第三章⑧

 金曜日のお昼の後は、天体史の授業だった。当然ながら天体史の明智先生が教壇に立ち、タクトを振るった。彼女は銀色のペンを右手に持ち、それを中空で動かしながら、時折手の平の上で回転させながら、教科書を歌うように読み上げ、そこに説明を施した。明智先生はチョークを使って板書するときはその銀色のペンをスーツの胸ポケットに差す。板書が済むと右手はチョークを置き、また銀色のペンを持つ。銀色のペンは精確なリズムと心地よいテンポを刻むためにはなくてはならない重石のようなものなのだろう。


 私は天体史の授業を食い入るように、いつになく素直に聞いていた。天体史は息吹き、私の周りで渦を巻くようにして私の体を包み込み、体の中にすっと入り込み、あっという間に心の奥の方に辿り着き、琴線を優しく弾いた。


 明智先生は中世時代の天体史家が残した言葉を読む。


「一つ、ここにただ一つ、微かに息をしている大きな色がある、これらは星屑のごとき無数に横たえている遠くの夢の兄弟が、我らのために用意した言葉、我らのために編み上げた寓話、我らのために建設した機械装置、それらひとまずの凄まじき結実は厳しい前世代的な風雨にさらされ特別な色を失い特別な形を失った、待つべき時期も待たずに自然は川岸に転がる灰色の石に混ぜる、しかしそのどこまでも果てしなき時代の残虐さというものは宿命だったのだ、それは密やかに進歩の激しい旋律の中に逃げ込んだ、それは幻の獣の青い眼にははっきりとありありと見渡せた、けれど器用な小さな天使たちは気付かない、それらが彼女たちに嘲笑の影に隠れていようとも気付かない、あるいは彼女たちは気付かないふりをしている、音も揺れも時の進みも何もない静かで斑模様のざわめき、今もなお、砕け散った残骸は、宇宙よりの太陽の熱によって、永久的に、少なくとも半永久的に再生可能のそのときを待ち、あたかも風雅に踊り続けるようだった、そして器用な小さな天使たちはお伽噺を持て余し時に酷く迷うことを予言とはもっともかけ離れた棚の上にそっと置き笑い続けるのだった、我らは前を向く、退廃的なまでに叙情的にも」


 明智先生の声は、これまでに聞こえていた彼女の声とはまるで違っているように聞こえた。それにはもちろん、今朝のことが関係ある。錦景女子高校第二校歌についての話を明智先生の口から聞いていなければ、私は今も彼女の声をこれまでと同じように聞いていたはずだ。


 明智先生は私の詩人としての可能性を見出し、委ねた。


 これまで果たされることのなかったどこまでも風雅な命題のようなものを、私に委ねたのだ。


 天体史の授業が始まってから私の頭の中では大崎先生が奏でる、錦景女子高校第二校歌のピアノの旋律が響き続けていた。それはブラーのSong 2のように破壊的なものではなかったし、私の集中力が乱れることはなかった。むしろ錦景女子高校第二校歌の旋律は私を天体史の中に引き込んだ。私が私であることを忘れさせるほどに私の全てを引き込んだ。


「宮沢さん、大丈夫?」


 隣の席の伊藤さんに声を掛けられ私ははっとなり、自分の呼吸が激しく乱れていることに気付く。胸の奥の方が締め付けられるように痛んだ。体はじんわりと汗をかいていた。喉が渇いていて唇は酷く乾燥していた。どうしてこんな風に苦しいんだろうって、訳が分からなかった。いや、突き詰めていけばその正体のようなものに私はすれ違えることが出来るだろう。衝突することが出来るだろう。そして私は破壊されるのだろう。


「うん、平気よ、」私は呼吸を整えながら伊藤さんに微笑み、額を触り指先に粘り気のある汗を感じる。「……ううん、あんまり平気じゃないかもしれない」


 そして私は小さく手を挙げて明智先生に気分が優れないことを伝えた。明智先生は軽く微笑み、私が保健室に行くことの認可をくれた。明智先生は何もかもを承知しているように思えた。そして今までの私に関する何もかもも承知しているように思えた。私が火曜日の同じ時間に授業を脱出して屋上に昇り新しい風を感じたということすらも。


「忘れ物はない?」明智先生は私の耳元で、クラスメイトの誰にも聞こえない声で囁いた。


 私は頷く。


 そして私は屋上でバージニア・エスを一本吸って、煙草の残り香を纏ったまま保健室のベッドで短い眠りに付いた。私がどこまでも深い眠りに堕ちても、錦景女子高校第二校歌は私の中で響き続けていた。


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