第三章③
錦景市は夜の八時。
その時刻までには私は自宅に帰ることが出来た。チヨの勉強部屋で私が上手くやっていた時間はほんのニ十分かそこらに過ぎなかった。これはいつものことでチヨは長い時間、私を拘束したりはしなかった。勉強部屋に私を無理矢理泊まらせることもなかった。チヨは毎日かかさず朝食に一瓶のヨーグルトを食べる様に規則正しく、ある意味では厳粛に、正義に近づくための儀式を済ませる。それが済めばチヨは背筋が凍りつくほど不気味に、私に優しく微笑み、私に優しいキスをして、セーラ服を纏うように私に優しく言うのだった。その優しさは深く私のことを傷付ける。私は儀式の後のチヨの優しさが大嫌いだった。しかし、本当に大嫌いなのだけれど、チヨのこの瞬間にしか見ることの出来ない優しさに私が魅かれているのも事実だったのだ。チヨのこのときの優しさは兄不在の状況の私を癒し上げる可能性を感じさせる、甘いものだった。大嫌いなのに、大好きなのかもしれなかった。私はこの矛盾した瞬間を迎える度に、私の体は矛盾を上手く受け入れることが出来ずに、ヒステリックが燃え上がってどうしようもなくなってしまう。淡々とセーラ服を纏いながら私はこのヒステリックの激しさを、奥歯を強く噛み締めることによってかろうじてやり過ごす。気付くと私は自転車を漕いでいて、自宅に帰っている。そして私はいつになく酷く、お腹が空いている。
「兄さん、ただいま」
私は例によって兄の部屋の扉をノックし帰宅したことを報告する。もちろん兄は今日も帰って来てはいない。そのことに幻滅したりはしない。帰って来ているのなら前もって何かしら連絡があるはずだから私は兄が帰宅していることを兄の部屋の扉を開けることによって確かめる必要などないのだ。しかし私は兄の部屋を開けてしまわずにはいられない。期待せずにはいられない。何か間違いがあって兄はもしかしたらこの部屋にいるかもしれない。私は兄の帰りを何よりも待ち望んでいる。私はこれほどまでに、何かを待ち望んだことなどなかった。私は兄を愛している。純真であったり、純愛が絡んでくれば、私はこれほどまでに何かを待ち望むことが出来る。「エリは今日も、帰ってきましたよぉ」
リビングでは両親はすでに夕食を終え、お酒を飲んでいた。テレビ画面はミステリィ・ドラマのスペシャルを映していて母は食い入るようにして見ていた。父はハイボールを飲みながらスマートフォンのリズムゲームに熱中している。私はキッチンに入り、サラダ煎餅を二枚食べ、ABCチョコレートを五つ食べた。そしてコーラを飲んで、夕食の前にお風呂に入ってチヨに擦り付けられた彼女の体液を流そうと思って私は浴室に向かった。
セーラ服を脱ぎ下着を脱ぎ洗濯かごに入れ、私は洗面台の鏡に映る自分の裸体を見る。反射的に私はチヨが私のことを太ったと言ったことを思い出した。私の心はチクリと痛み出す。そして私の呼吸はほんの少し、乱れ始める。仕方がないことだ。完全に何かを忘れることなんて出来ないのだ。まして心に刺さって痛んだ記憶を完全に消し去ることなど出来ない。私は目を瞑り呼吸を整え、自分の裸体を見つめる。鏡に映る私の裸体は一見して、いつも通りに見える。いつも通りの酷く華奢な体が映っている。左右の乳房は相変わらず大きさが違っている。貧相で女性的魅力に乏しい体だが、枯山水のように、その様式の分かる人が見ればある一定の評価を与えられるかもしれないアシンメトリの宮沢エリの体を私は好きなだけ客観的に眺める。
「太ってなんていないじゃないの」
私は小さく呟き、そしてドラム式洗濯機の前に置かれた体重計に視線を移し、迷うこともなく乗る。
私は示された数字に驚愕する。
「嘘……、」私は声が出る。「何かの間違いよ」
私は一度体重計を降りる。そして数字をゼロにして、体重計がきちんと作動される環境であるかを確認してから、再び乗った。示された数字は一緒だった。私を一瞬で驚愕させた数字と一緒だった。信じられない。私が把握していた数字よりも、四キロも増えていた。
私は混乱する。私は自分の髪に両手を入れる。何かの間違いだと思う。きっと体重計が狂ってしまっているんだ。壊れてしまっているんだ。一刻も早くそのことを母に伝えて、母にも乗ってもらって、母に四キロの誤差を体験してもらって、新しい体重計を父に買ってきてもらわなくっちゃいけない。
私は体重計から飛び降りる。
こんな狂ったものの上にいてはいけない。同じように狂ってしまう危険性がある。
落ち着いて。
私は私に言い聞かせる。
落ち着きなさい。私は太ってなどいないのよ。おかしいのは体重計の方なの。
「私は太ってなんていない」
私は呟く。
じんわりと額から汗が滲んでいるのが分かる。
冷静にならなくちゃいけない。
冷静になる時間が必要なのよ。
迷路に迷いこんでしまったわけじゃない。
逃げ道を探す必要なんてないのよ。
そう、私は私に言い聞かせる。
「冷静になる時間が必要ね、」声に出して、そして私は大きく深呼吸をする。呼吸は明らかに乱れていた。「こんなくだらないことに動揺して、混乱して、冷静さを失ってしまってどうするのよ、こんな風じゃ兄さんが帰ってきたときにきちんと笑えないじゃないの、兄さんはきっと旅を経てもっと素敵になっているはずよ、だったら私ももっと素敵になっていなくちゃいけないじゃないの、もっと素敵な私はきっとこんな風に冷静さを失ったりしないでしょうに、臆病じゃないでしょうに、弱くはないでしょうに」
私は自分に言い聞かせながら、無理に納得しながら、虚勢を張る。
しかしそれはすぐに崩される。
私は自分の裸体を映す、鏡を見てしまったのだ。
鏡は私の裸体を反射して、私の目に私の姿をきちんと届けた。
私は瞬間的に視線を外そうとした。鏡から目を逸らそうとした。
しかし、出来なかった。
なぜなら、私は自分の姿に疑いを持ってしまったからだ。
私は以前からこんな風だったのだろうか?
以前の私はもっと痩せていなかったか?
もっと顔はほっそりとしていなかったか?
胸はもっと小さくなかったか?
おへその周りはもっと引き締まっていなかったか?
一度抱いてしまった疑いは疑いを呼び、さらに私は自分を疑うことになる。
それは連鎖する。
とどまることを知らない。
どこかでこの疑いの連鎖を断ち切らなくちゃいけない。
私はそう思う。
私はそれが分かっている。
しかし断ち切れない。
断ち切る手段を知らない。
どうしたらこの疑いは消える。
どうしたら疑えない?
私はどうして私を疑っている?
私は私のことを信用できない?
過度に、不信感が私を襲う。
それを呑み込もうとする。
私は吐き気の兆しをお腹に感じる。
私は自分の頬を触る。
稽古が始まる前にチヨに叩かれた右頬を触る。
不思議とチヨが強く叩いたところは痣になることもなく、至って正常に、綺麗なままでいる。それは今回に限ったことではなく、いつだってそうだった。チヨは痣になるかならないかのギリギリの強さで私の頬を叩く。
強く。
強く叩かれた頬は少しふっくらとしていて、浮腫んでいるみたいに、はち切れんばかりに空気を送り込まれている風船みたいに、膨らんでいるように思える。
以前の私の頬はこれほどまでに丸みを帯びていたでしょうか?
私は鏡の前から逃げるように浴槽に入り湯船に体を沈める。そして目を瞑り、冷静さを取り戻そうとする。
温かい。
お湯の温かみに、心を温めていく。
チヨに傷付けられたものを治癒していく。
頭を洗ってから、体を洗う。
シャンプとコンディショナとボディ・ソープの匂いに酔う。
いつも以上に私は、入念に体を洗った。
洗ってみたところ体はいつもと同じ具合だった。無駄な脂肪がどこかにぺたっとくっついている感じはないし、胸がいつもよりも大きさを主張していることもなかった。
私が太っているわけがないのだ。
体重計が狂っているだけなのだ。
気にすることはない。
私は自分に言い聞かせる。
「私は太ってない、私は変わりない、私はいつも通りの宮沢エリなんです」
そして私は浴槽の中で歌を歌った。即興でメロディを作りながら、即興でそこに歌詞を乗せた。即興にしては意外と他人に聞かせてもいい歌ではないでしょうか?
私にはうたうたいの才能があるのかもしれません。
のぼせそうになってやっと私はお風呂から出る。私はドラム式洗濯機の上に置かれていたバスタオルを取って浴室の中に戻り入念に体を拭いた。水滴の気配がなくなったところで私は浴室から出てドラム式洗濯機の前で母が用意してくれていた替えの下着を着て、タオル地のパジャマを着る。そして絶対に鏡を見ないようにして洗面台の前を通り過ぎて廊下に出てリビングに入り、ミステリィ・ドラマに釘付けになっている母の横に座る。
ミステリィ・ドラマは佳境に差し掛かっていた。
「ちゃんと髪乾かしなさいな」CMになって私の存在に気付いた母が言う。
「だってドラマの結末が気になるんだもん」ドライアは洗面台にある。私はその前にどうしても立ちたくなかった。
「最初から見ていなかったでしょうに、それで気になるの?」
「結末だけ気になるんだもん」と、私は言う。
私は恐れているのだと初めて知った。
私は太ることを恐れている。
そして初めて体重のことを考える少女たちの気持ちが分かった。体重計に乗りたくないという気持ちが初めて分かった。分かった頃には遅過ぎたのだ。私は食べ過ぎていたのかもしれない。私はいつだってお腹を空かせていて、そして欲望に忠実にお腹が一杯になるまで食べ続けた。それ以上に食べ続けた。そして私は太ってしまった。
私はきちんとエネルギアを使い切ることの出来るシステムを体に持っているのだと確信していた。過信していた。けれど事実は違った。発散出来ないエネルギアもあったのだ。普通の少女のようにそれはあって蓄積されて脂肪になって私に確かに蓄積されたのだ。人間の体のシステムとしてそれは当然のことだ。私は私の体がエネルギアを発散仕切る以上のエネルギアを摂取していたのだ。どこからか私は確実に食べ過ぎてしまっていたのだ。どこからか私の食欲は私の知らない間に一線を越えてしまったのだ。それはチヨによって与えられるすストレスのせいかもしれないし、兄が傍にいないことによる寂しさのせいかもしれないし、それ以外の私が思いも寄らない何かかもしれなかった。
私はミステリィ・ドラマの結末をきちんと見届けてから、夕食を食べずに二階に上がり自室のベッドに横になった。
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