第三章⑨
金曜日の放課後、私はいつまで経っても天使が泳ぐ空に辿り着くことは出来なかった。私とマホコは部活をサボってピンボールをやりに錦景第二ビルのゲームセンタを訪れていた。チヨとはすでに立場が逆転してしまっていることもあって、部活をサボろうが私は何も怖くなかった。チヨよりも圧倒的に大きくて恐いものに私は直面しているのだ。この金曜日の放課後は、どうしてもピンボールの賑やかさに我を忘れなければならなかった。しっかりと前を向き、大きなものへと歩み寄るためにはどうしたって準備が足りていなかった。
錦景女子高校第二校歌の旋律は鳴り止むことなく私の中で響き続けている。
そして私はドキドキしている。心臓が激しく脈打っている。冷静ではいられない。冷静でいられるはずがない。こんな状態で私は詩人を演じ上げることなど出来そうにない。役に入り込むためには、何よりも時間が必要だと思えた。時間が私に冷静さを与えることに期待はしなかったが、その時間の経過の中で何かが私に冷静さを与えてくれることを期待したのだ。幸いにして詩に期限はない。私はその条件に、擦り切れるまでに甘えようと思う。私がそう思えば、時間はいくらでも先の方に存在してくれるはずなのだ。
この前と同じように保健室に私のことを迎えに来てくれたマホコを私は言いくるめて彼女を強引にゲームセンタまで連行した。マホコは「一週間のうちに二回もサボったら部長に殺されちゃう」と言って中々首を縦に振らなかったが「そういう理屈があるのなら私だって横室先輩に殺されちゃうわ、殺されるなら一緒に殺されてあげる、だからお願いよ、今日はピンボールを私として」と私が声を甘くして言えばマホコは頬を赤らめて、そして少し考えてから、小さく頷いた。
「しょうがないなぁ、」マホコは溜息を吐きながら言った。「ちゃんと一緒に殺されるんだよぉ」
「うん、殺されるときは一緒よ、マホコ、んふふっ」
マホコはいつものようにフォレスタル・シンフォニをプレイする。
私はいつものようにファースト・エデンをプレイする。
今日の調子は決してよくなかった。指先が強張っていてフリッパを最適なタイミングでスイングさせてボールを精確に弾き出すことは難しかった。今の落ち着きのない私には天使の泳ぐ空は遥か遠い世界だった。スコアは伸び悩む。そして私は我を忘れるほどにピンボールに熱中出来ていない。熱中しようと思えば思うほど、我を忘れようとすればするほど、私は落ち着きを失い、私の体は錦景女子高校第二校歌の旋律に呑まれていく。私は上手くやれずにヒステリックなる。そして私はピンボール・マシンの足元をローファの爪先で蹴り上げてしまった。それもピンボール・マシンが横に大きく揺れるほどに強く。こんな風に蹴り上げるなんて乱暴なことを私は今まで一度だってしたことがなかった。ピンボールをしていて暴力的な気持ちになることなんてなかったのだ。マホコはファースト・エデンを蹴り上げた私のことを見て凄く驚いていた。私だって凄く驚いていた。
私はある意味では我を失っていた。
ファースト・エデンのスコアボードには反則を意味するTILTという表示が赤く点滅してビービーと警報が鳴った。すかさずゲームセンタで働く内田さんがカウンタの奥から現れて素早く鍵をファースト・エデンに差し込み警報を止める。彼女は今日も相変わらず、酒と煙草の匂いがした。
「全くぅ、またあんたたちなの?」と内田さんは私とマホコを並べて立たせお説教を始める。「何度言ったら分かるの? 来るたびに警報鳴らしちゃって、全くぅ、それでも麗しき錦景女子高校の生徒のつもり?」
内田さんはひとしきりお説教をしてから、すぐに私たちとたわいない世間話を始める。そしておしゃべりに気が済むと上機嫌そうな顔をしてカウンタの方に戻っていく。
「はあ」私は肩を動かすほどに大きく息を吐く。そしてファースト・エデンのプレイフィールドを俯瞰する。そしてその機械に触れる。
私はプレイを再開する気になれなかった。
再開しても、私は先ほどと同じようにファースト・エデンを蹴り上げてしまうだろうことは目に見えていた。
私はこの機械が愛おしい。愛おしいものを傷付けたくはない。痛め付けたくはない。損なわせたくはない。この機械は私が住むことの出来るもう一つの世界のような気がするし、そしてそこに存在するもう一つの世界とはどこまでも私によく似た神さまがお作りになられた酷くはない世界だと思うからだ。
「平気?」マホコが私の顔をストレートに見ながら聞く。「ねぇ、何かあったの?」
「平気よ、何もないわよ、」私はマホコの愛らしい目元に視線を返して微笑む。私はマホコにあらゆることを心配させたくなかった。しかし同時に私は、マホコにあらゆることを心配してもらいたかった。だから私の顔は勝手に、不気味なまでに過度に微笑んでいたりする。私はマホコに自らの厳戒態勢を過度な微笑によって知らせる。マホコはその知らせを確実に受け取ってくれるということを私は分かっている。「マホコは何も心配しなくていいの、本当よ」
マホコは二秒間、じっと私の瞳の中を覗き込んでいた。しばらくして口元をチャーミングにへの字にして「そっか」と小さく言って、フォレスタル・シンフォニに向き直り、そしてスカートのポケットに右手を突っ込み百円玉を手にし、それを機械に投入してプレイを始めた。
私はマホコのすぐ後ろに立ち彼女がプレイするのを眺める。
彼女の指先に連動してフリッパが動く。
賑やかに。
フォレスタル・シンフォニ。
どこまでもサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドによく似たロックンロールバンドと鶏と猫と犬とロバのブレーメンの音楽隊と岩礁に腰掛け歌う人魚とパイプオルガンを中心とした十九世紀のオーケストラがプレイフィールドに無秩序に描かれている。フォレスタル・シンフォニはこのゲームセンタにある四台の中で最も賑やかで、そして最もテーマ性を欠く台だった。他の三台には切実なまでに練り上げたようなテーマ性が感じられるのに対して、フォレスタル・シンフォニには音楽という広い括りを抜きにして明確な主題のようなものが存在していないように思えた。フォレスタル・シンフォニはあくまで他の三台に華を添えるように、あくまでBGM的な役割を、後方からしかし騒がしく、担っているようにさえ思えた。鼓舞するための機械。それこそロックンロールのように追い立てる。
私が背後から見守る中で、マホコは今日、彼女のベスト・スコアを叩き出す。
フォレスタル・シンフォニのスコアボードの両脇に備え付けられた性能のいいスピーカは、トランペットやサクスフォンやユーフォニアやシンバルやピアノが混ざり合って奏でる火の点いたようなエイト・ビートの旋律を響かせる。
それは私を鼓舞する。
詩人を鼓舞する旋律だった。
詩人の心は充填されていく。
詩人の心はある場合でしか充填されない。このように特別な条件が揃わない限りは詩人の心は充填されえない。
ずっと奥の方まで満たされることがないのだ。彼女が私の傍にいなければ。
「私はエリの傍に居続けるつもりよ」
私の右手はマホコの左手を後ろから握り締める。
この左手は私のものだ。
そして私はここで確信するのだ。
いつしか詩人は成し遂げるはずだと。
正義を果たし示すはずだと。
それを彼女は見届けるのだと。
「そうよね?」
「そうだよ」
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