第四章②

 押し入れを片付けることはそれほど骨の折れる仕事ではなかった。押し入れは俺の想像を超えるほどに滅茶苦茶ではなかったし、きちんと纏められるべきものは纏められていたからだ。纏まった教科書、ノート、テストの答案用紙、通信簿。子供用の総合百科事典、昆虫図鑑、海洋図鑑。夏休みの宿題で作った貯金箱。玩具の顕微鏡。祖母から貰った万華鏡。戦車や飛行機やガンダムのプラモデルの残骸。ミニクーパのラジコン。レゴブロック。算数セット。豚の貯金箱。天王寺動物園で買ってもらったカバの帽子。確かそれはエリも買ってもらったはずだ。俺が青で、エリがピンク。ピエロの絵はそれらを押し退けた先の、一番奥に仕舞われていた。


 三角帽子を頭に乗せ、薄汚れたオレンジ色の衣装を纏ったピエロはけだるそうにベンチに腰掛け、白色の細いラッパを右手に持ち、真っ直ぐにこちらを見据えていた。ピエロはマスクを付けていて口元以外を隠していて目元は見えないが、ピエロがこちらを見据えているということは分かる。その絵は黄金の額縁の中に入れられていた。それに俺は見覚えがあった。いつか、俺がまだ小学校にも上がっていない頃に父が家に持ってきてリビングにしばらく飾っていたものだった。俺はそのピエロの絵が怖かった。俺は我慢出来ずにそのことを父に訴えた。父はしぶしぶそれをリビングの壁からはずしどこかに仕舞ったはずだった。それは俺の部屋にずっと仕舞われていたのだ。まるで俺に発見されるのを待っていたみたいに。


 ピエロは俺に囁く。


「移ろえよ、少年」


 ピエロはラッパを吹く。


 そのラッパの音に俺は動けなくなる。


 そしてピエロはゆっくりと立ち上がり、絵を抜け出し、俺の方に歩み寄り、そして俺の中に入り込んだ。


 俺の中は砂漠だった。


 砂塵が吹き荒れ、目も開けていられない、息も出来ないほどに厳しい灼熱の世界にピエロは立つ。


 ピエロは左手で三角帽子が風に飛ばされないように押さえながらゆっくりと着実に前に進んでいく。


 そしてあるところで立ち止まり、高い所にあるものを見るために視線を持ち上げた。


 そこには影があった。


 そしてそれは砦のような形を砂塵の中に浮かび上がらせていた。


 ピエロはラッパを吹く。


 瞬間、砦のようなものはピエロのラッパによって簡単に、静かに崩れ去った。そしてそこに納められて誰の目にも触れられないようになっていたものは露出し、吹き荒れる風にさらされた。俺の胸は心臓を抉り取られたように酷く痛んだ。そして俺は痛みとともに忘れていたことを思い出す。それは記憶のように確からしいものではなかった。先天的に刻み込まれていた文字のようなものだった。その文字を俺は解読することは出来なかったが、それは俺を動かすようなものだった。俺を動かしているものはその刻まれた解読出来ない文字のようなものだった。俺は胸に轟く痛みを堪えながら文字を一つ一つ辿りながらもどかしくも動き出さねばならないようだった。


 ピエロは俺に囁く。


「移ろえよ、少年」


 そして俺は押し入れを漏れなくすっかり片付け、移ろうための準備を始めた。様々な外国語を覚えながら、カリマのリュックに旅立ちに必要なものを思いつく限り詰め込み時期を待った。そしてハルキ氏が家にやって来て助手にならないかと誘いを受ける。父は元高校生の俺をハルキ氏の助手にと勧めていてくれたようだった。俺は二つ返事で承諾した。俺が移ろうためにハルキ氏の登場は予定されていたのだ。超現実主義者はそう思う。超現実主義者は笑う。


「何を笑っているの?」


 東雲ユミコは俺が旅立つ前日に俺の部屋にやって来ていた。


「別に、」俺は微笑みを消す。「……ねぇ、東雲先輩、実は明日、俺は旅に出るんです」


「旅?」ユミコの綺麗な黒髪が、彼女が首を傾けると揺れた。「旅って、ケンジ君は一体どこに旅立つというの?」


「どこにと決まっているわけじゃないんです、ただここから場所を移ろうんですよ」


「移ろう?」


「はい」


「そう、」ユミコはじっと二秒間、俺の横顔を見ていた。そして目を伏せ、視線をピエロの絵に移した。ピエロの絵を俺は壁に飾りつけていた。「……ケンジ君、私はあなたのことが嫌いではないのよ、私はあなたのことが好きだったし今でもその気持ちは変わらないつもり、あなたのことを振っておいてこんなこと言うのは違っていると思うけれど、私は多分これからもあなたのことを好きだと思うの、でも私にはケンジ君以上に愛する人がいるという話なの、私はその人以上にケンジ君のことを愛することは出来ない、でもね、私はケンジ君のことを愛しているの、本当よ」


「分かっています」


「違う、ケンジ君は分かっていない」


「何を分かっていないと言うんです?」


「私の愛をケンジ君は分かっていない、ケンジ君はどこか果てしない場所に、あなたの言葉を借りれば移ろってしまいそうな気がするの、もう戻りようのないほどに果てしなく遠い場所に、私はあなたのことを愛してる、だから凄く寂しいの、今までも凄く寂しかったあなたといられないのは私にとって寂しいことなのよ、あなたは私の心を温かくしてくれる、そんな男の子ってあなただけなのよ、ケンジ君、私はあなたを失いたくはないの、今日だってそのために私は勇気を出してここに来たの、拒絶されるのが怖かった、だから凄く勇気が必要だった、でももう一度前のような関係に戻りたいから頑張ったのに、それなのに、あなたは果てしなく遠いどこかに移ろってしまうつもりなの?」


「この旅立ちはあるいはそういうものかもしれません、」俺はサーキュレイタの横に置いたリュックを見て言う。「東雲先輩が言うように俺は戻りようのない遠い場所に移ろうのかもしれない、まだ俺にも予測が付かないことです、しかしとにかく、俺は動き出さなくちゃいけないんです」


「ケンジ君は現実から離れて行こうとしているみたい」


「そうなんだと思います」


「不安になる」ユミコは自分の黒髪に指を入れる。


「心配はいりません」


「ケンジ君、もう一度言うよ、私はあなたのことを愛しているのよ、間違いなく、それはどうか分かって」


「ええ」


 そしてユミコは顔の前で五指を組み、目を瞑り祈った。「どうかこの愛がケンジ君とこの現実を繋ぐ糸となりますように」


 祈る彼女の姿は酷く現実離れしているように見えた。


 そしてユミコが俺の部屋から去るのとほとんど入れ違いにエリが帰ってきた。エリは今日も律儀に俺に帰宅を告げる。


「兄さん、エリはただいま帰ってきましたよぉ」


 そして次の日、俺はエリに別れを言うのを忘れたまま旅立ったのだ。


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