第三章⑥
律儀に私はいつもよりも一時間も早く目覚ましをセットして、目覚ましに起こされることなく一時間前にパッチリと目を覚ました。体は妙に軽く、脳ミソはすぐに回転を初めて私は自分の掃除されていなくて汚い部屋を出て洗面台で顔を洗った。
母は私が起きたタイミングで食パンをオーブントースタに二枚並べてダイヤルを右に捻って、ガスコンロにフライパンを乗せ、火を点けた。母は手際よくフライパンにベーコンを敷き、その上に二つ卵を落とした。そしてコップに牛乳を注ぐ。私が部屋に戻って制服に着替えている間に、すっかりダイニングのテーブルに私の朝食が用意されていた。
母には演劇部の朝練があるから一時間早く家を出なくっちゃいけないと昨日のうちに適当に嘘を付いていた。一時間早く家を出るために私は他になんて言えばいいか分からなかった。音楽室で大崎先生がピアノを弾いているから一時間早く家を出なくちゃいけないと言ってもそれは理由として意味不明だ。そもそも私だって、音楽室でピアノを弾く大崎先生に会う意味を分かっていない。
チヨが私をそういう風に仕向けた。
ただそれだけの話。
しかしそれ以上の大きな意味を持つような話だと思えた。だから私は一時間早く起きて学校に行って音楽室でピアノを弾いている大崎先生に会うことについて反感のような気持ちを抱かなかった。むしろ、それは当然のことのように私の心にすっと入って来て滑らかに私の体を動かしていくようだった。
私はきちんと朝食を平らげ、自転車に跨り、家を出る。
いつもよりも一時間巻き上げた金曜日の朝は、太陽の角度が緩やかで、やはりいつもの朝の風景とは違っているように見えた。色彩は淡くあらゆるものは溶け出して近いものと滲み合い、さながら一枚のキャンバスに描かれた風景画のように見えた。私だってきっと同じように溶け出し滲み合い、金曜日のまたとない風景に同化しているのだと思う。
ピッタリ一時間前に私は錦景女子高校の正門をくぐり駐輪場に自転車を停めた。一時間早い錦景女子高校には静けさが漂っていたが、その中で運動部に所属する錦景女子たちは激しく躍動していた。私はそちらの方をぼーっと見やりながら昇降口でローファから上履きに履き替え一年E組の教室に向かった。教室には誰もいなかった。私は自分の机の上に鞄を置きしばらくぼーっと窓の外を眺めた。そして私は本当に遠くから聞こえるピアノの旋律に気付く。
チヨの言った通り、音楽室では大崎先生がピアノを弾いているらしかった
音楽室は北校舎の三階の東側にある。一年E組の教室は南校舎にあって渡り廊下を通ってから北校舎に移り階段を昇る。音楽室に近づくにつれて、当然ながら聞こえて来る旋律は大きくなってくる。心が奮い立たされるような激しく流れ溢れ出るメロディだった。しかしそれは確実に音を空気に刻み込んでいく。
私はこのメロディの名前を知らない。
そのメロディはやはり音楽室から聞こえていた。私は音楽室の扉をそっと開けて隙間を作り、音楽室の中を覗き込んだ。大崎先生がグランド・ピアノを奏でている。そして大崎先生はそこで一人きりでピアノを奏でているのではなかった。グランド・ピアノの横には天体史の明智先生もいて、彼女は椅子に腰かけ足を組み、膝の上にノートを乗せ、右手にペンを持っていた。そのペンは何かをノートに記すことなく、タクトのように大崎先生の奏でるメロディに合わせて動いていた。レースカーテンは風に揺れ、太陽の光を透過している。どこか非現実的な光景を目にしているように思う。大崎先生と明智先生は、教師という職業とはまるで違った仕事をここでしているのだと思う。ここで彼女たちは何かを探し求めているのだと思う。私にはそれが感じられた。
兄さん、私にはそれが感じられたんです。
明智先生は目を瞑って音楽に身を委ねているように見えた。あるいはとてつもなく複雑な問題を解き明かそうという風に険しい表情を顔に浮かべているようにも見えた。彼女はふとした瞬間に目を開けて、その時にカーテンは朝の風に大きく揺れた、扉の隙間に私の姿を目撃する。
大きく目を見開いて確実に私の姿は捕えられる。
そして明智先生は大崎先生の方に微笑みかける。
「宮沢さんが来てくれたようよ」
メロディは余韻を残して鳴り止んだ。
大崎先生は優しく私に微笑みかける。大崎先生は優しさだけで出来ているような人。しかしこの時には大崎先生の表情に、どこか魔性なものを私は感じた。
「おはよう」大崎先生の素晴らしいソプラノが私の耳に届く。
「……お、おはようございます、」私は慌てて挨拶を返す。そして音楽室の中に入り後ろ手で扉をしっかりと閉めて明智先生にも挨拶を返す。「おはようございます」
「はい、おはよぉ、」明智先生は気の強そうな力のある目を狐みたいに細めている。彼女は椅子から立ち上がり私の前に進み出て、私の横に立ち、そして右手で私の背中に触れてそっと押した。「こっちにおいで」
明智先生に抵抗することもせず私は従い、さっきまで明智先生が座っていた椅子に私は座らされる。明智先生はグランド・ピアノの窪みに収まるようにして、そこに肘を乗せ、首を右に僅かに傾けて私のことを観察するように、その狐みたいに魔性な目で見ている。天体史の授業中に、私は明智先生のこんな表情を見たことはなかった。明智先生は授業中教壇に立つ彼女とは明らかに違っている。
「ごめんなさいね、」大崎先生は本当に申し訳なさそうに謝った。「急に呼び出して」
「きっと訳が分からなかったでしょう?」明智先生はどこか愉快そうに、謝罪に補足するように言った。「どうして私たちが宮沢さんをここに呼び出したのかって」
「はい、」私は膝の上にきちんと両手を合わせて乗せ、背筋をピンと伸ばしていた。「私は、私がここに呼び出された理由が分かりません」
「横室さんは、」大崎先生が言う。「宮沢さんに何も説明しなかったのね?」
「はい、横室先輩は私にほとんど何も説明してくれませんでした、とてもぼんやりとしたことしか」
「それはそうよ、」明智先生はやはりどこか愉快そうに、補足するように言う。「きっと何もかもが説明しづらいことでしょうから、大崎先生が引いていたピアノのメロディはちゃんと聞いていた?」
「はい、ちゃんと響いて聞こえてきましたから、この時間あのメロディをかき乱すものはほとんど何もありませんでしたから」
「どう思ったかしら?」明智先生は聞く。「単刀直入に」
「とても熱いものでした」
「熱い? どんな風に」
「夏の蜃気楼のように熱いもの」
「好きか、嫌いか」
「多分、好きです」
「もっと好きになれそう?」
「分かりません、」私は首を小さく横に振る。「だってまだ一度しか聞いていないんですよ」
「聞かせるよ、」大崎先生は強く言って鍵盤に目を落とす。「何度でも」
旋律は繰り返された。
私は躍動的にピアノを奏でる大崎先生を見つめ続けた。
目が離せなかった。
旋律は煌びやかに反射して私の体を叩きながら、徐々に私の細胞の一つ一つに染み込んでくる。
そしてある瞬間に私はそれに呑み込まれ痺れたように震える。
その旋律が持つ大きな力を持つものに触れて私は何かをせずにはいられなくなる。
私の心はその大きな力を持つものの影響を受けている。
何かが確実に変貌を遂げようとしている。
いつの間にか旋律は一つの終わりを迎えていて、静寂が音楽室を満たしていた。
その静寂の色すらもこの曲は変えてしまっているようだった。
空気が熱い。
体が熱い。
もうどうしようもないくらい熱いんだ。
「……この曲の名前は?」私は聞く。
「錦景女子高校第二校歌」明智先生は歯切れよく言い放つ。
「この曲の詩を、あなたに描いて欲しいのよ」大崎先生はどこまでも優しく、そして魔性な瞳に私の姿を映し続けていた。
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