第二章⑤

「ケンジ君、聞いているかい?」


 草野先輩は怪訝そうな表情をその美しく整った顔に浮かべ俺の顔を横から覗き込んでいた。草野先輩の穏やかで静かな声には幻想的な響きがあったが、彼は現実に俺の部屋にいて、俺の椅子に座り足を組み膝の上に指を絡めた両手を乗せていた。草野先輩は今まで何度も俺の部屋に来たことがあって、同じように俺の椅子に座ったりしていたのだが、今となってはそのことは不自然で釈然としない風景に俺の目には映った。


 草野先輩は中央高校のテニス部の部長で、俺とダブルスのペアを組んでいた。俺の一つ年上で三年生だったが、中央高校で一番仲が良かったと思える人は草野先輩だった。今日は部室に置きっぱなしにしていたテニスラケットとテニスシューズを届けてくれたのだった。しかし元高校になった今となってはそんなものは必要なかった。草野先輩がそれを届けるためにわざわざ家に来た時に、テニスラケットは普通ゴミのままでいいのか、粗大ごみになるのかを俺は瞬間的に考えていたのだ。そして罰が悪かった。俺は何度も草野先輩の電話を無視し続けていたし、他のクラスメイトたちからの着信も同様に無視していた、最終的に俺は「もう必要ないから」とスマートフォンを父に預けていた。父は手際よく契約を解除したはずだ。それに関して草野先輩は特に俺に問い詰めたりすることはしなかった。


「ごめんなさい、なんでしたっけ?」


 俺はベッドに横になり、相変わらずテレビ画面を見つめながら言う。俺はエリの第一詩集、デア・ブラザを読んでしまった日からテレビばかりをひたすらに見続けるようになった。俺がテレビに夢中になるということは今までほとんどなかったと思う。小学生の頃は友人たちと外で遊んだり、誰かの家に集まってゲームをしたりする方が楽しかったし、映画を見たいと思ったら父と一緒にレンタルビデオショップに行って借りて見ていた。ゴールデン・タイムに放送されるバラエティ番組が好きになれなかったということもある。単純に小学生の俺はそれを見ても笑えなかった。中学生になってからは部活が毎日遅くまであり、塾にも行っていたり、その課題をこなしていかなくちゃならなかったからテレビを付ける習慣は自然となくなっていた。高校生になってもそれは変わらず続いていたが、元高校生になってから俺はそれまでに失われたテレビとの関係の修復を急ぐように、あるいは取り戻すようにテレビを見続けていた。見続けていると当然ながら、面白い番組もつまらない番組もその中間くらいの番組も存在しているのだと知ることが出来る。続きが気になるドラマやアニメに出会うことが出来る。野球中継の面白さに気付く。夜のBGM以外の余計な雑音がない世界の秘境の映像を延々と映し続ける紀行番組を見れば、俺はその秘境に旅立っている気分を味わうことが出来た。賑やかなバラエティ番組を見るのもいい。関矢マミというアイドルのファンになった。彼女は俺に微笑んでくれる。テレビによって俺は寂しさを忘れられる。テレビによって俺は現実を忘れられている。エリの第一詩集のことももちろん、記憶の片隅に追いやることが出来る。あんなものは最初から存在していなかったのだ。俺はすっかりテレビ・ジャンキィになっている。


「もうすっかりテレビ・ジャンキィじゃないか、」草野先輩は大きく溜息を吐き、やれやれとでも言いたげに首を横に振った。「僕が知っているケンジ君は一体どこに行ってしまったんだろう?」


「……ねぇ、草野先輩、」俺は夕方の子供向けアニメから目を離さずに言った。「俺が学校を辞めてからどれくらい経ったんですか?」


「学校を辞めてから二十日だ、君が学校に来なくなった時から数えると二十八日になる、」草野先輩は薄く形のいい唇を滑らかに動かしすらすらと言った。「そろそろ夏だ、今は季節の変わり目のような時だ」


「二十日」と俺は口に出す。


 二十日とは長かったような気もするし、短かったような気もする。いずれにしても、高校生だった頃の記憶は急速に色あせているように思えた。色が抜けてしまって、幼稚園の砂場で泥遊びをした記憶と年代的にほとんど同列のものとして俺の脳ミソは処理をしているような気がする。すでにそれは遥か彼方にぼんやりと漂う、現実味の失われた連続性を欠いた断片的な過去となってしまっているのだ。


「来週の試合が僕たちの最後になるかもしれない」草野先輩は優しい顔立ちをさらに優しくして見せてポツリと言った。


「僕たち?」


「三年生のだよ」


「ああ、そうか、」確か来週の土曜日と日曜日に敷島のコートでインターハイの予選があったはずだ。予選を勝ち残らなければ、引退だ。そして受験勉強に専念しなければいけない状況となる。「……その、頑張って下さい」


「思ってもないことを、」草野先輩は静かに微笑み、前髪を掻き上げた。「君と僕は最高のペアだったと思う、上手くきちんと噛み合っていて、息もピタリと合っていた、無駄がなかった、僕は君のことを幾度となく助けて来たし、君は僕のことを幾度となく助けてくれた、もちろんそれは二人が同じ目的のために闘っていたからなんだけど、僕たちはそれぞれに感謝し合っていた、尊敬し合っていた、二人の形は美しく洗練されていたと思う」


「美しく洗練されていた」俺は繰り返す。


「そう、今はもうそのようなものはないのだけど、僕は日々、君との美しく洗練された形を思い出してはセンチメンタルになる、もうあの頃には戻れないんだって、ケンジ君、もう僕たちはあの頃には戻れないんだろうか?」


「もうあの頃は過ぎてしまったんですよ」俺は学校に関係するあらゆるものを片付けたつもりでいたのだ。そこに草野先輩との人間関係も含まれていないということはない。俺は何もかもを片付けるつもりなのだ。


「とてもあっさりとあの頃は過ぎてしまった、」草野先輩の目元には熱があった。「本当にあの頃は目覚めたらもうどこかへ消え失せてしまったいい夢のように僕の心の中でわだかまっている、取り戻したいと思う、でももう続きを見ることは絶対に出来ないということは分かっているんだ、取り戻しようのないものを僕は取り戻したくてしょうがないんだよ、ケンジ君」


「諦めきれない」


「そう、諦めきれない、」草野先輩は涼やかな目元を人差し指でなぞる。「諦めなくちゃならないことなのに、仕方のないことなのに、そして僕は仕方のないことを受け入れるために一体何に折り合いを付けて一体何に納得すればいいのだろう?」


「あるいは俺を攻撃すれば気が済むでしょうか?」


 草野先輩はどこまでも美麗に苦笑する。「君を攻撃するなんて考えられないよ、君と僕は誰が何と言おうと最高のペアだった、そこで二人は強く結び付いていた、絆があった、その絆は君にとっては時に煩わしく思えたかもしれない、僕はそれを強固にするためにうるさく君に何度も感情的に言ってしまったこともある、僕はその度に君のことを傷付けていたんだと思う、でも君はいつも笑っていたね、そして僕はどんなときだって君と繋がっていられることがよかったし、嬉しかったんだ、僕はいつまでも君の味方だ、君は特別だ」


 そんなことを言われても俺には現実感がない。


 このやりとりはテレビドラマのワンシーンだと思える。


「ありがとうございます」


 俺はそれだけ言って目を閉じた。


 草野先輩が小さく溜息を吐くのが聞こえる。「……それじゃあ、またケンジ君の顔を見に来るよ」


「さよなら」と俺は目を開けて言う。


 草野先輩は目を細め俺を励ますように肩を優しく叩き、そして俺のことを後ろから抱き締めて耳元で囁く。「君のことが好きだ」


「俺もです」


「嬉しいよ」


 草野先輩をしばらく俺の体を抱き締め続けていた。彼の息には熱があり、それは俺の耳を赤くする。草野先輩の体が震えているのが俺には分かった。俺は草野先輩の気が済むまでテレビを見ながらじっとしていた。テレビ画面にはアニメのエンディングが流れている。


「ありがとう、」草野先輩はそっと腕の力を弱め俺の体から離れてしっかりと立った。「気が済んだよ」


「いえ」俺はテレビのチャンネルを変え、NHKのニュースをテレビ画面に映した。


「そうだ、」草野先輩は思い出したように言う。「東雲さんが君のことを気にしていたよ、もしかしたらケンジ君が学校を辞めたのは私のせいかもしれないって、細かいことは知らないし聞くつもりもないけど、とりあえず伝えておくよ、もし色々思うところがあるのなら東雲さんに連絡して上げて欲しい」


 草野先輩は俺の部屋を出て帰って行く。


 そして俺は久しぶりに東雲ユミコのことを考えてみた。すると、彼女のことは断片的なことしか思い出すことは出来なかった。ユミコが俺にとってのきっかけであり、ある程度の大きさの存在感を持った人であることは間違いないのだ。けれど高校生であったときの記憶とユミコの記憶はほとんど同じように扱われている。途方もない距離の先にユミコの記憶は小さくなり漂っているようだった。


 彼女は俺にとってのきっかけに過ぎない。


 何かが始まる際の取り掛りのようなもの。


 ユミコ、エリ、草野先輩はそれぞれ端緒、加速度、激励という風に言い換えることが出来るだろうか。


 取り掛りが俺の周りには片付けられずに散らばっている。


 それはどこに片付ければいいのだろう。


「決まっている」


 おれはNHKのニュースを見ながら言う。


「ああ、」俺は大きく頷く。「決まってる」


 そして俺は部屋を出て母とエリと一緒に夕食を食べ、風呂に入り、いつも以上に体を強く洗った。髪をドライアでブロウし、歯を磨き、髭をきちんと剃り、洗い立てのパジャマに着替えた。自室に戻り、ベッドに腰掛け、テレビを付けて、ザ・コレクターズの虹色サーカス団を聞く。すると途中でエリがドアをノックし俺の横に腰掛け、一緒に虹色サーカス団を聞いた。エリは俺に錦景女子高校で起こった出来事を詩的に聞かせる。それはこの世界の出来事ではないように聞こえる。現実感がない。それは違った世界の話。天使の羽根を広げたキティちゃんがいる世界の話だ。CDが回転を止め、テレビの音声が俺の部屋に満ちる。


「おやすみ」俺はエリの頭を撫で、そして顔を寄せていつも以上に優しく微笑みかけ、部屋から出した。


 エリは顔を赤くしていた。


「お、おやすみなさい」うなじまで真っ赤だった。


 デア・ブラザ。


 それは間違いのない苛烈な現実であり、加速度であった。


 俺は加速度を手に入れる。


 速度を上げ、現実から離れていく。


 テレビを見つめる。


 何も入って来ない。


 映像がただ流れている。


 戦争の映像だった。


 爆弾が落ちて弾けて正方形の砂漠の中の建物が砕け散って煙が細く上がる。


 現実感がない。


 遠い世界の話だ。


 まやかしだ。


 エリの顔を赤くする、俺のように完璧で隙のない偽り。


 俺は押し入れの前に立ち、指先に力を入れて開いた。


 片付けられずに無茶苦茶に散らばったものを注意深く漏れなくそこに片付けていく。


 そして朝日がカーテンの隙間から差し込む時刻になって超現実主義者はピエロと出遭うのだ。


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