第二章③
俺は例によって本日もリビングのソファに横になってミステリィ小説を読みふけっている母親に自室のフローリングにワックスを掛けたいということを話した。すると母親はミステリィ小説から視線を離し、不思議そうに俺の顔をじっと二秒間見つめてから、戸惑いを隠すように頬を引きつらせて微笑んだ。「どうして?」
「偶にはいいでしょうに、部屋の片づけを始めたらそこまでやりたくなったんだよ」
俺はワックス掛けに特別な意味のようなものなんてないと装うようにそっけなく言った。ワックス掛け自体に意味はない。けれど、意味をどこからか引き出してくる作業の前段階に手順として踏んでおかなければならない作業だった。そういう点においては特別なことのように思われた。押し入れに分け入っていくためには、ワックスの科学的でどこまでもとりとめのない匂いを部屋に満たし、洗い出したような感覚を俺が抱かなくてはならない気がした。要するに、ワックス掛けをしなくちゃ俺の気が済まないのだ。
「この家を建ててからもう十五年以上建つけど、ワックス掛けをしようなんて思ったこともなかった」まるでこの殺人現場でそんなトリックが使われたなんて思いも寄らなかったとでも言いたげな表情を顔に浮かべていた。
「構わない?」
「そうね、」母は頷き、そして読んでいた小説に栞を挟み立ち上がる。「私も手伝うよ、それにせっかくだし、やれるところは全てやってしまいましょう」
ワックス掛けについてノウハウのなかった母はすぐにパソコンを立ち上げてそれについて検索をかけた。ワックス掛けをして十分な光沢が放たれるためには、古いワックスを剥がしてから新しいワックスを塗らなければならない。当然ながら、その作業に取り掛るためには十分に床の汚れを落とす必要がある。
母と俺はその日のうちにホームセンタに出かけて床用ワックスとワックスの剥離剤と強力な床用洗剤を購入した。どれも海外のメーカのもので、強力な効果の代わりに、誤って素手で触れたり目や口に入ったりしたときには人体にかなりの危険を及ぼすことを約束したような劇薬らしいパッケージだった。母はそのパッケージが気に入り、それらを選んだのだ。母は国内メーカの規律にガチガチに支配されてソフトな効果しかない家庭用の洗剤を全く信用していなかった。
次の日から母と俺の大掃除が始まった。まずリビングから手を付けた。簡単に掃除機を掛けてからフローリングを全て露出させるために家具の類を一度全て廊下に出し、絨毯を干した。再び床に掃除機を掛け軽く水拭きをしてから強力な床用洗剤でこびり付いた汚れを落としていく。そして剥離剤を使って十五年前の古いワックスを剥がしとり、完全に床から水分が抜けたところで、新しいワックスを塗っていく。塗り残しがないように注意深く俺はフローリングワイパを動かしていった。斑のないことを確かめ、乾燥するのを待つ。およそ二十分で乾くとワックスの説明書きにはあったが、母は一時間待った。海外のメーカの説明書きを母は全く信用していなかった。一時間後、リビングの床はまるで新築の床のように光沢を放っていた。俺はその上を歩いてみて、まずは一つやり遂げたという満足感を得ることが出来た。しかし俺の心はどこまでも乾いていた。このワックスを掛けたばかりのフローリングの床のように、ドライだった。
またひとつ。
まだひとつ。
「ほら、ぼさっとしてないで家具を戻していかなくっちゃ」母はドライに言う。しかしとても満足そうだった。
リビングのレイアウトは少し変わる。母の指示によってテレビの位置が出窓の横になり、ソファがそのテレビの対面に置かれた。それによって新たにもう一つ、タンスか何かを置けるようなスペースが壁際に産まれた。丁度、リビングに全てを運び入れたタイミングでチャイムが鳴り、クロネコヤマトが新しい本棚を届けてくれた。その本棚は天井に届きそうな程に背が高く、色は格調高いクリーム色をしていた。開いたスペースにその本棚はすっぽりとはまった。母はそこに今まで段ボール箱に無造作に収納されていたミステリィ小説をせっせと移していった。ワックス掛けをすると決めたときから母は全てを計画していたようだった。以前から母はミステリィ小説の置き場所に困っていたのだ。ミステリィ小説ばかり並ぶ背の高い本棚のあるリビングはどこか、ミステリアスな匂いがする。そのミステリアスに誘われるように、エリは本棚に並んだミステリィ小説を手に取りソファに体を沈ませて読むようになった。それまでエリは純文学や青春小説のようなものばかり読んでいたと思うから、それは変化の一つだと思う。
変化は少なからず及ばされつつあるようだ。
リビングと同じような手順を踏みながら、母と俺はキッチン、廊下、両親の寝室、父の書斎と大掃除を進めて行った。父は帰って来るたびに自宅が綺麗になりレイアウトが変わっていることを無条件に楽しんでいるようだった。そしてガーデニングでも始めてみようかな、と休みの日に庭の掃除に手を付けた。ガーデニングの教本を買ってきて、父は縁側でいつまでも庭を見つめながら教本を読みふけっていた。あれか、これか、と計画を立てているのかもしれなかった。
一週間ほどで一階のワックス掛けは終わり、エリが学校に出ている間に階段と二階の廊下の方を終わらせた。この頃になるとすでに俺の技術は随分と上達していて短い時間で終わらせられるようになっていた。仕上がりも文句ない。いつでも掃除業者で働けるくらいの腕前にはなっていると思う。俺は自室のワックス掛けをあっさりと済ませる。そして完璧に片付けられ綺麗になった部屋で、唯一手付かずの押し入れを睨み見ながら、俺は隣のエリの部屋のことを考える。この家で新しいワックスが塗られていないフローリングはエリの部屋だけになった。押し入れはエリの部屋が済んでからだ。
「エリの部屋にもワックスを掛けようと思うんだけど、どうする?」錦景市の夜の七時、エリが学校から帰ると俺は聞いた。
「え、私の部屋もやってくれるんですかぁ?」エリはソファの上のクッションに埋めていた顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。学校の後、疲れ果てて帰ってくるとエリは大概自分の部屋にすぐに向かうことはなく一階にリビングのソファに死んだように突っ伏して体から疲れを逃がしている。
「もちろん」俺はエリの頭の横に腰を降ろす。
「じゃあ、お願いしようかしらん、」エリは甘えるような声を出して俺の膝の上に頭を乗せた。「あ、でも私の部屋、滅茶苦茶だから、片付けることから始めないと、あんっ、でもぉ、それをするとなると面倒臭いなぁ、課題も一杯ありますし、脚本を覚えなくっちゃいけないですし、あんっ、もぉ、時間がいくらあっても足りないんだから」
エリは名門の錦景女子高校に通っていた。俺が通っていた中央高校に比べれば偏差値は一つしただが、中央高校に比べるとカリキュラムがしっかりしていて、課題なども多いようだった。そしてエリは錦景女子高校の演劇部に所属していて、次のコンクールに劇で重要な役を与えられたみたいで、毎日が忙しそうだった。そして、そればっかりが理由ではないだろうが、エリの部屋は素晴らしく無茶苦茶だった。俺の押し入れと同じくらいの無茶苦茶さ加減だ。
「だったら俺が掃除しようか?」俺は提案する。「何せ時間ならたっぷりあるんだ」
「本当ですか?」エリは手の平を合わせて下から微笑む。
「あ、いや、でも、」俺は思い直す。「俺が勝手に掃除したらまずいよなぁ」
「どうしてですか?」エリは人差し指を唇に当ててまずい理由が全く思いつかないという風な無垢な表情を顔に浮かべている。
「気にならないならいいんだ、俺がエリの部屋を片付けて抵抗がないんだったらいいんだよ」
「はい、もちろん」
「そう、だったら、明日にでも始めるよ」
「はい」
「開けてはいけない引き出しとかある? 見られたくないものとかあったら予め押し入れかどこかに隠しておいてくれれば助かるよ」
「いいえ、」エリは俺の膝の上で首を横に振り、艶やかで潤い光沢を放つ長い黒髪を揺らす。その光沢はワックスを掛けた後の床とはどこまでも違っている。「開けてはいけない引き出しなんてありませんし、兄さんに見られたくないものなんてありませんから、兄さんが思うがままに、片付けて頂けたら、それでいいんです」
というわけで次の日に俺はエリの部屋の掃除を始めた。その日はエリが朝早くに錦景女子のセーラ服を纏って「兄さん、いってきますねぇ」と出かけて行った。だから平日だった。すでに俺の体の中から曜日の感覚のようなものはなくなっていてエリがいるかいないかで世間で今日が平日か休日なのかの区別を付けていた。その日は雲一つない快晴で、カーテンを開けると太陽の光が鋭く部屋の中を照らし出した。エリの部屋の滅茶苦茶さ加減はその強い日差しによってより強調されていた。久しぶりに見るエリの部屋は俺を驚かせそしてたじろがせるほどに汚かった。中学生の頃のエリの部屋も大抵は滅茶苦茶だったが、今の状態はそれを軽く凌駕していた。脱ぎっぱなしのシャツや下着や靴下やくしゃくしゃに丸まったティッシュや紙くずやお菓子の包み紙や空のペットボトルが至る所に散乱していた。床には本当に足の踏み場がなく、俺は足で物を押しながら前に進むしかなかった。ベッドの上はキティちゃんのぬいぐるみだらけで、それが山のように積み重なっている。机の上は引き出しの中身をぶちまけたみたいに筆記用具の類やチョコレートの包み紙が散乱していて、その隅に置かれたマグカップは近くに顕われた形跡がなく珈琲が少し残っていた。珈琲を溢した跡が染みのようになって机の上を流れていた。引き出しの一つはプリントを入れ過ぎて完全に閉まっていない。何着もの上着が椅子の背もたれに重ねて着せられている。空気は埃っぽく、斜陽の中に埃の濃さをハッキリと見て取ることが出来た。そして匂いが気になった。何かが腐っているという嫌な匂いではなく、空気が滞留し続けていたせいで濃さを増した、おそらくそれはエリの匂いだった。そしてその中に、少しだけ煙草の匂いのようなものを感じる。そして机の隅に、焦げた跡のようなものを見つけた。
俺は機械的に掃除を始めた。明らかなゴミと分かるものはポリ袋に放り込んでいった。脱ぎ散らかされたものはバスケットで回収し、後で洗濯機を回すことにする。ひとまず机の上を一通り片付けて水拭きしてから散らばった教科書やノートやらを重ねて置いていく。引き出しの中のものも一度全部出して整理した。一番下の引き出しにはCDが並べられていたがそれも見事にジャケットと歌詞カードとディスクがバラバラだったのでそれも直してアーティストごとに並べ変えた。机の周りがとりあえず済むと布団をベランダに干し、キティちゃんのぬいぐるみの数々を廊下に出し、汚れたシーツを剥がす。シーツは汗か何かで至る所に濃い染みがあり、妙に湿っていて点々とカビが発生していた。そのシーツは洗っても汚れが取れないだろうと思ってきちんと畳み、ゴミ袋に入れる。俺はどこまでも機械的にエリの部屋に掃除機を掛けていく。埃はすぐに一杯になる。埃を捨て、再び掃除機を掛けていく。ワックス掛けに邪魔な家具を一端廊下に出し、フローリングの床の汚れを強力な洗剤を使って除去する。剥離剤を使って古いワックスを剥がし落とす。新しいワックスをむらなく塗る。そして乾くのを待つ。
俺はワックスが乾くのを待つ間、自室に戻り、エリの机の引き出しの中にあったCDの中からザ・コレクターズの虹色サーカス団を借りて聞いていた。エリは小学校の高学年くらいになってからロックンロールのCDを集め始めて、俺はエリが勧めて来るままにロックンロールを聞いていた。俺は聞く音楽を選ぶ必要がなかった。エリが俺に進めてくれるロックンロールはどれも素晴らしいものだったし、俺の好みに合っていた。そしてエリの引き出しに入りきらないCDは俺の部屋の本棚に並べられていて、今では俺の部屋に並んだCDの方がエリの部屋にあるCDの数より圧倒的に多かった。エリはそれを口実に俺の部屋に勝手に入ったりする。そんなことは今更気にならない。今はエリと煙草の関係について、ぼんやりと考えていたりする。
虹色サーカス団を聞き終え、俺はエリの部屋に戻った。時刻は午後の三時を少し過ぎていた。ワックスが完璧に乾き綺麗な光沢を放っていることを確認してから、俺は廊下に出していた家具やキティちゃんのぬいぐるみを中に戻していく。ベッドには洗い立てのシーツを掛ける。干していた布団を取り込みベッドの上に畳んで置く。エリの部屋はすっかり綺麗になった。この状態がどれくらいもつだろうかと考えながら、俺は部屋の中心から見回してやり残したことがないかをチェックしていた。そして俺はふと、エリの押し入れの中が気になった。
俺の部屋と全く同じ造りの何の変哲もない、押し入れの中が気になった。
そこには一体、何が隠されているのだろう。
そして俺の小さな好奇心を針で突いて刺激して大きくするように、押し入れには薄らと隙間があった。
気付けば俺はその隙間に手を入れていた。
そして俺は見つけてしまう。
開ければそれはそこにあったのだ。
エリは俺の言葉を信じて、俺に見られたくないものをそこに隠したのかもしれなかった。
あるいはエリは、俺にそれをきちんと見つけさせるために押し入れを開けてすぐそこにそれを置き、うっすらと隙間を残したのかもしれなかった。
いや、それは変な話だ。俺に見られたかったらそのまま机の上にポンと置いておけばいい。
しかし分からない。
屈折しているからだ。
それは屈折しているものだった。
エリは屈折しているのかもしれない。
いや、そんなことはない。
エリに限って……。
しかしこの部屋には煙草の匂いがする。
煙はどこまでも直線的な光を滲ませ、屈折させるもの。
そういう気配がここにはあった。
いや……。
本当のことは何も分からない。
いずれにせよ、俺はそのときに見つけてしまったのだ。
デア・ブラザ。
それが、エリの初めての詩集のタイトルだった。
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