第三章⑦

「決め手は夏休みの宿題よ、」明智先生は私のことを選んだ理由を簡潔に説明してくれた。「宮沢さんが描いてくれた時の詩はいつまでも燃えていて消えなかった、太陽のようだった、私たちが待ち望んでいたのは間違いなく君だった」


「……期限は?」


「宮沢さんが納得のいくまで、」大崎先生は優しく微笑み続けている。「それまで私たちはいつまでも待つわ、そして仮に私たちが死んでしまったとしてもこの旋律はあなたの詩を待ち続ける、どんなことがあっても待ち続けるの」


「……教えて下さい、どうして第二校歌を作ろうだなんて考えたのですか?」


「宮沢さんは分かっているはずよ」


「私は分かっているはず?」


「ええ、宮沢さんには分からないはずがないのだから」


 昼休みの途中、いつものように屋上でマホコと一緒にお弁当を食べていると、私はチヨに講堂にある演劇部の部室に呼び出された。私は突然の呼び出しに驚くことはなかった。その呼び出しは十分に予期していたことだったし、もし呼び出しがなかった場合、おそらく私はチヨを呼び出していたと思うからだ。


「ゆっくりしていていいの?」マホコは心配そうに私に言った。「横室先輩からの呼び出しでしょ?」


「いいのよ、待たせておけば」


 私はお弁当を綺麗に平らげてから屋上を後にし、演劇部の部室に向かった。


 演劇部の部室は六畳ほどの広さしかない小さな部屋だ。入って左手の壁は一面本棚になっていて、過去の演劇部の台本やそれに纏わる資料などが年代順にぎっしりと並べられていた。右手の壁には黒板があり、直近のミーティングの内容が消されずにそのまま残っていた。奥の小さな格子窓の手前には部長であるチヨのデスクがあり、部屋の真ん中には円卓がある。円卓の周りには椅子はなく、基本的に演劇部が議論をする場合は座らない。円卓の中央には天球儀が一つ。円卓の上は完璧に片付けら掃除されていて円卓の木目調の表面は光沢すら放っていた。私はその円卓にお尻を乗せ、デスクの向こうで格子窓を背にして立つチヨの目をまっすぐに見ながら問い質す。


「果たさねばならぬ正義について、きちんと説明をして頂けませんか?」


「説明など入りますか?」チヨは抑揚なく言う。そして背後の窓に視線を移した。「あなたはもう全てを知っているはずですね?」


「はい、私は今朝、全てを知りました」


「ならば私がそれについて何か言い得ることなどありませんよ、それについて言えば私は中心からはずれた位置にいるのですから、そしてあなたはそれについて中心なのですから」


「私が中心ですか?」


「ええ、あなたが中心なのですよ、あなたは詩人となってここに来る一つの新しい熱波を纏め上げる様にして刻印するのです、それは名誉あることです」


「分かりません、」私は衝動的に声を荒げ大きく首を横に振った。「分かりませんよ!」


「何がです?」


「だから分からないんです!」


「戸惑っているのですか?」


「そうです、戸惑っているんです、私には分からないのです、どうしてこれほどまでに私は戸惑っているのか、私は苦悩のようなものを感じているのか、分からないのです、私が大崎先生と明智先生から託された仕事は旋律に詩を乗せるというだけのことです、それはとっても名誉あることなのかもしれません、しかしどうしてこれほどまでに、絶望的なまでに、私は戸惑っているのか、私には分からないのです、そもそもどうして第二校歌を作らなくてはならないのか、その理由すらも先生たちは教えてくれなかったのです」


「エリは分かっているはずですよ」


「先生たちもそう言いました、でも私には分からないのです、」私は目元に熱いものを感じていた。それはすでに一つ頬を伝って堕ちていた。私の中から次々と零れ出ては堕ちていくものがあった。私の声はどうしても確かな声になってゆかない。「……でも私には分からないのです」


「きちんと見つめるのですよ、エリ」


「見つめる? 私に何を見つめろというのです?」


「それはもちろん正義です、果たさねばならぬ正義のことですよ、あなたが誰よりも見えているはずです、あなたが誰よりもよく見つめなければならないのですよ、目を背けてはいけません、あなたが見つめ続けなければならないのです、果たさねばならぬ正義なのです」


 私は声を押し殺し泣いた。


 チヨは私のことを強く抱き締めてくれる。


 チヨは私の背中に爪を立て食い込ませてくる。


 それはチヨの優しさなのだと今の私には分かる。


 チヨは全身全霊で私の奥底からの激しい震えを抑えようとしてくれているのだということが私には分かった。


 そしてチヨが言うように、先生たちが言うように、私には不思議と何もかもを分かっているのだ。


 果たさねばならぬ正義。


 その輪郭も、大きさもよく見えている。


 チヨよりも、先生たちよりも、私には果たさねばならぬ正義がよく見えている。


 私がよく見えるのは、他の誰よりも正義との距離が近いということではなく、おそらくそれは空間的な配置の問題なのだと思う。


 私が立つ場所からはなぜか、果たせばならぬ正義の全貌が見渡せた。


 その大きさに私は怯えている。


 臆している。


 狂いそうになる。


 逃げ出したくなる。


 しかしだからと言ってどこへと脱出すればいいのでしょうか?


「逃げることを考えてはなりませんよ、エリ、それとは果たさねばならぬ正義なのです」


「しかし私の手に負えるものとは思えません!」私は声を張り上げた。


「大丈夫です、大丈夫ですよ、エリ、」チヨは私の背中にぐっと爪を立ててきつく私の体を抱き締めたまま強い口調で言う。「エリはきっとやり遂げます、正義を果たすのです、それは宿命的に果たされるのです、そのためにエリは選ばれたのですから」


「怖い!」私は呼吸すらもままならないまでに泣いていた。「凄く怖いのです!」


「怖いのならば私をお使いなさい、正義を果たすために私のことを上手く使って切り抜けるのですよ、エリ」


「……上手く使う?」


「そうです、私のことを上手く使って、上手くやるのです、正義を果たすのです、そのために私という存在はあなたの傍にあり、そしてこれからもあり続けるのです」


 私とチヨの支配関係はここにおいて逆転する。


 全ては果たさねばならぬ正義のために、私を中心に回りゆこうとしている。


 私はここに、この手に、この手の平に、重力のような圧倒的なものの存在を感じてゆくのだった。

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