第三章②

 三田マホコとピンボールで遊び、アマノ・カフェで初めて東雲ユミコと遭遇した次の日、神様のいない月の水曜日、私は予定通り、錦景女子高校の二年で演劇部の部長である横室チヨの攻撃を受けることになる。放課後、講堂の舞台に演劇部のメンバが漏れなく揃い横一列に整列したところで私はそこから三歩前に進み出るようにチヨに言われる。私は「はいっ!」と歯切れよく発声し言われたように、一歩、二歩、三歩と前に進み出る。私の足音が講堂に反響する。それは私の足音とは思えないくらいに機械的に響く。あるいは、その機械的な響きに私は歩かされているとも思える。


 チヨは私の正面に立つ。互いの息遣いがよく聞こえる近さだ。互いの体温だって感じられると思える距離だ。講堂には冷たい静寂が密やかに横たわっている。後ろに整列しているはずの演劇部のメンバの気配を私は一切感じることが出来ない。講堂は私とチヨの二人だけの世界になってしまったように感じられる。二人だけの世界は酷く窮屈でまるでこの世界の縮図のようだと思った。支配するものと支配されるものの縮図。それがそっくりひっくり返る瞬間が革命ならばその定義は何も間違ってはいないと思う。


 この世界には革命が必要とされているのだ。


「エリはどうして昨日、稽古に来なかったのです?」


 チヨの声は嫌に甲高く響く。チヨは私の目をその平安風な切れ長で美麗な目でまっすぐに覗き込むように見てくる。チヨは首を右に斜めに傾けている。その角度に従い彼女の艶やかな髪が流れ、彼女のポニーテールが垂れている。彼女の薄く紫がかった唇は半開きだった。


「すみません、」私はチヨの目を見る。強く。そして与えられた台詞を読むように言う。「気分が悪かったもので」


「私は何度もエリに電話しました、それにエリは出ませんでしたね、折り返しの電話もありませんでした」


「すみません、」私はチヨの目を見る。強く。そして与えられた台詞を読むように言う。「気分が悪かったもので」


「今朝、どうして私のクラスに来て謝ることをしなかったのですか?」


「すみません、」私はチヨの目を見続ける。「今朝も気分が悪かったもので」


 チヨは私の頬を叩く。


 私は頬を叩かれる。


 パンっ!


 講堂に何かが炸裂したような音が響く。


 その音を私の耳は上手く拾えない。


 叩かれたことで私の耳は一瞬遠くなる。


 私はチヨの目を見ていない。


 目を逸らされている。


 私の頬には電気をぶつけられたような痛みが走り続けている。


 その痛みは深くしっかりと突き刺さり、じんわりと広がって私の涙を誘発し、景色を歪ませる。


 舞台を照らす一つの強い黄金色の照明が私の溢れ出る涙の中でどこまでも反射して、ここは幻想的な風景の中だと錯覚させる。


 これはこの小さな都市が纏う錦景のある一つの形なのかもしれない。


「嘘を付かないで下さい!」チヨは鋭い口調で、感情的に言い放つ。「私は知っていますよ、あなたが昨日三田さんと遊んでいたことを私はきちんと知っているんですからね、そして今朝だってあなたは気分が悪い様子なんて一切見せることなくきちんと登校していたというじゃありませんか? 今だけこんな風にしゅんとした顔をして私のことを騙し通せるだなんて思っているんですか?」


「すみません、」私はチヨに顔を向けて、再び彼女の目を強く見つめて言う。「すみません」


 頬は痛み、私はその痛みに震えている。決してチヨに恐怖を感じて震えているわけではない。私がチヨに恐怖を感じるわけがないのだ。ただチヨに与えられる痛みに震えてしまうだけなのだ。チヨに痛め付けられることに震えているだけなのだ。私がチヨを恐怖するわけがない……。


 なんて私は自分に虚勢を張ったりする。


 誰にでもなく、自分に私は虚勢を張るの。


「どうして私に嘘を付くのですか?」チヨは問う。


「すみません」私は彼女の目を相変わらず強く見つめ続けている。


「謝ってばかりいないで、そこには何かしらの理由があるのでしょう? 必然的にあなたを三田さんと遊ばせた理由があるのでしょうに!」


「すみません、」私は執拗に彼女の目を見つめ続ける。「すみません」


「だから理由を言いなさいと言っているんです!」チヨはがなる。


「すみません」私は歯切れよく、繰り返す。


「理由を言いなさいな!」


「すみま、」


 その瞬間にチヨは私の頬をもう一度叩いた。またしても私の耳は遠くなる。痛みに痛みが被さって頬には確実な混乱が訪れている。そして私は酷く客観的になる。この状況がとても不可解で非現実的なものだと思える。ここに何らかの意味を求めようとして私はすぐに諦める。意味などないのだ。チヨが私を痛めつけることに意味などない。何もないのだ。ただの邪魔に過ぎない。チヨはどこまでも私の邪魔をする、風変わりな女。


「まあ、いいでしょう、」チヨは自分のポニーテールを払い、体の向きを変え視線を私から逸らして後ろの方にやる。私の後ろには演劇部のメンバが整列しているはずだ。確かそうだったはずだ。「十月の終わりの秋のコンクールは目前に迫って来ています、皆さんはエリのように無断で稽古を休むことのないように、いいですね? 私たちは金賞を獲らねばならないのです、一昨年は銀賞でした、去年も銀賞でした、今年こそ、我らが錦景女子演劇部は金賞を取らねばならないのです、もちろんコンクールの金賞が全てということではありません、例え金賞を獲ることが出来なかったとしても、コンクールで私たちは私たちなりに最高の仕上げた舞台を披露しなくてはなりません、それは私たちに課せられた正義のようなものです、私たちは正義を体現する、そのような使命があるのです、そうですね、エリ?」


「はい、」私は歯切れよく答え頷く。「その通りです、私たちは正義を体現しなければなりません、それは使命なのです」


 チヨは私の肯定を受けて微笑み「ところで、」と私の肩に触れて、私の耳元で囁く。「あなた、最近少し太りました?」


 そう。


 最後までチヨはこんな風に私のことを邪魔してくるのだ。最後の最後まで、私の心をチクリと刺す。邪魔な痛みの余韻を確実に残しておく。私を痛めつけることに対してチヨはどこまでも執拗で抜かりがないのだ。


 私は瞬間的にヒステリックになっている。


 私はそれが外に出てしまわないように必死に感情を押さえつける。


 太ったなんて私は信じられなかった。


 私は太らない女なのだ。私はいつだってお腹が空いていてその欲望に忠実に従ってクォータ・パウンダやポテトやチキンナゲットに手を伸ばしそれらを急いで咀嚼する。私の大きな胃袋はそれらを綺麗さっぱり消化してエネルギアを引き出す。そしてエネルギアは見事に全て私の体内に滞留することなく体外へとエネルギッシュに発散される。余すことなく私の体はエネルギアを使い切る。私の体はそういうシステムになっているのだ。だから私の体には余計な脂肪が付くなんてことはこれまでになかった。十一歳の頃に突然出来上がった左と右で不揃いな乳房は、一度完成されてからこれまで膨らむこともなく縮むこともなかった。女として必要最低限なものとしてそれらは突如として私に与えられてそれからすっかり私の体の一部として安定していた。私の体は安定している。だから私はチヨに太ったなんて言われてそれをそのまま信じなかったし、私を痛めつけるための攻撃の一つに過ぎないのだと思って気にしないようにした。けれどその攻撃の仕方は新しいものだった。だから私はヒステリックになった。チヨが私の容姿に意見を言うなんてことはこれまでなかったことだからだ。チヨは私の容姿については無条件に認めていた。だからチヨは私をコンクールの舞台の主演に選んだのだし、私が演劇に対して怠惰であったり放胆であったりすることが許せないし気に喰わないのだ。チヨは私に主演女優としての節度とひたむきさを要求してくる。私がチヨにあらゆる面で従順であることも。それらはもちろん私にとっては特別うっとうしくて邪魔でしょうがないものなのであり、私の演技を阻害するものでしかないのだが、チヨは全くそれに気付かない。気付こうともしない。それは害悪だと私は思う。


 とにかく、そのとき私はチヨに太ったと言われても気にしないようにした。忘れる様にした。彼女のお説教の後、いつも通りに稽古が始まり、それを淡々とこなしていくうちに私はチヨに太ったと言われたことをすっかり忘れることが出来た。


 通し稽古で私は舞台を縦横無尽に動き回り、声を限界まで張り上げ講堂を震わせ、そしてあるシーンでは咽び泣き大きく両腕を広げ、まさに迫真の演技を見せる。ある二年生のメンバは私を見つめながら溜息を吐き、ある同級生のメンバはまるで私に恋をしてしまったみたいに頬を朱に染め瞳を輝かせている。それはいつもの風景であり、そして私が演技をしている間チヨは、金魚鉢の中で孤独に揺蕩う白勝ちの桜錦でも眺めるように機嫌よく微笑んでいる。要するにチヨは私が彼女の支配下にいて、反抗的な眼差しも態度も隠して、彼女が望む通りの演技をしている間は愉快でいられるのだ。


 錦景市の夜の七時に稽古が終わり、そして私はいつものようにチヨが講堂から出て来るのを出入り口で待ちながら二年生と同級生の演劇部のメンバを送り出す。下弦の月が綺麗に夜空に浮かんでいる。その周りを星屑が散らばっている。少し冷える秋の夜だ。冬の到来はきっと、夜空に浮かぶ星々を一つ一つゆっくりと数えている間にひっそりと訪れてしまうのだと思う。


「お待たせしました、エリ」


 チヨが講堂から出て赤茶色の靴を履く。チヨがとんとんと爪先で地面を叩いている間に私は講堂を施錠する。そして私は鍵を職員室に返しに走る。そこに残っていた先生たちに挨拶して、駐輪場に行き自分の自転車を転がして、正門で待つチヨのところへ急いで向かう。彼女を不機嫌にさせないために息を切らせるくらい急ぐ。


「すみません、お待たせしました」私はチヨの横で肩を上下させて大げさに息をする。もちろん、演技だ。


「遅かったですね」チヨは上機嫌そうにそう言って軽く微笑む。


「すみません」私はこの瞬間にも軽く痛め付けられている。


「さあ、帰りましょう」チヨは私の頭を触る。


「はい、帰りましょう」


 私はチヨを自転車の後ろに乗せてペダルを踏み漕ぎ出す。チヨは私に必要以上に体を密着させて来る。チヨの両腕は私の体を強く抱き、チヨの柔らかくて形のいい乳房は私の背中にしっかりと押し付けられる。耳たぶにはチヨの吐息が常にかかっていた。チヨの体は徐々に熱を帯びているのが私には分かる。チヨの体は私の体と近付くことで興奮するように出来ている。私は自転車をゆっくりと漕ぐ。ゆっくりでないとチヨは不機嫌になり私のことを邪魔するからだ。私は自転車をゆっくりと漕ぐ。チヨは後ろで語り始める。それは私が演劇部に入部してから何度も聞かされた、正義についての話だった。「予感は日毎に大きくなりつつあるのです、正義が果たされる予感というものが、あるいは気運のようなものが、ここに来て物凄く現実味を帯び始めているんです、私がエリに出会ってから抱いた予感は確かなものになりつつあります、最初それは葉っぱの上を這う芋虫のように頼りないものでした、しかし梅雨を超え夏を迎えたあたりから芋虫は蝶へと変貌するためにさなぎとなりました、さなぎはとてもそこに一つの生命が存在しているとは思えないほどに静かです、しかし時折、さなぎは私のことを勇気付ける様に微かに揺れ動くこともあったのです、さなぎの中では確かに正義は生き育まれている、正義はより正義として洗練され美しいものになるために今まさにこの時も成長を続けている、いずれさなぎは開かれ蝶は空に羽ばたくことになるでしょう、私は正義が羽ばたく瞬間を見届けるためならどんなことだってしますしどんな風にだってなれます、それにどこまでも注意深く執拗になることが出来るんですよ、エリ、それがどういうことか分かりますか?」


「はい、もちろん、」私は向かいから迫るミニクーパのヘッドライトが眩しくて目を逸らす。「分かります」


 私は錦景女子高校からそれほど離れていないチヨの自宅の門の前で自転車を停めた。そしてチヨに腕を取られて敷地の中に入る。チヨの自宅はお屋敷と言ってもいいくらいに巨大な瓦葺の日本家屋だった。庭園と呼べる広い庭があり、よく手入れされた斜めに生えた松があり、その根元には池が広がり、鯉が泳ぎ、その上をアーチ状の小さな石橋がかけられている。門から玄関まで石畳が敷かれているのだが、それは途中で右手の方に分岐して庭の奥へと伸びている。その先には密生した緑に埋もれる様にして離れのような小さな建物があり、そこは今ではチヨの勉強部屋のようなものとして使われていた。入って奥に勉強机があり、右手一面が本棚になっている。左手の方には円形の窓が二つ並び、その下にベッドがある。チヨはベッドに腰掛け靴下を脱ぎ裸足になる。いつ見ても細くて綺麗な足だ。私は部屋の真ん中に立ちつくし、チヨの綺麗な足を見ている。


「さあ、脱いで私に見せて下さい」


「はい」私は頷き、セーラ服を脱ぎ、厚手の絨毯が敷かれた床に落とす。靴下を脱ぎ、私は下着だけを纏った姿になり、またしてもチヨの目をまっすぐに見つめる。


「やっぱり、エリ、」チヨは真面目な顔をして言う。「少し太りました?」


 私は軽く微笑み、曖昧に返事をした。


 私は太るわけがないのだ。


「まあ、いいでしょう、」チヨはセーラ服を脱ぎ、下着を脱ぎ、そして自分のポニーテールを解いた。チヨの裸体は彼女の長い黒髪に包まれる。チヨは私を誘うように片手を広げて声を響かせる。「さあ、今夜も上手くやるのですよ、エリ、これは正義へと近づくために繰り返されなければならない儀式です」


「はい、」私は従順を装い繰り返す。「これは正義へと近づくためにくりかえされなければならない儀式です」


 私は頷き、正義へと近づくための儀式を上手くやる。チヨに教えられた手順通りに一つも漏らすことなく上手くやる。上手くやることが、この小さな部屋に唯一残された私の抵抗の手段だった。


 だから私は上手くやる。


 チヨのおよそ半年間の教育によって私は上手くやることが出来るのだ。


 だから私は上手くやる。


 そしてとめどなく溢れ出て来る感情の波をチヨにぶつけてしまいたくなる。私の感情の波の色は紫色をしているが、今は感情の波は何層も重なり黒くなっている。その黒く見える感情の波はチヨへの愛情かもしれないし、チヨへの殺意かもしれなかった。私にはその黒く見える感情の波がどのような意味を持つものなのか分からなかった。いずれにせよ、溢れ出て来る感情の波は私に強く攻撃的にチヨの唇を吸わせた。


 異常だと思う。


 私はレズビアンではないのだ。


 私は兄のことを愛しているのだ。


 宮沢エリは宮沢ケンジのことを愛しているのだ。


 私の頬を赤く出来るのは兄だけなのだ。


 しかしどんなにそう思ったところで私が上手くやることに変わりはない。


 私がレズビアンのチヨとセックスをして性的な快楽を感じていることに変わりはないのだ。


「少し大きくなったみたいですね」チヨが私の右の乳房を優しく持ち上げながら言う。


「あんっ、」私は高い声で鳴き、そんなことがあるわけがない、と思いながら軽く微笑む。「そうでしょうか?」


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