第二章④

 エリの詩集、デア・ブラザを読んでしまった俺は酷く当惑することになった。十五年間という長い時間をかけて堅牢に作り上げられた彼女の印象の修正を大幅に迫られることになった。俺はエリのことが分からなくなった。エリは俺の妹で、俺は今までエリが考えていることなら何だって分かっている、という姿勢でエリと兄妹として付き合ってきた。喧嘩をするといったこともなく、常識的な仲のいい兄妹として育ってきたつもりだった。そしてこれからも、常識的な理想の兄妹として俺たちは成長するのだろうと俺は思っていたのだ。本当に、この詩集を発見するまでは。


 エリが詩を書いていたことを俺は知らなかったが、それについては特に驚いたりはしなかった。エリは純文学が好きだったし、エリは俺に向かって純文学的な気障な台詞を言ったりして楽しませることもあった。中高と演劇部に所属していたエリは、演劇に接し続けることによって詩的な薄くて透明なベールのようなものを自身の実像に纏わせ、時折普段の彼女とは全く違う顔を見せるようにもなっていた。純文学への傾倒がエリには確かにあり、詩を書いていたとしたって不思議だなんて俺は思わなかった。むしろ文学少女の自然な流れとして詩は書かれているべきもののような気もしていた。だから俺はデア・ブラザと題された詩集を発見した時、驚くというよりはむしろ納得したのだ。文学少女は青春時代の迷いと足掻きともがきと悲しみをかくも認めることによって吐き出し自律を目指す生き物なのだ。


 大学ノートの表紙に『第一詩集/デア・ブラザ』と記された題によっても、俺の精神が揺さぶられることはなかった。そこには俺に関する何かが書かれているのだろう。俺への不満であったり、俺が知らない俺の奇妙な部分を観察した結果であったり、俺を引き合いにしてとりとめのない何かについて分析していたり。あるいはそのブラザとは俺のことだけ差すのではなく、より広義な意味でのブラザであるかもしれない。数々の繋がった事柄をエリはブラザと一つにまとめて呼び、それらから及ぼされる抑圧による苦悩をここに吐露しているのかもしれない。そのようなことを俺はデア・ブラザという題から簡単に内容を推測してみたりした。結果的にデア・ブラザについての俺の推測は全て間違っていたことになる。


 もちろん俺は少しの躊躇いを思わないことはなかった。妹の詩集を勝手に盗み見ることなんて反道徳的とまではいかないかもしれないけれど、決して推奨されるという行為ではない。普通に考えるならば、エリは押し入れの中に詩集を隠していたわけだし、隠していたということは、エリは詩集を俺に絶対に見られたくなかったのだ。普通に考えればだが。


 いずれにせよ、俺は少しの躊躇いをさっと振り払い、磁石にすぅーっと引き寄せられるようにしてデア・ブラザのページを捲り始めたのだった。そして見事なまでに、その詩の世界に引き込まれてしまった。まるでそこに並んだエリの字が手足に絡み付き強い力で引き摺り込まれるようにして。そこで俺は左手で胸を押さえてしまうほどの息苦しさを感じるのだった。詩は、息苦しさを致死的に俺に強いて来る。そして詩は俺がその世界から脱出することを許さなかった。それをすっかり、確実に、丹念に、一文字の漏れもなく、読み終えるまでは。


 そこに群れをなした詩の数々は具象性を極端に弾いた、どこまでも暗示的なものだった。俺以外の誰かが読んだとすれば、それは極限までに洗練された美しい詩だと評価するだろう。その美しさの中にはそれだけに留まらずに深みがあり、広がりがあり、青空の匂いだって、風の歌だって聞こえるとでも言葉を添えるだろう。それくらい清純で潔癖で鋭くも洗練され、尚且つ大きなものを無限に包み込むことの出来る優しさを兼ね備えた、総合的に完璧な詩集だった。エリは天才だ。この才能は押し入れの中で静かに息を潜めている場合ではない。一刻も早く押し入れから跳び出し、羽ばたかなくてはならないものだ。エリの詩は、あらゆる全てを掬う可能性のようなものを秘めている。


 俺は感動的にそう思うのと同時に、戦慄していた。詩の抽象的で曖昧で暗示的な部分は、俺には具体的なこととして読むことが出来た。そこには滲んでなどいないハッキリとした輪郭があったしきちんとした現実味があった。狂いなく正確にストレートに跳んできた。迫ってきた。襲われたと言っても言い過ぎじゃない。エリの詩はずっしりとくる確かな重みと計算尽くされたまでに磨き上げられた鋭い刃とそりを持っていた。気付けば俺はあらゆる部分を痛めつけられ傷付けられ血を流している。そして心を抉られている。俺だけに全てが読み解けるようにエリがこれらの詩を書いたということは間違いなかった。エリがこの詩集を俺に読ませる気があったのか、なかったのか、それはこの段階では分からない。けれどエリは確実に俺に狙いを定めてここに詩を集め上げたのだ。そして俺はデア・ブラザを読み酷く戦慄している。頭から爪先まで余すことなく震えていた。俺だけが、震えられるのだ。


 最後のページには天使の羽根を背中に広げたキティちゃんの絵があった。エリが書いたものだ。一見、それはとても可愛らしく描けている。色鉛筆で丁寧に色づけられ、このまま一つの版権になってもおかしくないと思えるほど完成度の高いイラストだった。しかしそのキティちゃんは見れば見るほどグロテスクだと思えた。どこが何がと具体的に示すことは出来ないが、グロテスクな部分は巧妙に隠されていて絶妙に全方位へ放たれていた。俺は目元に涙の気配を感じるほどぞっとした。彼女の狂気のようなものに直に触れてしまったのだと思う。


 どうして俺は触れなければならなかったのだろう。


「宿命だ」おれは短く囁くように答える。


 そして俺は詩集をそっと押し入れの中に戻し、自分の部屋に戻り、テレビを付けた。時計を見れば、錦景市は午後の四時を少し回ったところだった。チャンネルを何度も変える。ドラマの再放送と夕方のワイドショー。どれも見ていられないほどにつまらない。NHK教育テレビは不思議な踊りで子供たちを教育しようとしている。教育……。


「教育」おれは呟く。


 地元のGテレビでチャンネルは落ち着いた。G交響楽団がチャイコフスキーの悲愴を奏でている。俺はテレビの画面から目を離すことなくその響きに耳を澄ませ続けていた。その番組が終わっても俺はGテレビを見続けた。俺は現実的になりたくなかった。「そうだ、俺は現実的になるべきじゃない」どんなに番組がつまらなくても俺はテレビの前から動くことなく番組を見続けた。錦景市の夜の七時に、エリが帰ってくるまでは。


「兄さん、ただいま」エリは俺の部屋のドアを軽くノックしてすぐにドアを開けてその隙間から顔を入れた。


「おかえり」俺はテレビ画面から目を離さなかった。


「もぉ、電気くらい付けて下さいよ、目が悪くなりますよ、」そう言ってエリはドアの横の電気のスイッチを押して俺の部屋の中に入って来る。「そんなに真剣に何見てるんです?」


「別に」俺はエリに緊張していた。血液が滞って指先や爪先が冷たくなっていた。俺はエリの顔を直視することが出来ない。


「ふうん、」エリは俺のベッドの上に鞄を置き、俺の横に寄り添うように腰掛けた。「私の部屋は綺麗になりましたか?」


「うん、」俺はテレビ画面の海外のホームドラマに集中する。どういう流れか、笑いが起こっている。「ピカピカだよ、苦労したんだから、しばらくは綺麗にしておいておくれよ」


「わぁ、ありがとうございます、」エリは笑って、俺の腕を抱き締める。「頑張ります、自信はありませんけど、んふふっ、ねぇ、兄さん」


「ん?」


 俺はエリの顔を見てしまう。


 エリは黙ったまま上目で俺のことを見つめて来る。


 エリは笑っている。


 まるで俺が詩集をすっかり読んでしまったことを知っているように、確実に狙いを定め、狂気的に微笑んでいる。


 これまでのエリの顔と、今のエリの顔は明らかに違っているように俺には見える。


 エリは何かを言い出すこともなく、俺が何かを言い出すのを待つでもなく、そして沈黙を嫌がることもなく、ただ微笑んでいる。


 兄さんは私の気持ちを分かっているのでしょう?


 でしたら、答えのようなものを私に示してくれなければなりませんよね。


 私は話すことよりももっと明確で分かりやすい手段を使って心を開示しました。


 次は兄さんが心を開示する番です。


 心の開示に時間が掛かるのであれば私はいくらでも待ちます。


 いくらでも待っていられます。


 兄さんの準備が整うまで、永久的にでも。


 私の心は第一詩集に書きました。


 それは未来に予告して、変わることのない純真であり、純愛であるのですから。


 エリは微笑みながら、声に出さず、そう俺に語りかけてくる。


 狂気だ。


 エリはきっといつまでも待っている。


 その前を俺は簡単に通り過ぎることは出来ない。


 そうだね?


「当たり前です」


 エリはいつまでも微笑んでいる。


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