第四章 超現実主義者の移ろい
第四章①
テトリナ・リルというロシア北西部の都市の秋は、錦景市の秋とよく似ていた。街に立ち並ぶ木々は黄金に色付き、それを強い風が揺らし、落ち葉に道路は隠される。空気はカラカラに乾燥して保湿クリームを塗っていないと手先は裂けて血まみれになってしまう。夕方になると厳しい寒さと圧倒的な静けさが街に降りてきて、息は白く漂って、夜になればダウンジャケットを着ていなければ外に出ることは出来なかった。冬は着実に近付いていてすぐそこにある。テトリナ・リルの短い秋は錦景市の晩秋、そのものだった。
「でもテトリナ・リルの冬と錦景市の冬はまるっきり違うよ、」とアルビナ・ズーエフは言う。「日本の可愛らしい冬とは訳が違うんだよ、太陽はしばらく私たちのことを見放す、太陽の熱のない緊張感の中で私たちはこの厳しい季節をやり過ごさなくてはならないんだよ、それこそ確実に漏れのない準備をしてね、この厳しい季節に簡単に殺されないようにしなくちゃならないんだよ」
アルビナは青く透き通った瞳と白銀の髪を持つ綺麗な少女だった。この街で彼女に出会うまで俺はこれほどまでに幻想的な美貌がありえることを知らなかった。彼女は十一歳で、様々な言語をしゃべり、自然科学と天体史に精通していた。彼女は間違いなく天才で、早熟でありながらまだまだ新しいものをインプットすることに貪欲だったし惜しみなく自らの想像力を吐き出し続けていた。彼女の想像力はその時に応じて、声であったり文章であったり絵であったり彫刻であったり跳躍であったり暴力であったりと形式を変えて具体的にこの世界に登場した。彼女は様々な形式の中で想像力を発揮することによって、彼女の中にだけしか存在しえない貴重なものを細部に渡って世界に表現して見せた。彼女は唯一無二の存在だった。アルビナが他に類のない少女だということはこの都市からも認められていて、彼女は義務教育を跳び越えて、この街の中心部にあるユニバーシティの院に在籍していた。そしてペチカという、ロシア語で暖炉と言う意味を指す、総合学術団体に所属していて、彼女はその主要メンバの一人だった。
俺がアルビナと出会ったのはモスクワで開催されていた「森の未来について考える」という題の、ペチカ主導で開催されたシンポジウムの席だった。俺はそのシンポジウムに神尾ハルキ氏と出席していた。ハルキ氏は父が勤務するパイザ・インダストリィのプラント建設チームの副主任で、若くしてその才能を認められた天才だった。ハルキ氏は俺のちょうど一回り年上で二十九歳だった。三十歳の手前とは思えないくらい、ハルキ氏は若々しく、そして時折子供みたいに可愛らしく微笑んだ。ハルキ氏は会社から様々な都市へと旅立つことを命じられていた。三十歳を迎える前に、様々な場所を訪れ、刺激を受けて来い、ということらしかった。もちろん、逐一会社に自分の居場所を報告しなければならないようだったし調査書なども提出しなければならないようだったが、ハルキ氏はこの旅を純粋に楽しんでいた。俺はハルキ氏の助手という肩書きを持ち、その旅に同行していた。助手と言っても、重い荷物を持ったり、郵便を出しにポストに走ったり、ちょっとした買い物に出かけたり、肩や腰をマッサージするくらいで大した仕事を命じられるわけではなかった。それでも俺には日給一万円の手当てが毎日付いた。雨で外に出ることもなく一日中ホテルで海外のテレビ番組をぼうーっと見ているだけでも手当は付いた。元高校生の俺にハルキ氏の助手という仕事は破格だった。そしてハルキ氏は俺のことをとても気に入ってくれていた。ハルキ氏は俺の顔が好きだと言った。平凡で幸薄そうであっさりとした優しい顔が好きだと言った。俺もハルキ氏の顔が嫌いではなかった。酒を飲み過ぎて理性を失ったハルキ氏は俺にキスをして抱き締めたりした。酷い時には俺の性器を口に咥えて俺の精液を呑み込んだりもした。そしてハルキ氏は俺にも同じようなことをするように強要したりした。そしてハルキ氏は酔いがさめると何も覚えていないととても分かりやすい嘘を付く。そんなところも含めて俺は、ハルキ氏のことを気に入っていた。
シンポジウムの当日、ハルキ氏はいつになく生真面目な表情を顔に浮かべていた。口数も少なく、愛嬌のある微笑みを見せることはなかった。俺は「森の未来について考える」というまるで小学校のホームルームのテーマにどうしてハルキ氏がこれほどまでに真剣でいるのかが不思議だった。ハルキ氏と俺はこれまでにも大連やピッドシュレイアやファーファルタウといった様々な都市で開催されたシンポジウムに出席したりしていた。ハルキ氏はそのどの都市のシンポジウムでも見せることのなかった生真面目な顔をしていたのだ。緊張しているようにさえ思えた。森の未来について考えることに。
シンポジウムの内容は教養のない元高校生の俺にはさっぱり分からなかった。何か壮大な話をしているように聞こえたが、それが本当に壮大なことについての話で、現実的なことなのか、俺には判別が出来なかった。超現実主義者はそれを夢物語のように聞いた。
耳元では押し入れで出会ったピエロが囁く。
「これは夢物語だよ」
そんな夢物語をハルキ氏はどこまでも真剣に、そして切実に聞き、事前に配布されていた冊子の空白の部分に細かな字でメモをしていた。
アルビナはシンポジウムの最後に、議論を総括するために壇上に立った。最初、彼女の小さな姿をシンポジウムの壇上に見たとき、俺は夢を見ているのではないかと目を擦った。ごく普通に考えれば十一歳の少女がそこに立っているわけがないのだ。しかし俺は間違いなく目を覚ましていたし、アルビナの声はハッキリと俺の耳に届いていたのだ。その会場では学会の知識に疎い俺だけがアルビナの登場に驚き、当惑していたのだ。
「これは夢物語だよ」
アルビナの声は透き通って響き、注意深く意味を辿っていかなければ見失いかねない声だった。「……森の未来について考えることはそれほどまでに超現実的であること、けれど見渡せてゆけるよ、そして森に分け入る隙のようなものを発見する、超現実主義者は森に入ってゆける、夢物語は森の中で成長し続けている、超現実主義者はゆっくりとそれを掬い上げ持ち帰ることが出来るんだよ」
シンポジウムが閉会するとハルキ氏はアルビナの控室に俺のことを連れて行き、そして彼女に俺のことを紹介した。ハルキ氏とアルビナは旧友同志がそうするように見つめ合い硬い握手を交わした。俺もアルビナと手を握り合った。彼女の手は冷たく、力を入れたら壊れてしまいそうなほどに細く華奢だった。そして最初から予定されていたことのように「待っていたよ、」とアルビナは俺のことをその青い眼で見て言った。「君は旅を経て、超現実主義者として歩けるようになったはずよね?」
超現実主義者。
確かに俺はそのようなものになりつつあるという取り留めのない自覚があったし、ピエロは俺を確実にそのようなものへと誘っていた。それは間違いじゃない。
アルビナから超現実主義者を確かめられるということが、俺には現実的なこととして受け入れることは出来なかった。
それは明らかに奇妙なことだった。
どうして彼女が元高校生で、今ではハルキ氏の助手である俺の心の内容にリンクする問いを用意することが出来る?
そこにはなんらかの自然科学に真っ向から対立する超現実的な力が働いていなければ説明が付かないことだ。
しかし超現実的に考えればだ。
俺が超現実的であればあるほど、俺は彼女の問いを素直に聞き入れることが出来る。
そしてひとまず、ここが俺が移ろうべき場所だったのだと俺は納得することが出来る。
アルビナは超現実主義者をテトリナ・リルで待っていた。
そしてハルキ氏の旅の目的は最初から俺をアルビナに遭わせることだったのだ。
東雲ユミコに振られ、学校を辞め、妹の第一詩集を発見したことなど、旅立ち以前にあった何もかもは全て俺がアルビナに遭うためだったのだ。
全てはアルビナに収束していく。
そして俺は彼女が済む大きな家で掬い上げるための練習を開始する。
掬い上げること。
それがアルビナが俺に宿命的に用意した、トライアル。
「今日は何曜日?」鉄製の桶に満たされた水に両手を入れ掬い上げるための練習をする俺の横でアルビナは唐突に聞いた。
その問いに何らかの意味のようなものを見出すことは出来なかったが、俺は少し考えを巡らせてみた。今日は何曜日だったか。俺は瞬間的に部屋の中にカレンダを探すが、ここにカレンダがないことをすぐに思い出した。時計ならばある。大きな振り子時計だ。それはテトリナ・リルの夜の七時を知らせている。けれどどこにもこの部屋に暦を知らせるものは一切なかった。「……多分、土曜日、いや、日曜日だったかな」
「……金曜日よ、今日は金曜日、」ペチカの明かりに照らされて、アルビナの顔はオレンジに色付いていた。「日曜日は明後日よ、ケンジ、暦に体を合わせるのよ、暦の律動のようなものにあなたは過敏になる必要がある、ケンジ、日曜日は明後日よ」
「日曜日は明後日」俺はペチカの火を見ながら繰り返す。
「そう、日曜日は明後日、日曜日に破壊するのよ」
「日曜日に破壊する」俺は息を呑んだ。
「心配しないで、」アルビナは軽く微笑む。「日曜日はどの日曜日だって構わないのよ、日曜日は何度だって用意されているのよ」
「日曜日は何度だって用意されている」
「だからきちんと歩幅を合わせるのよ、ケンジ、窓を見て」
窓の外には月が大きく見えていた。
「あなたは日曜日にあの月を破壊するのよ」
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