない。しかしもうじきこの街に襲い掛かるであろう寒さの兆しは空気の中に確実に存在していた。それを思うと俺の心臓の鼓動はほんの僅かに早くなる。緊張しているのだ。俺は現実問題として、テトリナ・リルの冬を耐えきることが出来るのだろうか。俺と並んで歩く鼻と頬を赤くした十一歳の少女はテトリナ・リルの冬をどうやって生きているのだろうか。


「前にも言ったはずよ、ケンジ、」アルビナは歩きながら何度も俺に軽く肩をぶつけてくる。「テトリナ・リルの人々は冬を生き抜くためにしっかりとした用意をするのよ、ケンジ、そして人種の違うあなただってこのテトリナ・リルの街に住まうのならばそれなりの覚悟をもって冬を生き抜くためにしっかりとした用意をしなくちゃならないのよ、でも安心するのよ、ケンジ、私はあなたのためにきちんと考えているのよ、移ろう季節について」


「移ろう季節について」俺はアルビナの言葉を繰り返す。


「そうなのよ、ケンジ、」アルビナはドクター・マーチンのブーツの踵を鳴らして俺の少し先を歩いた。「季節は移ろうものなの、そんな当たり前のことをね、分かっているかと言えば、実は誰も分かっていないのよ、誰もが皆、季節にしがみついていて離れることを拒むのよ、だからそれなりの時間が必要なのよ、季節が移ろうためには」


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失われた錦景女子高校第二校歌の話(Song2) 枕木悠 @youmakuragi

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