第三章 フォレスタル・シンフォニに騒いで
第三章①
BGMは空気公団の旅をしませんか。
私は兄の完璧に片付けられた部屋のベッドに腰掛けバージニア・エスを吸っている。
白い煙を吐き、それが空気に紛れてしまうのを待たずに私は目を瞑り兄のことを考える。
宮沢エリは宮沢ケンジのことを考えるのだ。
兄が私の顔を赤くしたその日から兄の何かは変わってしまったようだった。それは目に見える変化でもなく、誰にでもすぐに分かる変化ではなかったけれど、妹の私には分かった。父と母は兄の変化には全く気付いていないようだったが私には分かったのだ。兄の心の奥の方にある、兄を兄たらしめる揺るがし難い、あるいは揺るがしてはならない大切な部分に大きな変化が及ぼされてしまったことを。
兄が学校を辞めた時、私はそのときに兄に大きな変化を見て取ることは出来なかった。高校生が高校生を辞めるなんてことは至極普通に生真面目に考えれば、莫迦げたことだし狂気的なことだし理解不能意味不明なことだ。兄は何らかのトリガを引かざるを得ない状況に追い込まれてしまったのかもしれないと私は考えた。最初兄が学校を辞めると聞いた時、兄がおかしくなってしまったんじゃないか、狂ってしまったんじゃないか、疲れ切ってしまったんじゃないか、と私は凄く心配したのだ。けれど兄と話しているとその心配は煙のようにまたたくまにすーっと空気に紛れて消えてしまった。兄は学校を辞めたことについて酷くあっさりしていた。そして学校を辞めたことをそれほど重大なこととは思っていないようだった。兄はいつものように私に優しく微笑みかけてくれた。私の心配を余所に、兄は兄そのままだったのだ。おそらく、兄を兄たらしめる心の大切な部分に従ってあっさりと学校を辞めたのだと私は考えた。学校を辞めることは最初から予定されていたことであり、そしてそれは何も間違ったことじゃないのだと私は考えて納得した。自然に受け入れることが出来た。そして兄はすでに新しい道を歩み始めている。
私は兄がどんな道を進もうが応援し続けようと思った。大勢がドロップアウトした兄のことを責めても、私だけは兄のことを責めたりはしない。どんなときも私だけは兄の味方で居続けよう。私は神さまに誓いを立てる。私は絶対に兄のことを裏切らない。兄を裏切ったときが、私が死ぬときだ。
正直、私は兄が学校を辞めて嬉しかったのだ。戸惑いも大きかったが、嬉々とした気持ちも大きく私の心を占めていた。学校を辞めれば必然的に兄が家にいる時間が長くなる。私は兄と過ごす時間を欲しがっていた。兄が中学生になった頃くらいから、私と兄はすれ違うことが多くなった。私も一年遅れて中学生になり演劇部に所属したりして忙しくなるとさらにすれ違うことが増えていった。二人が高校生になってしまえば、二人の世界は完全に分断されてしまったようにさえ思えた。私は、兄の世界においての私の存在感について真剣に考える様になった。私がその全貌を知らない、知る由もない兄を中心とした世界において、果たして私はどれくらいの大きさを占めているのだろうかと。私は想像力を出来る限り働かせて一晩中、存在について考え続けたりしていた。そしてその度にいつも決まって私は、もし兄に恋人がいたり親しい女友達がいたらどうしようかと不安になってしょうがなくなるのだ。
私は兄のことを愛している。
文字通り、愛しているのだ。
きっと産まれてから、愛している。
宮沢エリは宮沢ケンジのことを愛している。
それは兄妹としての愛であり、兄妹を超える愛だった。そして兄妹だからこその愛だった。兄は産まれたときからずっと傍に存在し続ける同世代の異性だった。そして何より、私と血の繋がり合った異性だった。私はこの血の繋がりの運命めいたものを感じ続けずにはいられなかった。血の繋がりとは何にもまして強い繋がりであることは間違いないのだ。
物心ついた頃には私は兄のことが好きなのだとはっきりと自覚していた。クラスメイトの男の子と仲良くなっても兄に抱くような気持ちになることは一切なかった。友達同士で恋の話をしたりするとき、私はなんて話したらいいか困った。実の兄のことが好きだなんて、普通に考えれば異常なことだ。私にとっては正常なことでも、この世界では異常なことなのだ。その私の異常性を私は小さな頃からキチンと客観的に理解していた。客観的過ぎるほどに私は自分の恋心を分析して幾度となく兄への気持ちを確かめてきたのだ。私は自分の気持ちを外から隠し、時には巧妙に偽りながら、内にどこまでも高く堅牢な城のような恋心を築き、そして温め続けてきたのだ。実の兄を好きになるなんて普通に考えれば間違っている。しかし兄は私の顔を凄く赤くさせる。他の男の子にはそんなことは出来ない。きっとこれからも私の顔を凄く赤くさせることが出来るのは兄だけなのだ。思春期になれば私は、兄とセックスがしたいと思い始めた。兄のものを私の中に入れて繋がりを確かめたい。けれど勇気がない私は、きちんとした理性を持つ人間である私は、高い偏差値を持つ私は、そのことをどうしたって兄に打ち明けることなど出来なかった。態度で示すことは出来たとしても、それは言葉にはならなかった。言葉にすれば、言葉は兄に確かめられて、ある答えを導き出す。兄は私が求めている答えを言葉で返してくれるか分からない。私は冷静に、兄は私が求めている言葉をくれないと思う。くれるわけがないと思う。言葉さえくれない可能性だってある。拒絶される可能性だってある。嫌いだって言われるかもしれない。私は兄に嫌われたくない。私は怖い。それを思うと私は臆病になる。愛を言葉に出来ないことは辛いけど、兄に嫌いになられることの方がもっと辛い。だったら理想的な妹で居続けるべきだと酷く冷静な私は私に言い聞かせる。そんな不自由さに震えて泣きじゃくって暴れ出しそうになる私に私はいつの日からか、バージニア・エスを吸わせるようになった。バージニア・エスを吸いながら私は果たされることのない兄への気持ちを詩へと変換してノートに書き落とすようになる。それは纏まり私にとっての第一詩集として完成した。そこに書き連ねた数々の詩は一つの纏まりなどなく、むしろ纏まりを放棄するようにそれぞれ別の形を持ち違った色の光を違った方向へと放っていたけれど兄への純愛をそこに込めたという点では共通していた。それを私は押し入れにしまうことにする。私はそれを誰に見せる気もなかった。それは兄だって例外ではなかった。むしろ兄には決して見られてはいけないものだった。そこに書き連ねた愛の詩は、間違いなく私の心を偽りなく言葉にしたものだったからだ。
そして今の私は第二詩集へと取り掛っている。そこに書き連ねるものに共通するのは、どこかへ旅立ってしまった兄に向けた愛の詩だ。
そう、あの日から。
私が兄の大きな変化を感じたあの日から、兄は旅立ちの準備を始めていたのだ。兄は押し入れを整理しながら、一年前に家族で錦景山を登った際に買った大きなカリマのリュックに旅に必要なアイテムを仕舞い込んでいった。私は気分転換に登山でも行くのかな、と思い兄にそれについて聞いてみた。よければ私も一緒に行きたいと思いながら。しかし兄は曖昧に返事をするだけで私には何も教えてくれなかった。そして兄は登山に出かける様子もなかった。様々なものが仕舞い込まれたリュックはしばらく兄の部屋の机の横でサーキュレイタと並んで佇んでいた。そして兄は相変わらず、いつ来るとも分からない迎えを待つようにテレビを一日中見続けていたのだった。
兄の迎えは突然やってきた。八月の第一週の空が濃い灰色に染まった月曜日だった。そしてとても蒸し暑い日だった。夏休み中だったが、演劇部に所属する私はその日も部活のために錦景女子高校に行っていた。私が帰ったのは錦景市の夜の七時だった。私は自分の部屋に帰る前にいつものように兄の部屋をノックした。しかし返事はなかった。「兄さん?」私はノブを回して中に入る。すると、部屋は真っ暗で一日中つけっぱなしだったテレビもすっかり消えてしまっていた。私はスイッチを押して電気を点ける。部屋に兄の姿はなかった。眠っているのかと思ったけれど、ベッドの上の布団は綺麗に畳まれていて乱れがなかった。そして違和感があった。机の横にサーキュレイタと並んで置いてあるはずのカリマのリュックが消えていたのだ。それだけが忽然と消えていた。私は急いで階段を降り、リビングでソファに横になりミステリィ小説を読み耽っている母に問う。「ママ、兄さんは? どこかに出かけているんですか?」
「出かけてるのって、エリ、もしかして知らなかったの?」母は文庫本に栞を挟み畳んで言った。そして母は説明してくれた。
兄は父が働くパイザ・インダストリィという会社の人と世界に旅立ったということ。いつどこにいるか、いつ帰って来るか、そんな予定は全くない旅だということ。
「何も知りませんでした、」涙はとめどなく溢れだした。溢れて止まらなかった。これは嘘の涙なんかじゃない。私は寂しさに一瞬にして包まれて、そのあまりの寒さに耐えきれず、気が狂ってしまいそうになる。私は母に多分産まれて初めて、怒鳴った。「そんな大事なことをどうして教えてくれなかったんですかっ!?」
どうして兄さんは私に何も言わずに旅立ってしまったんですか?
私は血の繋がったあなたの妹ですよ。
それを伝える義務は確実にあるでしょうに……。
その日を境に、兄の世界は私から遥かに遠のいてしまった。
私の想像力など及びもしないこことは違った世界に兄はいる。
生きているのか、死んでいるのかさえ、私には分からないのだ。
いずれにせよ、私は兄が帰ってくるのを待ち続けなければならない。
あるいはこの右手に引き寄せなければならないのかもしれない。
この世界に孤絶しながら私はバージニア・エスを吸っている。
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