第三章⑤

 木曜日の演劇部での放課後を私は上手くやり過ごし、そして夜もチヨの勉強部屋で私は上手くやった。チヨは木曜日に私のことを少し太ったとは言わなかった。やはり「少し太った?」とは、ただ単に私を攻撃するための手段であったのかもしれない。けれど木曜日の放課後のチヨは、全般的に私がいつになく従順を装いそしていつになく完全で洗練された演技をしたということもあるかもしれないが、私のことをむやみに攻撃したりすることはなかった。私はいつでもチヨに攻撃されてもいいように身構えているのだが、その必要は全くなかった。私は演技に集中することが出来たし、チヨがあまりにも静かなので彼女が同じ場所にいるということすらも忘れてしまうほどだった。夜になってもチヨは同じように静かだった。私は静かなチヨを不審に思いながらいつものように彼女の勉強部屋で上手くやる。そしてチヨは私のことを優しく誉めた。まるで私の体の太り具合のことなどに興味はないという風に、無条件に優しかった。だから私が太ったという問題は一時棚上げされたように中途半端な位置に移動されてしまった。私はそれについてはっきりさせたかった。しかし問題が先に引き伸ばされたことによって、どこか安心しているようでもあった。そして結局、私の客観性はチヨの主観的な観測に敵わないのだと思い知らされる。私はチヨの言葉に依存している。判断を委ねている。それは好むと好まざるとに関わらず、宿命的に。


 私はきっとこの女からしばらく離れることは出来そうにない。例えどのように関係の形が変化しようとも、とりあえず離れることは出来そうになかった。痛いくらいに強く私はチヨに繋がっている。誰かの手がそこに及び繋がりを断ち切ろうとするならば、私はそれを徹底的に排除するのだと思う。もちろん、私はチヨのことが大嫌いだ。矛盾しているように思える。でもそれはきちんと成り立っているように思える。そしてどこまでも徹底的に優しい木曜日のチヨに私は確実に魅かれていて、情熱的にストレートなキスを彼女に何度もしたのだ。


 行為を終えて、床に散らばったセーラ服と下着を拾い集めているとベッドに体を横たえたチヨが口を開いた。


「正義と言う命題が私に重く圧し掛かっているようです」


「え?」私は振り返ってチヨの顔を見る。チヨの顔はどこか疲れ切っているように見えた。「……何ですか?」


「果たさねばならぬ正義は、」チヨは毛布を抱き、体を丸めて、眠りに入るように目を瞑った。「私の想像を超えてしまっているようでした、私には想像力が足らなかった、置くべき石の大きさとそれを磨き上げるための歳月はおそらく未来を暴力的にも費やしてしまうことになってしまうかもしれません」


 私はなんて返事をすればいいか分からなかった。だから黙っていた。チヨは疲れ切っているのだ。その理由は分からないけれど、チヨは疲れ切っていて、だから急に私の訳の分からないことを言い出したりするのだ。しかし不思議とそこにヒステリックの片鱗はなかった。チヨが訳の分からない言葉を私にぶつけるときには大抵、ヒステリックの片鱗が煌めいていたりするのだが、今はそんなことはなかった。むしろチヨの全体は静かで、穏やかだった。私は穏やかなチヨの言葉の意味を真剣に考えるべきなのだと思った。心を出来る限り彼女に寄り添わせるようにして。そして不思議と私は彼女に痛めつけられてもいいとさえ思っていた。しかしいくら寄り添わせたところで、チヨの言葉の意味を汲み取ることは私には出来なかった。考えるための材料が足りない。もしかしたらチヨは秋のコンクールのプレッシャに弱っているのかもしれない。けれどコンクールのプレッシャに押しつぶされてしまうほどチヨは弱い女ではない。そのことを私は否応なく知っている。チヨを疲れさせ、弱らせているものはもっと大きな何かに違いない。私はそれに、見当もつかない。私は黙っていることしか出来なかった。私は少し悔しいと思う。


「エリ、あなたは詩人ですね?」チヨは目を瞑ったまま、寝言のように言った。


「はい、私は詩人です」私は頷く。


 秋のコンクールで私が演じるのは詩人だった。若き女流詩人の話をチヨは秋のコンクールに選んだのだ。


「ならば一つ、詩が描けますね?」


「はい、」私は頷く。「描けます」


「エリ、明日は一時間早く学校に行って下さい」


「どうしてです?」


「音楽室ではきっと、大崎先生がピアノを弾いていますから」


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